★腐敗する裁判所に対抗し「影の裁判所」創設をー(植草一秀氏)

11月8日午後2時半から、東京高等裁判所前で、

TPP交渉差止・違憲訴訟の控訴審第1回口頭弁論期日があった。

原告は高裁での審理を求めて証人申請をした。

杉原則彦裁判長はいったん必要なしとしたが原告代理人から承認申請の理由を

説明されると被告に意見を求めた。

被告は1月までに反論を用意することとした。

裁判官は合議するとのべて休廷にし、開廷した直後に結審を宣言した。

ここで原告側代理人が裁判官の忌避を求め、閉廷した。

高裁は、はじめから審理終結を決めていた。

この日の法廷は判決期日を決めるためだけに開かれたと言ってもよい。

裁判所に実質審理を行う考えは毛頭ないのだ。

TPPは日本の司法主権を奪うISD条項を含む協定である。

司法主権が否定され、権限を失うことになるのは日本の裁判所である。

本来は日本の裁判所が原告となって、

TPPの違憲性を問う裁判を起こしてもよい、そのような事案である。

ところが、東京高裁は問題に正面から向き合おうともしない。

自分自身の体験も含めて、私がこれまで見てきた裁判所で、

法と良心に従う判断を示してきた裁判所は存在しない。

裁判所は「法の番人」ではなく、「政治権力=行政権力の番人」になっている。

裁判所に期待できるのは、

例外的に存在する、下級裁判所の良心を持つ裁判官が担当する裁判だけである。

日本の裁判所には法も正義も存在しないことが圧倒的に多い。

刑事司法の鉄則である

無罪推定原則

適法手続き

罪刑法定主義

冤罪の排除

などでさえ、完全に踏みにじられている。

このような現実を踏まえたときに、

例外的に存在する善良な裁判官が担当することに期待して、

訴訟を提起する闘争のあり方について、再考する必要があると考える。

国家権力によって不当な弾圧、不当な権利侵害が行われた場合に、

これに抵抗することは当然必要である。

不当な冤罪であっても、刑事責任を追及されるなら、

裁判で闘うことは、基本的には必要であるだろう。

しかし、裁判そのものが適正に行われないのであれば、

その裁判を受けることによって、不当な判断が示される場合、

その不当な判断について、裁判を受けることが

一種の権威付けをしてしまうことになることも懸念するべきである。

つまり、正当性の主張を行うときに、

偏向した裁判を活用することの是非を考察する必要があると思われるのだ。

日本の裁判所は「法の番人」ではなく、

「政治権力の番人」、「行政権力の番人」に成り下がってしまっている。

最大の理由は、裁判官の人事権が行政権力によって握られていることにある。

最高裁長官および判事の人事権は内閣にある。

下級裁判所の人事権は最高裁事務総局にある。

したがって、裁判官は行政権力=内閣の顔色を伺って仕事をしているのである。

法と正義、そして良心に従って裁判官の職務を行い、

行政権力の意向に反する判断を示せば、人事上の不利益を蒙る。

裁判官のなかに、このことを覚悟の上で、

法と正義、良心に従って判断を示す者がいるが、それは例外的な存在である。

圧倒的多数の裁判官は行政権力=政治権力の顔色を伺って判断を示している。

したがって、政治の不正、行政の誤り、

あるいは、人物破壊工作による冤罪捏造などに対する「闘争」の方法として、

「訴訟を提起する」、あるいは「裁判を受ける」という手法が適正であるのかどうか、

検討する必要があると考える。

究極の解決策は、政治権力の刷新を図ることである。

政治権力を刷新して、裁判所のあり方も是正する。

これが必要だ。

しかし、政治権力を刷新できるまでは、問題が残存する。

その解決策として、公的な裁判所に代わる、民間の裁判所を創設することを

検討するべきである。

「影の内閣」ならぬ「影の裁判所」である。

在野の叡智を結集して、「法と正義」に基づく法的判断を下すのだ。

公的な裁判所が不当な判断を示した際、

この在野の「影の裁判所」が適正な判断を示せば、正当性の根拠を得ることができる。

また、冤罪によって名誉を毀損された場合も、この「影の裁判所」によって

一定の名誉回復を実現できる。

