visavis114

nao · @visavis114

14th Jan 2017 from TwitLonger

蕨市新春講演会「ドラマ『夏目漱石の妻』を語る」 2017.1.14.


 『夏目漱石の妻』について話をするということで、書いたのは去年の1月から3月、3ヶ月で書いた。お札にもなった畏れ多い人、物書きとしては雲の上の人で、その人を書くかどうかで躊躇した。
 きっかけは一昨年11月、NHKの演出家が一緒に何かやりましょう、といってきたこと。ちょうど作品を仕上げたばかりで、自分の持ち話がなかったので、演出家に訊いたら「以前から漱石をやりたかった」とのことだった。池端さん自身も漱石には郷愁があり、小学校の頃大病をして、病床で『吾輩はねこである』を読んだらとても面白く、笑って読んだ記憶がある、とのこと。また、上京してシナリオの勉強をしていた頃、深作欣二さんにくっついていたのだが、その深作さんが「映画はどうせ見るだろうから本を読め」と言われた。何を読んだらいいですかと尋ねたら、「漱石を読め、全部読め」との答えだった。
 そんなわけで、「漱石をやってみたい」という声に対し「じゃあやってみる?」という流れになったが、漱石の作品をするのは実は難しい。これまでも、作品の映画化、ドラマ化には失敗したものも多いし、時間的に見ても大変だと思った。そんなとき、奥さんが悪女だ、ということに思い至った。(池端さんは実は悪妻や悪女が大好きとのこと。沢尻エリカさんに悪女を演じてもらったら、意外とまともでつまらなかった、と笑いを取っておられた。)
 『足尾から来た女』を尾野真千子さん主演でやった。尾野さんと仕事をしたのはそのときが初めてで、朝ドラを見ていい女優さんだなと思っていた。『足尾』では農家出身の、字の読めない女性を演じてもらったのだが、当時は字が読めない人がほとんど。その女性は東京でお手伝いさんをしながら、子どもたちが字を習っているのを見て羨ましく思う。そこで夜中に本をたどたどしく読んでいくのだが、その時の表情が素晴らしかった。ドラマには脚本があって、それを人が演じれば作品はできるのだが、役者の仕事はその時その時の表情を作ることだと思う。サチには字が読めたら素晴らしい、という思いもあるが、女性として字を読むことは、近代人の条件でもある。だから、字を読むことは、米だけ作っていればいい、という人生から、世の中での自分というものを知っていくことにもなる。その希望と不安がないまぜになった、素晴らしい表情をしてくれた。尾野さんという女優さんは、繊細さと強さをどちらも持っている。
 尾野さんと『足尾』の後二人で話した。どんな役がしたいかと聞いたら、今度は、土にまみれて字が読めない役ではなく、男と女のきれいな役がしたいです、と言う。あなたは明治が似合うんだよなあ、と言ったら、明治でいいから男と女の話がやりたい、と答えた。
 『夏目漱石の妻』にあたり、尾野さんを推したらNHKは即座に「いいですね」と言った。柄本さんが「今No.1」と言ったけれど、NHKも尾野さんで悪妻なら、と賛成だった。
 ドラマを作る際に一つネックになったのが、精神病のこと。漱石の精神病を語ることはタブーだった。そこをどうしますかと訊かれて、「そのまんまやりますよ、覚悟して下さい」と言った。その意味でも、女性の視点から見た方がいいと思った。
 尾野さんに、男女の恋愛ものと言ったのに、悪妻の役になって、どう言おうかな、弱ったな、と思いながら、一日一冊のペースで漱石を読み返した。漱石で嘘はつけない。大学の研究者たちが、嘘つけ!と声をあげたら、という恐怖があった。そんな中、鏡子さんの孫の半藤末利子さんの文章に、「いろんな男性を見てきたけれど、うちの人が一番よかった、と晩年に鏡子さんが言った」という文を見て、「つまり好きだったんだ、これ恋愛じゃん」と思った。
 脚本を尾野真千子に渡したら、尾野真千子は、恋愛ものなので池端さんからラブレターが来た!くらいの気持ちで読んだら、ああいう話だったので、こういう感じかと思いました、と言っていた。
 本読みの日というのは、スタッフ、キャストが全員顔を合わせ、演出家と脚本家が並んで本読みを聞く。「こういう役だけどごめんね」と言おうと思っていたら、尾野真千子は前の日映画の打ち上げだったとかで、髪も乱れてヘべレケというか、これが女優か、という感じでやってきた。本読みもとてもテキトーだったけど、まあいいか、と思った。
 長谷川さんに関しては、プロデューサーから「蜷川さんの舞台で鍛えられているので、芝居はできる人です」と推薦されたが、尾野真千子さえちゃんとやってくれれば後はどうでもいい、と思っていた。最初の挨拶で、背が高かったので「違う」と思い、「あなた背が高いから漱石の感じと違うんだよなあ」と言ったら、長谷川さんの顔から血の気が引いた。でも今更変えられるわけもないので、実際にしてもらったら、結果的に素晴らしくてびっくりした。他にいなかったんじゃないか、と思わされた。
 撮影中に見に行くと、尾野真千子は電子タバコを吸っていて、それを見せて仕組みを色々説明してくれる。「それがいいの?」と聞くと、「いいわけないでしょう!やっぱり本物が一番ですよ、だけどスタッフに迷惑がかかるから」と言い、「昨日飲んだんだけど、お酒が弱いからこれくらいしか飲めなくて」とか、今からお父さんの借金を断るシーン、というその前に、そんな話をしている。一方の長谷川博己は、黙って座っていて、具合でも悪いのかと思うくらいだった。聞いてみたら「漱石ですから。僕はそうやって役を作るしかない」と言っていた。二人とも台本を持っておらず、全部覚えたんだなと思っていたら、尾野真千子は「今日やるところは覚えてますよ、あとは全然」、長谷川博己は「4話の最後までないと役作りができないから、早く台本を下さい。ラストから逆算するから」と言う。尾野真千子はそれを聞いて唖然、長谷川博己は「普通そうじゃない?」尾野真千子は怪訝な顔、という感じだった。そのそばを、舘ひろしが早く終わればいいな、という感じでウロウロしていた。
 本番が始まると、借金の証人になってほしいという頼みに対し、尾野真千子が手をついて涙を落とす。パーフェクト。電子タバコから5分も経ってない。ところが、演出家が、庭の風が足りないからもう一回、なんて言ってる。尾野真千子本人は、「やったやった」という顔をしている。そこをもう一回してもらうと、また涙を流し、全く同じようにする。もう天才だと思った。彼女は感情のかたまりのような人。ここで涙が浮かぶ、と台本に書いてあるところがあって、そこを演じる時に尾野真千子が涙を溜めて堪えている。あなた涙を出すの平気なのに、なぜ?と訊いたら、「前の前のシーンで泣いてるでしょ、ここは泣かない方がいいと思って」と言う。こっちは「えらいね、一応計算するんだ」なんて言う。彼女はそのシーンそのシーンで生きているように見えるけど、その瞬間瞬間を前から積み上げていく。逆算じゃない。だから、最後までやってみないとわからない。
 二人を見ていて、このドラマ、うまく行くな、と思った。漱石夫妻はそういう夫婦だった。

