【総括メモ】『IWG用語ガイドライン』抄訳作業から学んだことと所感:「児童ポルノ」≠「児童性虐待記録物(CSAM)」


※以下はあくまで個人的に学習した内容及び所感です。

■CSAMはCSEMに包含される下位概念

『IWG用語ガイドライン』の抄訳「Ⅱ」からもわかるとおり、あらゆる「児童ポルノ」がイコール「児童性虐待記録物(CSAM)」なのではない。「児童性搾取記録物(CSEM)」というものもあり、それぞれの用途は異なることがわかった。
http://tkatsumi06j.tumblr.com/post/150627479756

CSEMとは、「必ずしも明示的に児童の性虐待を描写するものではなくても、児童を性対象化し児童を搾取するあらゆる記録物」を意味する(『ガイドライン』より)。また、「児童ポルノ」に関する既存の国際協定等での定義には、この性的搾取に類する性的行為が網羅されておらず、CSEMはこれらに該当するという。その中には、"child erotica (所謂「着エロ」)"も含まれており、日本国外の司法当局では、現行法の適用外にある児童性搾取記録物をCSEMと表現するようになっているそうだ。

これは、CSEMとCSAMがそれぞれ別の犯罪概念なのではなく、CSEMの下にCSAMが網羅されているという考え方によって整理される。つまり広義の「児童ポルノ」は、CSAMではなくCSEM=児童性搾取記録物なのである。

■CAMではなくCSAM("sexual"の修飾が重要)

また『ガイドライン』はもう一つ重要なポイントを指摘する。それは、sexual (性的)” という修飾の存在である。その理由は、「"child abuse/exploitation material (児童虐待・搾取記録物: CAM/CEM)“ に "sexual (性的)” を追加しなくては、単にCAM/CEMと形容すると「性的でない形態の児童への暴力」が含まれてしまう場合があるからである」という。だから、本来、「児童性虐待記録物」の略称を「CAM」とするのは誤りで、正しくは「CSAM」なのである。

児童を性対象化して、搾取し、虐待する模様を記録した記録物は、正しくは (児童性搾取記録物: CSEM)という。これには、いわゆる「児童ポルノ」と呼ばれている記録物、「コンピュータ・デジタル生成された児童性虐待記録物」、そしていわゆる「着エロ」なども含まれる。これが、18の国際機関が採用した『児童ポルノ』に代わる一連の用語の実態である。

■用語・解釈・定義の標準が揃うと次に何が起きるか

『IWGガイドライン』は、その「質」に大いに疑問を持たせる国際成果物ではあるが、問題はICPOを含む各主要機関が、この『ガイドライン』をそれぞれの公式サイトにリンクし、ダウンロード可能にして、推奨のプレスリリースを発していることにある。

(例)国際労働機関ILO公式
http://www.ilo.org/tokyo/information/pr/WCMS_490927/lang--ja/index.htm

いかに内容が問題でも、国連関連機関であるILOや190の加盟機関を持つICPOがこの『ガイドライン』を推奨するのであれば、『児童ポルノ』をCSEM=児童性搾取記録物と捉え、国際的なインターネット犯罪としては、その理解で捜査・訴追がなされるかもしれないという認識が必要である。日本にとっての問題は、その場合、「コンピュータ・デジタル生成された児童性虐待記録物」という、非実在児童を含むイラストや漫画等の媒体が含まれることだ。
http://tkatsumi06j.tumblr.com/post/150719435246

国内法ではこの非実在児童を含む記録物は、本来訴追・処罰対象にならない筈であるが、つい最近、ICPOのICSEデータベースを介して(※FAQのQ4~Q6を参照)日本の警察に情報提供を行い、検挙に繋がったばかりだ。
http://tkatsumi06j.tumblr.com/post/150673140706/

勿論、今回の逮捕は実在児童に対するれっきとした「児童ポルノ禁止法」への違反行為が行われていた結果生じたことだが、国連を含む各国各機関がこの『ガイドライン』の用語・定義・解釈を、ICPOのいうような『ベストプラクティス』(ICPOのプレスリリースを参照)として運営した場合、国内法改正の動きはますます強まるだろう。
http://tkatsumi06j.tumblr.com/post/150436225671


■所感
仮に、国内法改正の動きが高まったとして、それが、法理に則った、また国内法を尊重した、合理性のある、納得のいく、合意のある「正当な圧力」「健全な圧力」(国際世論の高まり等)であるならば承服もできるが、このような低品質な『ガイドライン』に則って、そのような不当な圧力をかけられるのではたまらない。

だが、国内でも、たとえばスウェーデン最高裁の判決のように、明確にそのような不当な圧力を退けられるだけの法理が存在しない。依拠する国内法制が存在せず、あくまで憲法上の権利として謳われているだけのため、国内法制が整備されている国に比べ、やはり防備が一枚薄くなる。

規制法ばかりが存在し、自由保障法が存在しないこの不均衡を正すことをしなければ、憲法のみの解釈に依存するだけでは(相対的に強大化する政府の権能ともに)だんだん心許なくなってくるだろう。また「不当な外圧」に抗するためにも、覆しがたい国家としてのロジック(法理)というものが必要になる。

規制推進派も反対派も、この国の社会発展という大局を見据えて、単に既得権を守ったり、奪ったり、取り締まろうとするのではなく、恒久的に自由と権利が保障されつつ、これを逸脱する行為は処罰されるという、誰もが納得のいく明確な法理に基づく法治社会をつくることを考えるべきなのではないだろうか。それとも、これはただの理想論なのだろうか。

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