★追悼・加藤紘一元自民党幹事長との思い出-(田中良紹氏)

フーテンが政治家加藤紘一を取材した最初は36年前の1980年である。

大平内閣の官房副長官だった加藤氏を政治部記者としてではなく春闘を担当する社会部記者として取材した。

春闘は総資本対総労働の闘いと思われているが、全体像を指揮統括するのは官邸にいる官房副長官である。

ストライキを打たせるかストなしで終わらせるかはすぐれて政治的であり、そのさじ加減は官邸に委ねられる。

当時フーテンは昼間は労働組合を、夜には経営者宅を回り、

さらに深夜になると議員宿舎に加藤官房副長官を訪ねて話を聞いた。

その年の春闘はそれまでの労働運動の常識を覆した。それまで労働側は国鉄と私鉄の労組が共闘し、

全国的な交通ゼネストを構えて賃上げを迫る戦術だった。

ところがこの年は私鉄が始発だけでストライキをやめ、国鉄は午後までストライキを打つことになる。

それが後に「総評」の解体と「連合」の結成につながるのである。

ある晩加藤官房副長官が「国鉄と私鉄が異なる対応をしたら何が起こるかな?」とフーテンに聞いてきた。

それがヒントとなり、新聞とテレビ各社が「交通ゼネスト必至」と報道する中で、

TBSだけは「スト中止の可能性」を報道し続けた。

そして当日の早朝に私鉄はスト中止を決め、「スト突入」の見出しを掲げた新聞は恥をかいた。

当選2回で官房副長官に就任した加藤氏が大平派(宏池会)の輝けるホープであることは誰の目にも明らかで、

当時から将来は総理になる人だと思っていた。

その加藤氏はフーテンがアメリカの政治専門局C-SPANと提携し、

日本に「国会TV」を作ろうとすることに強い関心を示した。

1990年にワシントンからC-SPAN社長などを招いて開いたシンポジウムを、

後藤田正晴氏とともに最前列で聞いてもらい賛意を表して頂いたが、

しかし「国会TV」を立ち上げるには「電波利権」を巡る複雑かつ壮絶な既得権益との闘いがあり、

スタートまでには8年の月日を要した。

その間に宮沢政権が誕生し加藤氏は官房長官となる。

すると92年の通常国会で宮沢総理がマネーゲームに踊るアメリカ経済を批判したことが

「アメリカ人は怠け者と発言した」と報道され、アメリカ議会を激怒させる事件が起こる。

「怠け者が戦争に勝てるのか」、「日本は戦争に負けたことを忘れている」、

「もう一度原爆を落としてわからせろ」などアメリカ議会では過激な発言が相次いだ。

背景には経済でアメリカを上回る勢いの日本に対する妬みがある。

フーテンは宮沢総理の真意をC-SPANを通して全米に放送したらどうかと提案したが、

外務省やNHKの反対で実現しない。そこで衛星ビジネスに進出しようとする伊藤忠商事と組み、

全米1000局と日本の80局のケーブルテレビを衛星で結び、

視聴者が電話で参加する双方向の討論番組を企画し、加藤官房長官に出演してもらった。

加藤氏は自身のハーバード大学留学中の思い出を語りながら、

アメリカ民主主義の素晴らしさを訴え宮沢政権に対する怒りを和らげようとしたが、

電話で意見を述べるアメリカの視聴者はこちらが拍子抜けするほど冷静だった。

「騒いでいるのはメディアと政治家だけ。

メディアと政治家の発言を信ずるのは危険」とアメリカの視聴者から言われ、

加藤氏もフーテンもアメリカ民主主義の奥深さを改めて感じさせられた。

93年の宮沢内閣不信任案可決によって自民党は分裂、

日本の政治は政権交代可能な政治体制を求めて波乱万丈の時代に突入する。

それも「国会TV」の実現にはマイナスに作用した。

CSでようやく放送を開始できたのは97年末である。

しかしアメリカと日本の放送の仕組みには違いが多く、C-SPANを真似た「国会TV」は経営的に難しかった。

その頃、自民党幹事長となった加藤氏に呼ばれ「国会TV」の状況を聞かれた。

加藤幹事長は「日本政治に必要なメディアだ」と言い自民党として支える考えを表明されたが、

間もなく橋本政権の幕引きとともに幹事長を森喜朗氏と交代する。

ところが森幹事長は加藤氏とは対照的であった。

一時期、「国会TV」を経団連と連合が共同で出資し、フーテンが中心となって運営する構想があった。

与党と野党に政治献金をしてきた経団連と連合が献金をやめ、

国民に政治情報を公開する仕事に金を回そうとする考えである。

「国会TV」の費用など政治献金に比べれば微々たるものだが、

森幹事長は「いずれ経団連の政治献金を復活させる」と言い、

それには「国会TV」が邪魔になるという姿勢だった。

その森氏より先に総理になると思われていた加藤氏は、しかし森氏に先を越された。

2000年4月、自民党内の「密室の協議」で

小渕政権に対立した加藤氏より小渕政権を支えた森氏に総理の椅子が与えられる。

しかし「密室の協議」から生まれた森政権は初めから終わりまで国民に不人気であった。

11月9日、森政権に対する加藤氏の不満が「加藤の乱」となって爆発する。

森内閣不信任案に加藤氏が賛成するのかどうかが注目された11月20日の衆議院本会議、

「国会TV」はその模様を生中継していた。他のテレビは全く放送していない。

すると夜の8時過ぎ、松波健四郎衆議院議員が演壇から議場の議員にコップの水をかけて

審議が中断された。審議再開がいつになるかが分からず、放送の再開も未定となる。

その時、湾岸戦争で多国籍軍がバクダッド空爆を始めた時に、

C-SPANが徹夜で視聴者による電話討論番組を放送したことを思い出した。

私がスタジオにいてカメラは私だけを映す。

その私が視聴者に加藤氏の行動に対する賛否を電話してくるよう呼びかけ視聴者同士の討論を始める。

日本でそんな放送が成り立つかどうかわからないがやってみた。

放送を見ている人がいるかどうかもこちらは分からない。

しかし呼びかけて1分が経った頃電話がかかってきた。

加藤氏の行動を支持する電話だった。すると次から次へと電話がかかってくる。

「反逆するなら離党してからやるべき」、「私は山形出身だけど誇りを感ずる」など電話はとまらなくなった。

そのうち「みなさん年齢を教えてください」と提案がある。

20歳未満の若者から老人までみんなが溜まっていた政治に対する思いを電話で番組にぶつけてくる。

加藤氏の行動に賛成する者も反対する者も相手の誹謗や侮蔑の発言はない。

次第に電話をしてくる者同士の連帯感のようなものが湧いてきた。

こうして午前2時まで電話討論は続けられた。

「加藤の乱」の失敗で加藤氏の政治力は失墜した。

フーテンは加藤氏に「平時のエリート」を感じていた。

戦うなら自民党を割って出てもやる覚悟がなければ戦いにならない。

乱世には向かないひ弱さと甘さが加藤氏にはあった。

しかしだからと言って加藤氏が政治家として無能というわけではない。

世が世であれば立派に総理を務められたと思う。

加藤紘一元自民党幹事長の訃報に接し、一日中さまざまな思い出が甦ってきて終わらない。

ここに書いたのはそのほんの一部である。合掌。

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