台湾有事論に欠けている科学的視点


◎毎日新聞政治プレミア 小川和久(68行2465字)

台湾有事論に欠けている科学的視点

台湾有事論の高まりを前に、1970年代後半の北方脅威論の時代を思い出している。
激しさを増す米ソ冷戦のさなか、日本国内では何十個師団ものソ連軍が北海道に上陸侵攻してくるとの危機感が高まり、マスコミでもそれを煽るような報道が相次いだ。
しかし、現実には海上輸送能力の限界から、北海道に投入できるのは3個自動車化狙撃師団(機械化歩兵師団)、1個空挺師団、1個海軍歩兵旅団、1個空中機動旅団にすぎず、全滅を覚悟しない限り、作戦が発動される可能性はなかった。
意外かも知れないが、そういう角度から軍事を科学的にとらえることを教えてくれたのは、1等陸佐になったばかりの防衛大学校1期生たちだった。
詰まるところ、このときの騒ぎはワシントン発、そして永田町発の政治的な北方脅威論にすぎなかった。空騒ぎから醒めたあと、国民の防衛意識が高まるには長い年月を必要とした。今回の台湾有事論の高まりには同じ側面がある。
今回の発端は、当時のインド太平洋軍司令官デビッドソン海軍大将が3月、上院軍事委員会で「中国の脅威は6年のうちに明らかになる」と述べたことだった。それは3ヵ月後、米軍のトップであるミリー統合参謀本部議長によって「中国が台湾全体を掌握する軍事作戦を遂行するだけの本当の能力を持つまでには、まだ道のりは長い」と否定される。
しかし、不思議なことに日本のマスコミはデビッドソン発言のトーンで台湾有事を報道し、ミリー発言に目を向けることはない。
本稿では、中国の武力行使の動きを封じるため、現在の台湾有事論に欠けている科学的な視点を、特に武力侵攻のカギを握る海上輸送の常識に絞って紹介し、脅威論によって歪曲されがちな議論を整理したいと思う。
デビッドソン発言に喚起された台湾有事論は、ある日突然、中国の大軍が台湾に着上陸侵攻し、軍事占領を果たすことで武力統一を実現するかのように受け止められている。それは本当だろうか。
台湾侵攻にあたって、中国側はサイバー攻撃による台湾側の防衛体制の攪乱、台湾国内での騒乱などを同時進行させるだろうが、それは武力統一の決め手にはならない。現在の議論に抜け落ちているのは次のような着上陸作戦の前提条件である。
第1は海上輸送能力の問題だ。対艦攻撃能力を突出させた台湾軍の反撃による損害を前提に上陸作戦を成功させるには、中国はざっと100万人規模の陸上兵力を投入する必要がある。台湾を国家として承認しているかどうかの議論が残ろうとも、台湾防衛を自国の国益とする米国の来援も中国にとっては想定内だろう。そうなると100万人の半分は洋上で撃破されると考えられる。
筆者が教育を受けたのは北方脅威論時代のソ連軍モデルだが、定員1万3000人、車両3000両のソ連軍の自動車化狙撃師団を1週間分の燃料、弾薬、食料とともに海上輸送するには、1個師団で25〜50万トンの船腹量が必要とされた。
船積みは重量トンではなく容積トンで計算する。人間1人が4トン、40トンの戦車は90トンとなる。これは今日でも世界各国に共通する海上輸送の計算式である。最近、米軍は船舶の甲板面積を基準に計算する方式に変更したが基本は同じだ。北方脅威論の当時と比べ、装備品も大型化している。100万人規模の部隊だと、必要な輸送船の船腹量は3000万トンから5000万トン。これは中国が保有する商船6200万トンの過半を占める数字で、それを投入する能力は中国にはない。
第2に、台湾有事論で決定的に欠けているのは上陸適地についての視点である。3000人規模の機械化部隊を上陸させるには岩礁など障害物のない幅2キロほどの海岸線が必要になる。ところが台湾本島には海岸線1139キロの10%ほどしか上陸に適した場所はない。
この限られた上陸適地目指して進んでくる中国軍は、台湾側の砲兵部隊の射程圏外70キロあたりの海域で輸送船から上陸用舟艇やホバークラフトに移乗し、海岸に殺到することになるが、航空優勢を確保できない中国側には上陸部隊を上空から支援するエアカバーに限界がある。台湾側は上陸適地に陸軍部隊を集中することができるから、中国側は台湾側の陸上と上空からの攻撃によって壊滅的な損害を被ることになる。
福建省に1600基以上展開する短距離弾道ミサイルなどによって台湾の政治、経済、軍事の重要目標を攻撃し、その混乱に乗じて短時間のうちに傀儡政権を樹立する斬首戦にしても、米国との全面戦争を招く危険が大きく、中国が採用するとは思われない。
さらに中国の軍事力について見落とされているのは軍事インフラの立ち後れの問題である。代表的なものは、軍事力がハイテク化されるほどに高い能力が必要になるデータ通信衛星だが、米国が専用衛星15機だけでなく、データ中継に使える衛星10機以上を保有するのに対して、中国はようやく5機運用しているに過ぎない。
軍事インフラの課題は、中国の対艦弾道ミサイルにも影を落としており、動いている米空母を追尾し、直撃する能力はいまだに備わっていない。
中国側に残された選択肢はハイブリッド戦である。ハイブリッド戦は、軍事力を含む「何でもあり」の戦法で、人民解放軍の喬良、王湘穂両大佐が1999年に出版した『超限戦』で述べているように、政治、経済、宗教、心理、文化、思想など社会を構成する全ての要素を兵器化する考えである。2014年のクリミア半島では所属不明の武装集団が士気の低いウクライナ軍を駆逐し、ロシア寄り住民の支持のもと、ロシアへの併合が無血で行われた。同様に、台湾の民心を中国寄りにすべく、あらゆる手段が行使されているとみなければならない。
それを抑止するには、あらゆる兆候について台湾は日米両国に通報するシステムを構築し、次いで日米は「台湾有事は日本有事と重なる」との認識を明らかにして、台湾から通報があり次第、国境付近に軍事力を緊急展開する態勢を整え、その日米台の連携を世界に公表するのである。ここから中国に手出しを躊躇わせる抑止効果が高まることを忘れてはならない。
(68行2465字)













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