ギャラハーさんによるウィルソン先生インタ記事。めちゃめちゃ長い!ので、ヨナ部分まで。


人生では、時々本当に個性の強い人に出会うことがある。ダイナミックで、正直で、感情的な人。ついつい惹きつけられてしまうような人。
デイビッド・ウィルソンはそんな人だ。
彼とほんの短い時間を過ごしただけで、まるで旧知の仲であったかのように感じる。人の警戒心を解かせるような魅力と、自分自身を冗談にできる能力を持ち合わせている。
ウィルソンには先見の明があり、彼のクライアントは高いレベルでの成功をおさめてきた。彼を表すなら、偽りのない純粋な人、というのが最も適切だろう。
Ice Timeは先日、彼に羽生結弦との仕事やキムヨナとの関係性、彼がどのように史上最高の振付師となったかについてインタビューを行った。
ウィルソンは初夏、FaOIで羽生の振付、紀平梨花、坂本花織、三原舞依らにSPを作るため日本に滞在していた。90年代に伊藤みどりに振りつけていた頃から、日本とは長い関係にある。
52歳になるウィルソンはトロントに生まれ、その北方に位置するNobletonという小さな町で育った。早くからスケートを始めたが、競技者として花開くことはなかった。
「僕は何者でもなかった。ナショナルレベルにすら到達しなかったよ。ノービスより上のクラスで競技をしたことはない。アスリートとしての技術が足りなくてね。2Aまでは跳べたけど、トリプルは跳んでいなかった。」
スケーターとしてチャンピオンになることはなかったが、Ice Capadeで演技する程度のスキルを持っていたため、5年ほど北米ツアーに参加し、成功への道のりを歩みはじめたのだ。
ウィルソンのアイドルは、死後25年経ってもアイコンとして知られている、76年五輪王者、世界王者のジョン・カリーである。
「NYで一度会ったことがあります。Sky Rinksでね。NYのIce Theatreでレッスンをしていた。あまりに緊張して、何も言えなかったよ。大きな人で…ブリティッシュ英語を話していた。」
「彼の写真集を持っていて、何時間もポーズを真似して過ごしたものだよ。僕はとてもシャイで人見知りで、自意識過剰だったんだ。カリーはその美しさで僕を魅了した。彼には、この世のものとは思えないような素晴らしい美的感覚が備わっていた。見たことのないほどの。僕にとっては彼の存在は革命だった。まるで男性のバレエダンサーのようだったよ。」
何が振付師にとって大切かを尋ねてみた。
「いい振付師になるためには、複数の要素があると思うんだ。素晴らしく独創的で音楽的で身体表現に優れているのと同じくらい、人とうまく関わる能力も必要。特定の人物にピタリとあった曲をピタリとあったタイミングで見つけるのが重要で、簡単なことではありません。毎回うまくいくとは限らない。」
ウィルソンは、振付師が毎回成功するわけではないと認める。
「うまく行った時もあれば、失望に終わったこともある。それが人生だよ。素晴らしい振付師で、人と関わるのが苦手な人もいるけど、それでいつまでやっていけるかわからない。」
当初の目標とは違う道を歩むことになる多くの人と同じように、振付という仕事はウィルソンにじわじわと訪れた。
「Ice Capadeのツアーが終わる頃から少しずつ振付を始めた。コーチも少しやったんだけど、復学することが常に計画としてあって、スケートを教えることは計画にはありませんでした。昔から建築に興味があったし、それがダメなら心理学、と考えていた。その二つが僕が興味のある分野でした。構造や建物や造形に興味があってね。家具のデザインとか。」
そして、触媒となったものについて話す。
「Ayn Randによる本を高校の時に読んで、それが建築に興味を持つきっかけになったんです。13学年まで美術の授業を選択していましたし、大好きだった。絵を描くのも得意で、芸術家とまでは言わないけどいい眼を持っていたと思う。」
後の成功について、ウィルソンは音楽を解釈する能力が一番の理由だと考えている。
「学校でバンドに入っていたので、楽譜の読み書きをする能力はありました。あと、聖歌隊にも入っていたね。でも音楽を正式に習ったことは無いんです。個人レッスンとかね。僕は素晴らしい耳を持っているけど、それは独学で学んだ父から遺伝したもの。」
「これは生まれ持ってくるものです。芸術家になりたかったら、素晴らしい武器になる。どんなに見せびらかすのが好きでも、カリスマ性があっても、音楽と合ってなかったら伝わらない。馬鹿みたいに見えるだけ。」
当初はスケートを教えるところから始めたものの、ウィルソンはコーチ業は向いていないとすぐに悟ったという。
「この仕事を目指してなかったとは言え、本当に恵まれていると思う。どんなに振付師としての仕事が好きか、早い段階で気づいたよ。教えるのも好きだったけれど、振付を頼まれるのはまた別格。最初の数年はどちらもやっていた。最初のパートナーと地方ブロックやナショナルレベルで成功しはじめた。
コーチも好きだったけれど、全く別分野なんだ。僕は性格的に、振付師の方が向いている。父親よりも、風変わりな叔父さんのポジションの方が向いているんです。」と、ウィルソンは笑いながら話した。
「コーチっていうのは大変。スケーターに対して、悪役にならないといけないこともある。皆が八つ当たりしてくる。親がクレームを最初に言ってくるのはコーチ。連盟からのプレッシャーもあるしね。」
「矛先を全て受け止めるために、強い肩を持っていないとね。僕はそれには少し繊細すぎるんだ。振付する才能があって良かったよ。コーチとしては長続きしなかっただろうからね。」