『道草』は、夫婦を最もリアルに描いていると言われている。
(注:ここで朗読されたのが『道草』の七十一節。この箇所では、自由に育てられた妻が、夫のことを「単に夫という名前が付いているからというだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないと強いられても自分には出来ない。もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質を有った人間になって自分の前に出て来るが好い」と考える。一方夫は「学問をした建造の方はこの点においてかえって旧式であった。自分は自分のために生きて行かなければならないという主義を実現したがりながら、夫のためにのみ存在する妻を最初から仮定して憚らなかった。「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」二人が衝突する大根は此処にあった。」と書かれる。)
 日本が勝った!と浮かれている最中に漱石は『吾輩』を書いていて、『道草』はその頃のことを書いている。この箇所は、自分たちはそういう夫婦だった、という認識の表れで、女性の方に自立意識があった。これを読んで、驚くべき夫婦であり、これだけの実体を伴った夫婦がいたんだ、と思った。漱石は、40歳の頃、人生を振り返って、尊敬すべき人物は一人もいなかった、近代化の結果、さほどいいことがあったとは思わない、と書いている。この時代は『足尾から来た女』でも書かれたように、戦争に勝つために国力を大きく、という時代で、鉄砲の玉を作り、でもそのために公害が起こる。一方で、核家族化も起こる。漱石の家は、核家族のはしりだった。
 尾野さんに「こういうのわかる?」と聞いたら、「よくわかんない。でもそうなんでしょうね」と言い、一方の長谷川さんは「はい、よくわかります」と言っていた。漱石は、人間一人ひとりはどうすれば幸福になれるのかを考えた作家だった。このテーマは普遍的で、今と変わらない問題意識だと言える。
 漱石にとって、いろんな問題が持ち込まれるのは、養父や、鏡子の父、といった周りの人々からだった。その度に漱石は破綻し、混乱する。全くの個人で生きていた漱石が、昔のしがらみから逃れられない。なぜ古いしがらみを断ち切れなかったのか、そこが不思議だった。ドラマでは、二回くらいで養父を切っているが、実際にはもっと何度も何度も来ている。当時は「不人情はよくない」とされて、裁判でも起こされたら民法で負けていた。しかし漱石が民法だけに縛られていたとは思えない。個人主義が入っていながら、大切にされた恩義を忘れられない。その金之助の自己矛盾が面白い。それを代わりに切ったのが奥さんだった。『道草』でも、あなたがズルズルしているから断りきれない、というふうに書かれている。けれど、実際に感情的なのは鏡子さんの方だった。半藤さんの書いた「うちの人が一番よかったよ」ということが、いろんなものを読んでもずっとある。
 漱石のDVぶりはドラマよりもずっと凄惨だった。漱石には「男尊女卑」があり、自分の身内だけを大切にするという家族主義が皮膚の中に残っている。だから奥さんをあれだけ殴れる。また、漱石の末息子伸六は、町なかで血が出るくらい殴られた思い出が残っていて、未だに父が許せない、という。ところが、漱石は自分の小説の中では自分がおかしいとは全く書いていない。弟子はそれを読んで、悪妻だと思い込んだ。森田草平だけは別で、奥さんに近いところにいた。この人の伝記は他の人と少し違って、夫婦いい勝負だ、という書き方になっている。

