『現代思想』20年3月臨時増刊号掲載の千田論考について


『現代思想』2020年3月臨時増刊号掲載の千田有紀氏の論考「「女」の境界線を引きなおす―「ターフ」をめぐる対立を越えて」につきまして、既にゆなさん(https://snartasa.hatenablog.com/entry/2020/02/20/034820)や夜のそらさん(https://note.com/asexualnight/n/n8ef173987d74)、小宮友根さん(https://frroots.hatenablog.com/entry/2020/02/23/050520)など複数の方から批判がなされており、また、トランス排除の問題については同誌2019年9月号掲載の拙稿「トランス排除をめぐる論争のむずかしさ」にて基本的な考えを述べていますので、論点として改めて付け加えることは特にないのですが、近い時期に同じ雑誌に同じテーマで寄稿させて頂いた人間として、なんらかの考えを示しておくべきかと思いました。当該論考は既に丁寧な批判を加えられていますので、以下に記載することは子細な精読・批判検討ではなく、いささか散文的な内容となりますが、ご容赦ください。
 
 既に指摘されている通り、千田論考が様々な問題点を有すること―具体的には、トランス排除の問題に関して先行する議論(当事者の声を含む)の参照が十分でない点や、反トランス側の立場に偏った書き方が見られる点、またそもそもの論旨の不明瞭さ―について、私も同意しています。
 千田さんの意図や動機については、ある程度までは推察できるところもあります。千田さんはおそらく、近年のトランス排除の問題をめぐって、インターネット上で対話や議論すら困難になっている状況を憂慮し、それを動機に執筆されたのではないかと思います。そのような動機は、私が昨年の『現代思想』寄稿を執筆した際に持っていたものでもあります。また、女性専用の公共スペースの使用をめぐる問題に関して、私の考えを簡潔にまとめれば次のようになります:「現状、公共スペースにおいて男性/女性以外の身体が想定されていないことが根本的な問題であり、その背後には性別に関する既存の社会規範・制度の不平等な(トランス排除的な)あり方がある。そのような社会規範・制度を変えていくには時間がかかり、またその過程では軋轢も生じうるが、だからといってそこにある不平等を温存してよいわけではない」。おそらく千田さんも、論考内でトイレやスポーツの例を出されたときには、似たような考えが念頭にあったのではないかと推測します。
 千田さんのnote記事(https://note.com/sendayuki/n/n62aebf2fcd7e)によれば、編集サイドから依頼されたテーマではないということですから、ぜひこの問題を取り上げたいという意志がおありだったのではないかと思います。
 しかし、そうであればこそ、千田さんはこの問題に関し、ご自身の視点から見えているものや抱いている実感について、よりいっそう反省的になるべきだったのではないかと考えます。
『現代思想』19年9月号寄稿において私は、「トランス女性の置かれた困難について社会的に十分に知られるには程遠い現状において、知らず知らず憶測やフォビアにはまり込んでいる可能性には慎重であらなければならない」(p. 170)と書きました。千田論考における、トランスフォビアを単にやむを得ないものとして擁護して済ませるような書き方や、「トランス女性」をはなから含めない意味で「女性」の語を用いたり、トランス排除に対する暴力的な反応だけを明示したりといった書きぶりは、現在の社会におけるトランスジェンダーへの等閑視や負のレッテル張りをそのまま踏襲してしまっているもののように思えます。

 以上のように、千田論考への批判は妥当なものであると思います。その上で(千田論考それ自体の個別的な問題は非常に大きいと思うのですが)今回の件の背後にあるより一般的な問題として、「トランスジェンダーについて論じる際に何を前提とすべきか」に関する認識が十分に共有されていない、ということは言えるかと思います。とはいえ、その共通認識は誰によってどのような仕方で作られていくことができるのか/作られていくべきなのか、というのは非常に難しい問題です(もちろん当事者の声ありきは大前提ですし、当事者と一口に言っても様々な立場の方がいらっしゃることも大前提です)。まずはトランスイシューがもっと様々な文脈において適切に取り上げられ、認知されることが重要なのだろうと思います。

 最後に、当然のことではありますが、千田論考への批判にかこつけた揶揄・誹謗中傷・脅迫は一切正当化できるものではないと考えます。個人の尊厳を傷つけるとともに、問題自体を矮小化する行いであるからです。千田さんに対しての中傷ももちろんそうですが、批判の声を上げられた非アカデミアの当事者の方に対してのそのような行為は、いっそう深刻であると考えます。また、今回、当事者の方がたいへんな労をとって声を挙げてくださっていることには、改めて敬意を表します。
 なお、千田さんは論考執筆に先行してTwitter上でトランス排除に関する発言を行い、批判を受けていたようですが(https://togetter.com/li/1451901)20年2月28日現在、千田さんはTwitterアカウントを削除されているようです。今後、千田さんが、Twitterを介してではなくとも、何らかの仕方でご自身の書いたことやそれに対する批判について改めて熟考してくださることを願います。
 
***

 以下、本題からは外れる内容となりますが、自分がトランスジェンダーに関する話題を扱う際のスタンスについて書いておきます。

 私はこれまで、『現代思想』寄稿の他にも、トランスジェンダーや性別違和(性同一性障害)について口頭発表や論文等の文章において取り上げる機会を頂いてきました。私自身は、「いわゆる性別違和で深く悩んだり、性別移行を考えたりといった経験はない」という意味において、トランスイシューに関して当事者性のない人間です。それだけに、当事者の方の経験やニーズ(もちろん個々人により様々でしょうが)が自分の想定の外にある可能性を常に心に留めていなければならないと考えてきました。自分と異なる他者の経験やニーズを全て先回りして知ることはほぼ不可能ですが、異なる他者の経験やニーズが自分の想定できる範囲のことがらとどれだけ異なっていたとしても、それはなんらおかしなことでも、驚くべきことでもない、という構えを持つことは、ある程度可能だろうと思います。この構えは私にとって他者への敬意、尊重、謙虚さの根本にあるものです。そして、そのような構えは、具体的な声にたくさん触れることを通してこそ養われるものだと考えています(私は、授業等で性的マイノリティの問題に関する入門的な話題を扱う際には、抽象的な知識の話題だけで終わらないよう、たとえばウェブサイト「LGBTER」(https://lgbter.jp/)を紹介しています)。

Reply · Report Post