TCCCで共に働くブライアン・オーサーとは長い付き合いになる。10年以上に渡り、史上最高のコーチと目されるオーサーを共同作業を通じて近くで見てきた。
2度の五輪銀メダルと世界チャンピオンの称号を持つオーサーは、スケーターとして成功しつつコーチとしても頂点を極めた稀有な人物である。
オーサーが、スケーターとしてよりもコーチとして優れているか、尋ねてみた。
「僅差だね。僕はいろんなコーチを見てきた。振付を専門としている人はあまりいなくて、そうしている僕らはたくさんのコーチと働く機会がある。いろんなコーチングを見てきたけれど、オーサーは素晴らしいよ。スケーターとして成功を収めた人が、ガラリと変わってそれを教えることができるというのはあまり聞かないよね。過去10年に渡って、彼がそれをするのを見てきた。教えているのは天才ばかりではなくて、それはあまり知られていない。テレビでは、いろんな国のユニフォームを着て、オリンピックチャンピオンを教える姿ばかりだものね。」
ウィルソンは、彼が一番感心するオーサーの姿を一般人が目にすることは無いという。
「平均的な能力を持つ生徒を教えるブライアンを見てきた。3年くらい2Aに苦戦している生徒とかね。でも彼は絶対に諦めない。彼はハーメルンの笛吹きだ。ブライアンはチャンピオンだし、プロとしても輝かしいキャリアを積んでいた。全て持っていたし、努力した。プロとしてもやりきった。どんなスケーターよりもね。
彼とカート・ブラウニング。ブライアンはTV特集にも出て、ツアーもやって、広告にも出演して。セミナーや講演も。彼はこのスポーツにあらゆる面で向き合ってきた。」
ウィルソンは、オーサーが収めた成功は天賦の才だと言う。
「教える才能というのもまた、生まれ持ったものだと思う。他にもチャンピオンが指導者になろうとしているのを見たことがあるけど、忍耐力が足りなかったり、噛み砕いて教えることができないことが多い。彼のような質の人はメンターやアドバイザーになることが多いと思うけれど、彼は直接教えるのが好きなんだ。僕は自分でやる、ってね。ミスター直し屋。彼みたいなコーチに教わりたかったと思うよ。」

