★安倍首相に自ら進んで騙されることを選択する日本国民。戦争前の日本人と同じだ。
この時期だからこそ、伊丹万作氏の「戦争責任者の問題」を読んでみよう。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」-(孫崎享氏)

安倍氏の訪米については、

①ワシントン・ポストは、「トランプ大統領との個人的な結びつきを強めようとする安倍首相の強い決意は

他の国の首脳とは対照的」と報道し、

米国タイム誌「「日本の首相はトランプ大統領のハートへの道を示した。

Flattery(お世辞、へつらい、おだて)」と報じ、日テレが「日本側は”大成功だった”と評価している。

一方、アメリカ国内では厳しい見方も出ている。

アメリカメディアからは、

”こんなに大統領におべっかを使う首脳はみたことがない”という声が出ている。」と報じた。

しかし、日本では「大成功」と報じられている。

どうしてだろうかと考える。

その時、理解を助けてくれるのは、伊丹万作氏の「戦争責任者の問題」である。

一部省略の上、下記に紹介する。

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 多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。

私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。

 だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。

しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、

いま、一人の人間がだれかにだまされると、

次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、

つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、

さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織が

いかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、

苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、

直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、

あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、

あるいは学校の先生であり、といつたように、

我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、

あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

 ここで私はその疑いを解くかわりに、

だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。

 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、

非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、

はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。

 だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、

無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、

半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。

 だますものだけでは戦争は起らない。

だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、

戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、

あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、

家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、

無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、

外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、

個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも

密接につながるものである。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。

また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。

ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。

しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、

彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、

日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、

一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、

私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。

いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)

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