★太平洋戦争の始まりだった柳条湖事件-(天木直人氏)

きょう9月19日の朝日新聞に、柳条湖事件から85年を迎えた18日、

中国遼寧省瀋陽市の「九・一八歴史博物館」で記念式典が行われたという一段の見出しの小さな記事が

掲載されていた。

 その記事を見つけた私は、

いま、時間を見つけてはとぎれとぎれに丹念に読み続けている幣原喜重郎の唯一の回顧録、

「外交五十年」(筆者註:1951年に読売新聞社から刊行され、

それを1987年に中央公論新社が中公文庫として出版したもの)の中の、つぎの一節を思い出した。

 幣原はこう書いている。

「日本の敗戦は、太平洋戦争の結果であることはもちろんだが、

その太平洋戦争は、盧溝橋事件から惹起された日華事変の発展したものであり、

その日華事変は、柳条溝から発火した満州事変の発展したものである。

すなわち、この三者は、一連の糸のように、互いに相関連したものである・・・」(同書181頁)

 ちなみに柳条湖事件とは、1931年に中国北東部の奉天(現在の瀋陽市)付近で

日本の所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された事件で、

関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、

満州における軍事展開及びその占領の口実として利用した事件である。

 ながらく柳条溝という言葉が使われていたが、

1982年に中国側の資料で柳条湖という地名が正しいとされ、以降柳条湖が使われているらしい。

 この幣原の回顧録は、自ら書いた自伝という点を割り引いても、日本外交を知る上では実に有益だ。

 この回顧録でわかることは当時の外交が如何に軍部と戦っていたかということだ。

 二度の外務大臣を経て事実上戦後初の首相となった幣原が、

いかにみずから信念を持って自ら仕事をしていたかだ。

 時代が違うと言ってしまえばそれまでだが、官僚任せの今の外相や首相との違いが大きすぎる。

 そして私が興味を抱いたのは、幣原は決して親中一辺倒ではないということだ。

 そして欧米諸国もそんな幣原に同意していたということだ。

 いずれにしても、今も昔も、対中外交は日本外交の要であるということだ。

 当時の外交は、その結果がどうであれ、今の外交と比べようもなく本気で外交をやっていたということだ。

 そう思うのは、私が幣原喜重郎にすっかりかぶれてしまったということだろうか。

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