お昼前後に出発したが、原付に積み切れただけ配り終わって帰ってきて、いま外は快晴の青空である。むしろ明るくて暑いくらいだが、自宅から着てきていた合羽の上下を脱ぐ。そうして書類記入などの雑用をしながら音楽を掛けるが、このところ聴いていたのは、東京事変『スポーツ』、YUKI『うれしくって抱きあうよ』、ジョシュア・レッドマン『ムード・スウィング』などであった。いまはフレディ・レッドの『エクステンポレイアンス』を掛けるが、五年以上前、ひょっとして十年もののCDRが劣化したのか音飛びが気になるレベルだったので、ミシェル・カミロとトマティートの『スペイン・アゲイン』に換えた。今日予定の咲が丘~二和東全部終わらなくても良いが、明日の午前も天候の具合は不安定なようなことを予報で言っていたとおもうので、音楽を聴いて御茶を一服して一休みしたら、もしかしたらもう一回出るかもしれない。

たまたま貰ってきたから眼を通した『小説新潮』の未知の作家の学校の場面、教師とイジメられっ子の対話であるが、私は「スクールカースト」とかいうことがとりたてて問題になる前に学校教育を終えたので、そういう発想はなかったが、しかし昔から校内暴力やイジメなどはあったわけである。そうして私立の小学校や中学校でなければ、公立の義務教育であったならば、地区割りのカオスと、そこから受験による一種の「脱出」のテーマは普遍的であった。中学校の教室はさほど荒れてもいなかったが、やはりクラスの不良がかった、といっても暴力や恐喝などそこまでの悪事とは無縁のむしろ気のいいやつらという印象であった同級生たちが授業中に教師の制止を無視して騒いで、なにやらスティグマ的な存在と名指しされるなかに私の名前もあったが、私は学級の有力者たちと付き合いがあったし、また、そもそも出席の最低日数しか学校にいなかたtので、彼らとほとんど共に過ごしておらず、故に、イジメられる心配もなかったわけである。

高校から偏差値別になっての変化であるが、上記のような悪ガキはいなくなった。といっても私はクラスの有力者たちのように、千葉高、船高のような進学校にすすんだわけではなかった。さきに述べたように、ほとんど学校に出席していなかったことも相まって、担任や進路指導の教師たちから憎まれ、おまえにははじめからそんなところは無理だと悪態をつかれたし、自分も受験勉強や塾通いなどしたくなかったので、谷津干潟が見えるのんびりした音楽コース併設の高校に進んだからである。

千葉高などに進んだかつての友人は、高校にはいってから一度きり偶然再会するも、ひどく元気のない様子であった。そこに身を置いてしまえば廻りは自分とおなじか、それを上回る優秀な生徒揃いであるということもあずかっているようであったが、自分の気持ちを投影というか想像すると、悪ガキをふくめたごった煮の愉しさのようなものの喪失もあったのではないか、といまにして考えてみては微笑してもいる。

私はそもそも競争に参加しなかったので、そのような屈辱を味わうことはなかったが、そういえば冬場に教室のストーブの廻りで、普段はひょうきんな言動ばかりに興じている同級生たちが輪になって、おれたちこれからどうなってしまうのだろうか、みたいなシリアスなことを話し合っていたことがあった。それも三年生とかなんとかではない、入学間もない一年生の冬のことだったと記憶している。そういう彼らがどうなったのかは、卒業以後数十年音信不通であるので、いまの私にはわからない。しかし忘れられない思い出である。

Reply · Report Post