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11th Apr 2011 from Twitlonger

■原子力と医療業界との結びつき

 二つの業界[=原子力と医療業界]は、X線や医療用放射性物質という医療品によって、原子力開発の時代から強く結びつく要素があった。

 中曾根康弘が原子力予算を国会に提出した時期には、全世界で大気中の核実験がおこなわれ、地球全土で核実験反対の猛烈な運動が展開された。映画監督の亀井文夫は、その大量核実験時代に、すぐれたドキュメント映画を世に送った。題名は、当時の人びとの感情をそのまま生かし、『世界は恐怖する』とつけられた。戦時中に『戦ふ兵隊』という反戦映画をつくり、上映禁止処分にあった勇気と鬼才を併せ持った亀井監督である。

 スリーマイル島原発事故のあと、私たちは市民運動のなかで、このフィルムの上映会を何度もおこなったが、この作品では、日本が、広島と長崎に原爆を投下された被爆国として、特に放射能について世界に正しい知識を普及する大きな役割を果たした状況が、克明に、しかもすぐれた科学者が登場して、実証的に描かれていた。しかし連続上映会後、私たちの心に最後に残ったのは、「当時これほど放射能の危険性を全世界に訴えた日本の科学者たちが、中曾根の原子力予算の国会提出後、なぜ突然、原子力に走りはじめたのか」という疑問だった。そしてみなで歴史を調べたところ、映画に登場した放射性同位元素協会の良心的な科学者たちは、学会から追放され、「学者がぐずぐずしているから、札束でほっぺたをひっぱたいてやれ」という中曾根のひと言でメンバーが大幅に入れ換えられたという。日本の天才物理学者・武谷三男氏が、この危険な暴走する原子力政策に異議を唱えて彼らと訣別したのが、この時代であった。それまで核実験の放射能汚染を追跡してきた科学者集団は、代って、名前も日本アイソトープ協会となり、X線や医療用放射性物質を”善玉”として見せることによって、日本中にバラ色の原子力という夢をまく役割を果たしはじめた。

 その学会の中心人物は、GHQが選んだ茅(かや)誠司であった。49年に日本学術会議が発足すると、茅誠司はその副会長として「原子力の研究にとりかかるべきである」という提案を52年におこない、これに刺激されて、54年に中曾根が原子力予算を提出することになった。実はその年から、茅誠司は日本学術会議の会長となって君臨し、学会の主力を原子力に傾注させ、さらに、57年には東大学長となって、東大そのものを原子力研究の学府として育てはじめたのである。これと並行して、56年元旦に原子力委員会が発足し、初代の委員長に、戦前の内務省警察あがりの正力松太郎が就任した。続いて、5月19日には科学技術庁が発足し、初代の長官に、同じ正力が就任した。しかし彼らのあまりに強引で非科学的なやり方に、日本人初のノーベル賞学者・湯川秀樹が原子力委員を辞任した。

 茅誠司は、日本アイソトープ協会の会長となり、初期から、原子力と医療業界を深くとりむすんだ。この誠司の長男・茅陽一が、ちょうど今、科学技術庁で、「高レベル廃棄物処分懇談会」を動かし、北海道、青森県、岡山県、岐阜県などの処分場候補地の住民をおびやかしている。また、”もんじゅ”火災事故の発生後、何としても原子力開発を続行しようという原子力委員会の主導のもとに、原子力政策円卓会議というものがスタートしたが、そこに司会役(モデレーター)として登場したのが、この茅陽一であった。

 今日では、X線と医療用放射性物質が、医療費という面で病院と医療業界に莫大な収入をもたらす仕組みになっている。医療収入の大きな目玉が、”検査”と”投薬”であるからだ。無用の検査と投薬によって、どれほど多くの”もの言えぬ患者”が苦しめられてきたかは、無数の人の知るところである。その中心部隊となったのが、57年に発足した科学技術庁付属の国立研究機関「放射線医学総合研究所」(放医研)であった。放医研は、61年に病院を開設し、”放射線による癌治療”という名目で研究をスタートすると、やがて患者を使った臨床研究が実施されるようになった。しかもこの中でおこなわれた速中性子線による”癌治療”は、「患者の痛みをやわらげるため」として、標準線量の3倍もの速中性子線を患者に照射し、50例にもおよぶ障害が発生していたことが明らかになった(朝日新聞・94年12月24日)。

 すでにアメリカで強い障害発生が確認され、この方法が中断されていたにもかかわらず実施されたこの臨床研究は、人体実験に近いものだったとみられている。莫大な税金を投入し、この研究が無計画に進められた時代に、78年から86年まで放医研の所長をつとめたのが、熊取敏之であった。東京電力から戸田建設に移って取締役となった中村清二(せいじ)と熊取は、義兄弟であり、戸田建設は、北海道・泊原発の建設に参加した総合建設会社(ゼネコン)であった。また、放医研所長・熊取敏之と親しかった友人が、放医研で企画課長をつとめた児玉知己(としみ)である。児玉は、現在薬害エイズで問題になっている厚生省の薬務局にいた人物だが、のちに天下りして、ミドリ十字に入社し、同社が血友病患者に非加熱製剤を販売し続けてHIVウィルスの感染を拡大させた問題の83年には、ミドリ十字で副社長という役職にあった。児玉知己一族には、前述の731部隊の戦犯免責調停人をつとめた亀井貫一郎に直結する驚くべき人脈があり、その正体については、のちにくわしく説明する。

 ミドリ十字は、89年に、大きな社会問題を起こしていた。厚生省の認可を受けずに、キセノン・ガスなどの放射性物質をフランスから輸入して、全国662の病院に検査薬として大量に販売し、総額23億7200万円の売上げを記録していたことが発覚した。しかもそのうち563の病院は、この不正を知りながら、別のメーカーで認可された検査薬を使ったようにして、保険の請求までおこなっていたのである。この事件が進行した88年度には、歩家に寮費の不正請求額は、日本全国で45億円を超えたが、そのうちミドリ十字が実に7割近い31億円を占めていた。これが、ほとんどの日本人が善意で大金を支払っている保険制度の実態であった。

 原子力と医療業界が、どれほど深く結びついているかお分かりだろう。




※『腐蝕の連鎖――薬害と原発にひそむ人脈』(広瀬隆・著、集英社、1996年) 32~37頁より。

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