ウィルソンは、そのキムヨナとの長い関係性でもっとも知られているかもしれない。2人は長年を耐え抜くパートナーシップを築き上げてきた。
「ヨナとはATSを韓国でやったばかりなんだ。トロントに四日間訪ねてきたよ。」
ヨナからの依頼は願っても無いタイミングで来たと話す。
「3月11日に飼い犬を亡くした直後に連絡が来て、その2週間ほど後にヨナも滑ることが決まった。3年半ほどヨナとは連絡を取っていなかった。だから神からの贈り物みたいに感じたよ。彼女のことを愛しているから、本当に気分が上がる出来事だった。本当にとても敬愛しているんだ。」
「ヨナと仕事をした8年間、キャリアでは数回しか起きないコネクションを感じていた。彼女を見るのは興味深かった。僕が与えたものを持って帰って行ったよ。4年間滑っていなかったのでジャンプは無しで、スピンをいくつか入れて、純粋で美しいもの、ドラマチックじゃないものを希望された。」
ヨナのスケートに向き合う姿勢がいかに現役時代と変わらないかを詳しく話してくれた。
「週に2、3回、練習のビデオを送ってくるんだ。そして僕はコメントを送り返す。準備には数ヶ月しかなかった。五輪王者らしい態度でこの課題に向き合っていたよ。
僕が言いたいのはね、彼らは皆病的なまでに完璧主義者だ。皆そう。そうでなくては五輪王者にはなれない。無理だよ。そうじゃない人がいるなら見せてほしい。会ってみたいよ。そんな人は存在しないからね。」
ウィルソンは2007-08以降、14年に引退するまでの全てのヨナのSPFSを振りつけていた。その期間で、一度の五輪金メダル、一度の銀メダル、そして二度の世界女王の称号を得た。
バンクーバー五輪のボンドをテーマにしたSPはこのスポーツの象徴として今も知られている。
NYpostのコラムニストは、このプロを見てヨナのスケートをマイケルジョーダンのバスケットボールに擬えた。
ヨナの振りつけをするに至った経緯をウィルソンはこう話す。
「ヨナとの出会いは振付師として少し燻っていた時に訪れた。国際的スケーターと仕事をしてある程度の成功をおさめて、成功したものもあればイマイチだったものもあった。僕の最初のクライアントの1人でもあったセバスチャン・ブリッテンに相談した。彼は美しいスケーターなんだよ。僕の振付師としての基礎は彼との仕事で築かれたと言えるね。彼に、「韓国人の女の子から依頼を受けてるんだ。どうしようかな。外国のスケーターと働くのはちょっとうんざりでね。戻ってくるのかもわからないし、振付をどうされるのかもわからないし。」と話した。彼はその頃コーチをしていて、JGPが終わったところだった。そしたら彼が、「デイビッド、その仕事は受けるべきだ。だって彼女はすごいよ。彼女に始まり、彼女に終わる。全て持ってる。」と言った。それで、受け入れることにしたんだ。実はその2年ほど前に、バリーで彼女がトレーニングをしているときにも依頼を受けていたことがわかった。その時はすでにシーズン中盤で、彼女のこともよく知らなかったから断ったんだ。それで彼女は当時まだ現役だったジェフリー・バトルのところに行くことになった。
彼女が来た時、僕はあまり期待していなかった。ジェフに彼女について尋ねたら、「あの子はあまり幸せなスケーターじゃない。あまり幸せな女の子でもない。」と言っていたからね。
すごく表情に乏しかった。感情がないみたいに。英語は一言も話さなかった。だからどうコネクトするか考えないといけなかった。」
「はじめのプログラムはLPだった。ブライアンとトレイシーがクリケットの責任者になったばかりだった。彼らは誰でも連れて来ていいよ、氷は空っぽで貸切状態だから、と僕に言っていた。」
ウィルソンはヨナを殻から引き出すことをミッションとした。
「ある意味取り憑かれていたんだね。彼女を笑わせられたら、彼女に楽しむことを教えられる、と思っていた。ゆっくりと、確実に、僕を彼女が理解してくれるのがわかったよ。そしたら、戻ってきて、ブライアンにコーチを依頼することになってそこからここまで来たんだ。1年半後に彼女の矯正が外れて、表情豊かになってきた。矯正器具ほど女の子が笑うのを妨げるものはないよね。矯正が外れた途端、彼女はこの美しい、流れる髪の女性に変貌を遂げたんだ。
僕たちは早い段階でコネクトしていた。ブライアンにある日こう言ったのを思い出すよ。「彼女の光は灯った。彼女は英語は話せないけれど、僕の冗談も理解しているし僕の話したことを全て感じ取っている。音楽のニュアンスも全て感じてるよ。ただまだ表には見えないだけだ。」ってね。」
ウィルソンは、ヨナはその成功に関わらず感謝の気持ちを持ち続け、心を開くことをやめていないと話す。
「27年スケートを教えているけれど、彼女ほど-あんなにすごい人なのにね-感謝に満ちていて、僕の教えることに素直な人を知らない。僕が言ったことを心の底から受け止めるんだ。」

ウィルソンとヨナの関係は、オーサーとの師弟関係を2010五輪の数ヶ月後に突然解消したことで試練を迎えた。
「プロとしてのキャリアで最も辛い出来事だった。感情面でも。僕ら全員にとって居心地の悪い事態だったよ。」
オーサーはこの事態でもウィルソンとの関係に影響が及ばないよう心を配ったと言う。
「ブライアンの良いところはね、僕とヨナの関係が続くことに一つも嫌な顔をしなかった心の広さ。
今でも、何が問題だったのか僕は知らない。
ヨナ側は僕がブライアンとプロとしてもプライベートでも親しい関係を築いていることを知っている。ブライアンも、僕がヨナと素晴らしい関係を続けていることを知っている。」
「皆が前を向いてやらなければいけないことをやっていることを、幸運だと思う。嵐に耐えることができた。僕はいわばスイスみたいに中立だね。」とウィルソンは笑う。
「はじめはなんとか修復しようとしたんだ。片方に、家族として話し合おうよ、と言い、もう片方に頑なにならないで、と言ってね。突然で、混乱する、驚くような事態だった。全く予想もしていなかったね。ブライアン自身も。最初の数週間はなんとかできると思っていたけれど、どちらからも丁寧に「あなたには関係のないこと」と言われてしまって。だからあまりできることは無かったよ。」
ヨナがトロントを去るのは胸が痛んだと言うか。
「行って欲しくなかった。僕らの関係は本当に美しいものだった。クリケットでの4年間は、素晴らしかった。悲劇的なことだったし、今でも悲しい。あんな風に終わってしまったのは残念だよ。彼女が幸せな人生と成功を手にしているのは嬉しいし、ブライアンも同じこと。今では悪感情は全くないと思う。ブライアンには無いし、ヨナにも多分無いと確信しているよ。」

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