逢魔が刻に夢をみる


 昼と夜。
 この世とあの世。
 昨日と明日。


 そんなものの境界となっているこの時間。



 曖昧さだけが此処に在る真実であり――結局は。



 帰宅途中の公園。
 日が沈むまで此処でこうしてぼんやりすることが日課となって随分経つ。
 古びたベンチに腰掛け、真正面から射し込む夕日に目を細め意識を飛ばせば半分剥離した意識がたゆたう。
 沈みゆく太陽が名残惜しげに伸ばした紅の腕が世界を塗り替えていく。そんな時間に、いつごろからそれらが視えるようになったのか。はっきりとはもう覚えてはいない。ただ、視えるようになってしまったことだけは確かだ。
 セピア色の・モノクロの・茜色に染まった色だけが構成している世界。
 日常のすぐ裏側にある非日常のように背中合わせに存在する世界。
 黄昏。誰そ彼。逢魔が時。この時間に何が起ころうと不思議じゃない気分になるのはきっと、そんな世界が重なっているからだ。過ぎ去れば幻のように零れ落ちていく時刻。


 通り過ぎてゆく顔の無い人はみな、無関心だ。


 ……当たり前か。だって彼らはもう既に終わっている。ただ残ったカタチにすぎない。
 垣間見るのは過ぎ去った日々の残滓。自分が異邦人だということをわかっているから何もせずに眺めている。見渡す視界、この時間だけの人通りは絶えない。不確かな存在なのに確かな足取りで彼等は通り過ぎていく。
 多分、帰るために。(――何処へ?)
 もうこの世界に居場所がない彼らは何処へ帰るというんだろう。解らないけれど、だけど確かにそうなのだ。この黄昏時、この曖昧な時空。今だったら簡単にあの夕焼けのなかに飛び込んで行けそうな錯覚。

 ただ無性に、帰りたくなる。

 視えない傷口から透明な血が流れ出ているかのようにじくじくと痛み、疼く。それが訴える。居ても立ってもいられなくなる。泣き喚きたい衝動。
 この時間は不思議と忘れていたはずの色々なものを思い出させる。例えばそれは、迎えに来た誰かの声だったり、手を引かれて辿った帰り道だったり、どこからか漂う夕飯の匂いだったりだとか。
 ……多分きっと、それは、
             
        ―――――郷愁と、呼ばれるもの。

 帰りたいと。帰らなきゃならないと思う。ひどく心細くなって、夕焼けのなか佇んでいるいつかの自分。そんなものを半分閉じた瞼の裏、透けて見える紅の光に幻視する。
 きっと人は「かえる」ことから逃れることが出来ない。それが何処なのかは、わからないけど。
 いつか、何処かへ、誰かの元へ――帰る。そのために生きている。
 彼等は今もそれを探しているのかもしれない。


 カタチを持った影法師。
 みんなは気付かないんだろうか。本当に。
 今はもう居ない人たちがこんな風に、隣り合わせの世界で生きてるってこと。


 死んだ人たちが何処に行くのか――誰も知らない。死ねばそこで世界に干渉する力を失うからだ。物質的には。
 幼い頃、まだ『世界』について何も知らなかった頃、祖父が死んだ。亡骸は温度を失い無機物の冷たさを突きつけた。目を開かなくなったという事実より、それが辛くて怖かった。幼心に『死』というものがどんなものなのか刷り込まれた。
 どれだけそれが無慈悲で容赦なく、取り返しがつかないことなのかを。


『おじいちゃんはもういないの?』
「……そうよ」
『おじいちゃんをやいちゃいやだよ。あついよ、くるしいよ』
「――おじいちゃんの心はね、もうあそこにはないのよ。だから苦しくはないわ」
『そうなの……? じゃあ、おじいちゃんはどこにいっちゃったの?』
「高い高い空の上。それと、おじいちゃんはずっと此処にいるわ。――心に」
『こころ?』
「そう。忘れない限り、おじいちゃんはずっと私たちの胸の中で生き続けるの」
『ほんとう?』
「ええ、本当よ」


 遠いいつかに交わした会話を思い出す。
 今はそれを心底から信じ切れる程子供でもないし、笑い捨てることが出来るほど大人でもない。
 痛みと面影は日に日に輪郭を無くして行く。時間は優しくてそれ故に残酷だ。二律背反の安堵と絶望。
 だったら今視ているこれは幻覚なのかもしれない。自分自身の心が映し出すいつかの幻影。――もしかしたら、願望かもしれなかった。
 それでもいい。
 夜が来る三歩手前で足踏みしたままの空の下で見る夢。


 もういない誰かに逢いたいと想う心が紡ぐ幻。

 
 ゆっくりと瞼を閉じきった。まだ太陽は沈みきらないまま紅に染まる世界。
 結局、曖昧さだけが此処にある全てで。
 比重の違う風が吹いている。今日からから明日へ。昼から夜へ。一方通行の風は逆らうことを赦さず、全ては曖昧なまま流されていく。そうしてそれは廻るのだ。循環するように。
 明日は今日になり、そして昨日になるだろう。
 もうすぐこの時間も終わる。日没と共に彼等は透け消え、在るべき世界に戻るだろう。ひょっとしたらただ視えなくなるだけで変わらず存在しているのかもしれないけど。ただ認識されなくなるだけで。
 それでも、目に視えるものだけ信じればいい。視えるうちは信じよう。たとえそれが幻だったとしても構わないと思った。カミサマは信じないけど、魂の存在だったら信じられる。
 この胸に今も在る、もう居ない誰かの記憶が生き続ける限りは。
 


 生と死の境はこんなにもあやふやだ。けれど、決して交わらない。重なった世界でも触れることは出来ない。一方通行の邂逅だけが赦される。
 逢いたいと思うのなら同じ場所へ行かなければならないだろう。たまに、ふらりと向こう側に行けたらいいなと頭の片隅で思うことがある。けれどまだその時でないコトも充分すぎるほど知悉している。
 それにまだ、生きていたい。生きていきたい。


 ――ああ、帰らないと。


 そろそろ、この時間も終わる。
 瞼を開けばきっと夜になっていて、いつもの色彩を取り戻した世界が待っているだろう。
 遊離させたままだった意識の半分を引き戻そうとした時、不意に名前を呼ばれた。反射的に瞼を開けば太陽の最後の残滓に目を灼かれ視界が真っ白に塗りつぶされた。
 眩んだままの目。それでも何故か目の前に立つ人影が誰か解る。所謂、幼馴染みと呼ばれる関係の、頭が上がらない相手―――、
「こんなところで寝てたら風邪引くでしょうが」
「う、いや、別に寝てたってわけじゃ」
「何言ってんの。どこからどうみても寝てるようにしか見えなかったわよ」
 ……なにより、口では絶対に敵わないんだ。
「あたしが買い物帰りに通ったからいいものの、本当に呑気ね。世の中最近物騒なのに」
「だから、本当に寝てなかったんだって」
「どうだか」と呆れたように肩を竦め、有無を言わせずこちらの手を握って歩き出す。
「ち、ちょっ…!」
「ホラホラ、帰るわよ」
 半ば引き摺られるように歩きながらもどうしてかその手を振り払うことを出来ない。
 繋いだ手の感触は何より確かなもので、
 それが、泣きたくなるほど切なく嬉しかった。




 曖昧だった時間は通り過ぎ、逃れられない現実が廻る。
 昨日が今日になり、今日が明日になっていく。
 だから、今日はさよなら。バイバイ。
 ――また、明日。

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