「裁判所の判断は絶対でない」ことを誰にでも分かるかたちで示すことが

重要であると考える。

腐りきった裁判所であるから、

裁判所の存在そのものを「相対化」することが必要なのだ。

11月8日の法廷では、裁判官に対して忌避の請求が行われ、

閉廷された瞬間に、傍聴席から

「恥を知れ!」

の言葉が大声で発せられた。

裁判官は、開廷の前から、この日の期日で結審して、

次回公判を判決公判にする考えを有していたのだと思われる。

繰り返すが、日本の裁判所は「法と正義」に基づいて判断を示す場所ではない。

日本の裁判所は政治権力=行政権力の支配下に置かれている存在なのである。

権力機関の一端なのだ。

したがって、裁判所が「法と正義」に基づく正しい判断を示すことは稀である。

行政権力の意向に関係のない事案においては、

法の適正な運用が目指されるだろうが、

政治権力=行政権力の意向が絡む事案においては、

裁判所は「法と正義」に基づく判断を行わない。

これは刑事裁判においても同じである。

このような裁判に判断を委ねることが、

大きな弊害を有することを認識しておかねばならない。

それは、裁判の結果が一人歩きすること。

裁判の結果が権威を有してしまうということだ。

政治権力に阿(おもね)る不当な判断であっても、

地裁、高裁、最高裁と三審制の段階を上り、最終的に司法判断が確定すると、

いかに不当な判断であっても、その判断が一定の権威を有してしまう。

つまり、訴訟を提起すること、裁判を受けることによって、

不当な判断に対して、「権威付け」を与えてしまう側面があることに

十分な留意が必要である。

また、裁判の途上においては、判決に影響することを恐れて、

裁判所批判を控えてしまうことも少なくない。

その結果として、裁判所に対して、

適正な判断を示すことを懇願するという事態も生じてしまう。

しかし、権力機関の一翼を担う裁判所に対して、

「法と正義の番人」を前提としたお願い=懇願を示すことは、

結果として滑稽なことになってしまう。

「法と正義に基づかない」=「政治権力の番人」としての裁判所に、

へりくだった態度を示すことが、不当な裁判所をつけ上がらせる結果を

もたらすことになる。

裁判所が適正な判断を示すのは、

例外的に存在する、「法と正義」そして「良心」に基づいて司法判断を示す裁判官が

事案を担当する場合のみである。

その確率は宝くじで高額賞金に当選するほどのものであるだろう。

これらのことを踏まえれば、公的な裁判所以外に、

適正な法的判断を示す「民間裁判所」=「影の裁判所」を創設することが、

きわめて有用ではないか。

法曹人口のうち、裁判官の比率はきわめて小さい。

弁護士業務を行う法曹が多数存在する。

法律の専門家は在野に多数存在するのであるから、

公的な裁判所とは別に、民間に「法と正義」に基づく判断を示す「影の裁判所」を

置くべきである。

このことによって、公的な裁判所の判断を「相対化」するのである。

法的拘束力を持つ判断は公的裁判所しか示せないが、

公的裁判所の判断が「法と正義」に基づくものではなく、

「行政権力の番人=政治権力の番人」としての判断である以上、

その判断には大いなる過ちと偏りが存在することになる。

その判断を絶対視せずに、

「権力の意向を踏まえたひとつの判断」に格下げすることが重要である。

安倍政権は憲法解釈を勝手に変更し、憲法に反する立法を繰り返している。

日本の立憲政治が崩壊の危機に瀕している。

しかし、裁判所は、その危機を打破する拠り所にはならない。

裁判所自身が政治権力の下位機関に堕してしまっているからだ。

裁判所の地位を相対化すること、裁判所の判断をひとつの判断に格下げすることを、

法曹は嫌うのかもしれないが、

現在の日本の腐敗しきった裁判所の実情を踏まえるならば、

この状況を打破するための方策を法曹自身が考察するべきである。

「影の裁判所」を構築して、公的裁判所の行動にプレッシャーをかけることが

期待される。

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