家族の関係
 鏡子さんの父親は貴族院の書記官長に登りつめた人。鏡子さんは小学校を終えただけで、行きたくない、と言ってやめた。父はそれを許し、家庭教師をつけてやった。鏡子さんは字も下手で、漱石が長女に筆子と名づけたのには、少しでも字が上手な子になってもらいたい、という思いもあった。金之助は、幼い頃に養子に出され、ある店先でカゴに入れられていたので、姉が不憫に思い、抱いて帰ったら、父親にいらぬことをするなと言われた。

『漱石の思い出』から:お見合い写真の話と、人力車に乗ってすれちがう話
 鏡子さんは貴族院の書記官の娘なので、お見合い話は山ほどあり、写真も何枚も見ている。その中で、漱石が一番よかった、と言っている。実は漱石には顔にあばたがあり、写真ではそれを修正していて、見合いの席で妹が「あばたがある」というのだが、鏡子さんは「それでもいい男だ」と思っていた。
 人力車に乗ってすれ違う場面、金之助は気づかず、鏡子さんも声をかけないままにすれ違う。『道草』で、漱石はこの場面を書き、向こうが挨拶したらしてやろう、と思っていた、という。その意味で、最初からこの二人はすれ違っている。けれど、鏡子さんは金之助が好きで、金之助も鏡子さんの歯並びが悪いのに大口を開けて笑うところなどが気に入っていた。

 鏡子さんの父はもともと金之助が大いに気に入っていたが、娘の眼力もすごかった。愛媛のあと熊本に行くことになり、東京に戻れないから破談にしてくれていい、と漱石が手紙を出すのだが、鏡子の父はそれがまた気に入り、鏡子さんも「行きます」と即決している。ところが熊本での生活は悲しいもので、鏡子さんは追い詰められて自殺未遂をする。このあたり、漱石は理性的で冷ややかに見えるが、鏡子が寝ていると「この人、生きているのか」と鼻のところに手をやって確かめている。つまり、個人主義にならなくてはいけないのに、自分は情を捨てられない。妻に文句を言う反面、鼻に手をやって生きているかどうか確かめる。また、絵的に嫌なのでドラマでは使わなかったが、自殺未遂の直後、妻が勝手にいなくならないように、しばらくは腰紐でつなぎあってもいた。つまり、愛情を表に出さない男とじれる奥さん、という夫婦だった。

 鏡子さんにはしがらみを切って、漱石の日常の雑事を減らしてやる、という役目があった。喜怒哀楽に富み、感情の人である妻が、情を切らなくてはならない。鏡子さんは関係性を切っていくたびに返り血を浴びる。修善寺で鏡子さんが浴びた血は、漱石が浴びる返り血でもあった。
 第三話の念書を取り返すシーンで、雨に濡れて帰った鏡子さんに対し、金之助はありがとうとも言わず、身内を失った、俺が大切にしていたものをお前は切った、と言う。鏡子さんはこれを聞いて泣いた後、少し笑う、あそこが尾野真千子のすごいところだった。台本にはあれは書かれていない。自分のしたことは報われない、と自嘲的に笑う、と言うところ、感覚的で、感性で生きている尾野真千子が、それをうまく演じたことがよくわかるシーンだった。
 漱石の弟子のうち、鏡子さんをよく理解していた森田草平は、平塚らいてうと心中未遂をする。森田草平は鏡子さんが世話をする。らいてうはその直後に青鞜を立ち上げる。鏡子さんはそれを見ていたのではないか。新しい時代が来る時に、それをキャッチするのは女性だ。勘のいい女性を見事に演じてくれた、と尾野真千子に感謝している。

 なぜこのドラマを書いたのかが後でわかる、そういう作品はうまくいったもの。たくさんの人に見てもらえて、自分でもまあうまく書けたと思っていて、いいお正月を迎えることができた。

質問
池端さんと同世代の女性から、「時代を憂うことがいろいろ多いが、行き先についてどう思うか」
→世の中に片づくなんてものはほとんどありゃしない、と漱石が書いている(注:『道草』)。『三四郎』でも「これからは日本もだんだん発展するでしょう」という三四郎に対し、髭の男(廣田先生)に「滅びるね」と答えさせている。もうそう書かれてしまっているんだから、片付かない以上、足元を見据えるドラマを書いてみたい。

長谷川さんの眉毛の上げ方がすごかったけれど、あれは自然にそうなるのか。
→そうなんでしょうね。ちょっと上げすぎかな、とも思ったけれど、変になってしまったところを分かりやすく見せた。

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