@sailorsousakuTL 熱帯夜


「……しぬ」

 ようやく振り絞ったそのか細い声はじっとりとしめっており、あまりの重たさに薄い夏用の絨毯に吸い込まれていく。
 ワンルームの狭いアパートの窓はすべて開け放たれており、比較的新しい扇風機とその風に吹かれたレースのカーテンだけが元気に動いていた。生ぬるい風を掻きまわしながら。

 今年、日本は前例にないほどの気候に苦しめられていた。まだ七月だというのにどこかの地域では40℃に達したとかなんとか。そのくらいのニュースは脳まで茹で上がりそうな伊織の頭までは届いていたが、40℃に達しないまでも十分厚い。ただでさえ温度変化に弱い伊織にはもう半月前から地獄だった。
 だというのになぜ扇風機だけしか稼働していないのかというと、それは悲しいかな経済事情にあった。親のすねをかじって一人暮らしをしている以上、出来るだけ光熱費は浮かせたいというのがせめてもの恩返し。こんなに暑い日にクーラーなんてつけてしまったら電気代がいくらになってしまうことか。
 そのため伊織はなんとかして耐えようと、いままで溜めていた保冷剤をタオルに包んで枕にし、腋に挟み、濡れタオルで体を冷やしていた。それでもカバーしきれないほどのこの熱気。こんなことなら図書館にでも行けばよかったと思う気持ちも後の祭り。そもそも図書館までの道のりで溶けるであろうことは、すでに溶けかけている伊織の頭では思いついていない。

 氷の溶けるからんという音が扇風機の風の音に紛れて鳴る。水滴でぼちゃびちゃになった薄い麦茶の入ったコップをあおり、本気で夏の暑さに屈してしまおうと考え始めたころだった。

「伊織ー。生きてるー?」

 ぼやけた頭にきんと通る声。スリッパを挟んで開けていた玄関のほうから、聞き馴染みのある声がする。

「ちょっと、玄関が開いてるってことはクーラーつけてない!?ドアチェン外して!伊織!」

 どんどんと叩かれる音がうるさくて、耳につく声がうっとうしくて、たぶんドアを開けたんだと思う。

 なんとなく、風の薫りがしたことまでは記憶にある。







「いやほんとにバカでしょ。自殺行為だよ?今日何度だと思ってんの?37℃だよ!?」
「…へい」
「体ぬくぬくだったんだからね!?あのままだったら熱中症で死んでたかもしれないんだよ!?分かってるの!?」
「…へい」
「返事ちっちゃい!」
「うるさいなぁ…」

 ちゃぷん。と、罰が悪くなって伊織は口まで湯に潜る。湯と言ってもかなりのぬるま湯。あたたまりきっていた伊織の体温を平常にまで戻すための水浴びだ。冷たい水だと伊織に負担だからと智由利が用意してくれたものだ。
 ところは変わって智由利宅。一人で住んでいる方の家だ。あの後ぐったりもたれかかってきた伊織を担いで、タクシーで運んできてくれたらしい。

「てかなんでうちに来たん?今日飛ぶ日やったんやろ?」

 ぬるま湯で顔を洗いながら智由利に問う。そう、今日は何よりも智由利が楽しみにしている日だったはずなのに。

「暑すぎて中止になったの。危険だからって」
「あぁ。そりゃそうか」

 子供たちのプールすら中止になる時代だ。空なんて飛んでいたら本当にイカロスになりかねない。

「なんとなく心配になったの。虫の知らせかな」

 こちらに冷たい水をばしゃばしゃとかけながら、じとっと半目で睨みつけながら話す。智由利にしては珍しい表情かもしれない。いつもへらへらと笑ってばかりだったから。

「お前なら風の知らせってやつちゃう?」

 それがなんとなく、痒かった。胸のどこかがちりちりと痒くて、どうしようもなかったから。伊織は智由利に向かって思いっきりぬるま湯をぶっかけた。

「ぶわぁ!ちょっとなにすんのさ!」

 ちなみにぬるま湯に入れられていたのは伊織だけだ。智由利は風呂の外からシャワーをかけていた。服を着たまま。

「ぼくだけ濡れてんのって不公平やろ」

 そして、伊織も服を着たままだった。担がれたまま、ぬるま湯の張ってあった浴槽に入れられたからだ。

「だからって…。ちょっとー!」
「うわ!シャワーは卑怯やろ!」

 湯をかけるのを辞めない伊織に、結局智由利は応戦することにしたらしい。水の温度を変えて、思いっきり伊織にぶっかける。

「卑怯とかない…きゃー!」
「これで一緒や!」

 どぼん。
 湯が浅めに張られた浴槽に引きずり込まれる智由利。その中でまた湯の掛け合いが続き、伊織が咳き込むまで終わらなかった。







「なんであんなに白熱したんやろ…」
「一緒に遊んでたのにバテないでよ…。申し訳ないじゃん…」

 ぐったりと伊織が転ぶのは智由利のベッドだ。ただでさえ体力がない上に熱い部屋で瀕死になっていて、そのうえ水場で全力で遊んだらすぐに体力なんて尽きてしまうもので。

「疲れたー…」

 しかしベッドとはなぜこんなにも心地がいいんだろうか。疲れたからが布団と一体化してしまうような気持ちよさだ。
 しかし、しかしだ。

「寒い…」
「えっ。寒い?」
「クーラー苦手なんや…。風が気持ち悪い…」

 クーラーの効いた部屋は伊織にとってはあまり良いものではない。体温調節が下手なのであろうからだは熱しやすく冷めやすい。自然な風なら大丈夫なのに、人工的な風になるととたんに調整が難しくなるのはなぜなのか。

「直接当たってないし26℃だよ。これでもダメなの?」
「あかん」
「えー…」

 智由利が困った顔をする。だけど無理なものは無理なのだ。学校でも冷暖房完備なせいで、いつでもカーディガンとひざ掛けが必要なくらいの体質なのだから。

「でもこれ以上温度あげたら意味ないし…。じゃあこれは?」

 困ったような顔の智由利はいろんなものを寄越した。毛布やタオルケット、温かいココア、などなど。
 それぞれはとても温かかった。だけど、なぜだろう。伊織はそうじゃないと思ったのだ。クーラーの人工的な寒さを防ぐのはそれらじゃなかった。

「もぉ…。どうしたらいいのさ…」

 そんな困った顔が。普段笑ってばかりの智由利の顔が歪むその瞬間が。


 小さな心臓を幽かに燃やすから。


「…眠くなってきたわ」
「えっ」
「ちょっと寝かして。夕方には帰るから」

 結局包まったのは毛布だった。きっと普段から智由利が使っているのだろう。一番温かかった。

「晩ご飯も食べていきなよ。なんなら泊まってもいいし」
「えー…」
「寝てる間に熱中症で死ぬ人いるんだからね」
「夜はさすがにつけとるわ…」

 だけどもう少し。もう少しだけ、温もりが欲しかった。

「…伊織?」
「寝付くまででいいから、握らせて」

 握ったその手は、少し熱すぎるような気もしたけれど。

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