p_sa1oooo4

とぅじ · @p_sa1oooo4

27th Aug 2016 from TwitLonger

【ネタバレ】君の名は。のこと【注意】


映画『君の名は。』についての感想や考察。と言ってもメモ程度のものです。
がっつりネタバレを含んでいるので、映画を見ていない人には閲覧をおすすめできません。
むしろ映画を見た人には見て欲しいかも知れません。












★「君の名は。」の“境界”★

物語のキーのひとつは“カタワレ時”。昼でも夜でもない時間。境界が曖昧な時間。逆に言うと、境界を越えている最中の時間でもある。昼から夜に変わる時間。
この物語の中で、2人はいろんな境界を越えた。お互いの肉体、男女の性別、東京と飛騨/都会と田舎という場所、現在と3年前という時間。
それからめいりーさん(@zntf_mit )が指摘した、扉の描写。宮水家の和式の扉が開くシーンと、瀧が乗る電車の扉が開くシーンは繰り返し登場する。あれだって、内と外の境界を越えてる。
そして、宮水神社の御神体。そこに行くには、この世とあの世の境界を越えなければならない。瀧は、その境界を越えて再び三葉に会いに行った。
物語の主人公は、いつだって境界を越える存在だ。境界を越えないと物語が始まらない、と言い換えることもできる。例えば『ハリーポッター』シリーズでは、ハリーが人間界と魔法界の存在を越えることから物語が始まる。『トイレのピエタ』だって、生と死の境界を越えることを余儀なくされた宏の物語。
主題歌の『前前前世』と『なんでもないや』。前者には「心が身体を追い越してきたんだよ」、後者には「君の心が君を追い越したんだよ」という歌詞が登場する。偶然とは思えない。この“心”は、当然「会いたい」と思う気持ちだと思う。「ずっと誰かを探している」という言葉を強調しているから。会いたすぎて、心だけ飛び出て、入れ替わってしまった。心が、身体の内側から外側へ“越えて”しまった。『前前前世』はオープニング、『なんでもないや』はエンディングに使われている。物語が終わったあとに、もう一度繰り返すように、確かめるように、「君の心が君を追い越した」という言葉が登場する。エンディング曲に迷ったとRADWIMPSは言っていたけど、これで大正解だったと思う。ずるいなぁと思った。
ちなみに作中でも触れられていたけど、カタワレ時=黄昏時で、黄昏の語源は「誰そ彼」。「誰そ彼」は現代語訳すると「誰だあいつは」。お互いに「誰?」と問いかけ続ける映画。よく出来てる。



★男女の描き分け★

中身が入れ替わっているときとそうでないときでは明らかに仕草が違っていた。
瀧がオネエみたいだったり、三葉が男勝りだったり。
これは作画も声優もかなりこだわったんじゃないかと思う。
特に、御神体のところで瀧と三葉がすれ違って、見えないお互いに手を伸ばすシーン。三葉(in瀧)は手のひらを相手に充てるようにしていたのに対して、瀧(in三葉)は腕を掴むように手を伸ばしていた。すごく対照的で、特にこだわりを感じたシーン。



★2人のコミュニケーションの取り方★

2人は、スマホに日記を書く事でコミュニケーションを取っていた(悪口を皮膚に殴り書いたりはしてたけど…)。
でも、冒頭の「お前は誰だ?」や瀧の手のひらに書いた「みつは」、終盤に手のひらに名前を書く(未遂)行為は手書き。
つまり、基本的なコミュニケーションはスマホというデジタル形式で。ただし、「自分が誰であるか」に関わるものだけは手書きというアナログ形式で記していたことになる。
瀧は、消滅した糸守町を見た時、三葉の存在を証明するためにスマホの日記を見る。ところが、次の瞬間バグを起こしたようにそのデータは消えてしまう。しかも瀧の記憶も薄れていくので、瀧が忘れてしまえば三葉の存在は瀧の中で「なかったも同然」状態になってしまう。
一方で、初めて瀧と三葉が顔を合わせた時、瀧は「忘れないように」と手のひらに名前を書く。
忘れたらなかったことになってしまうデジタルと、思い出せるアナログの記録の対比。
これは日常生活でもよくあること。デジタルで残しているものは、一度記憶から抜けてしまうと、忘れたままのことが多い。ブックマークし忘れたサイトとか。膨大な情報の海の中で、記録を保存しなかったり消してしまったりして、頭の中からも消えてしまったならば、二度と記憶の復元はできないんじゃないかと思う。でもアナログのもの、例えば本なんかは、一度なくして忘れかけても、偶然見つけて思い出に浸るなんてことがよくある。つまりアナログものの方が、デジタルものよりずっと記憶の復元がしやすいものなんだと思う。もちろん手書きで書いたあの文字も、手を洗えば消えてしまうものだけれど。三葉の存在の証拠であったデジタルデータが消えていく様子を目の当たりにした瀧が、お互いの存在とその代名詞たる名前を「忘れないように」と手書きを提案したのには、こんな意味もあったんじゃないかと思う。



★2人が出会わない結末★

実は、最後の最後まで、「瀧と三葉は出会わないまま終わるんじゃないか?」という可能性を感じていた。三葉の母や祖母と同じように終わってしまうんじゃないかと。それでも、次の代(三葉の子ども)がまた別の誰かを探し続けることになるんじゃないかと。そうなってもおかしくない展開だったと思う。
でも、ラストシーンに登場した三葉は、糸守町を出て東京で暮らしていた。つまり、巫女を継がずに、そういう意味では由緒ある「宮水」の名を捨てた。母、祖母、あるいはもっと前から、宮水の人間は、誰かと入れ替わるという出来事を経験してる。まるで呪いみたいに。三葉のお父さんが「宮水の人間は決まって妄言を言う」というような発言をしていたことからもそれは明らか。逆に言うと、宮水の人間にしかその呪いは発現しないんじゃないかと思う。つまり、家を出て伝統的な形式的には「宮水」の人間でなくなった三葉には、仮に子供ができたとしても、その子に呪いは発現しなくて、会ったことのない誰かを探すという経験をすることもないのかも。
だから、三葉が家を出たことは、「代々の呪いを自分で終わらせる」=「瀧に会う」ということの無意識の意思表示というか、伏線だったんじゃないかと思う。




★2人の名前★

エンドロールで瀧と三葉の名前を見た時にハッとした。

立花 瀧
宮水 三葉

「花」と「水」、「瀧」と「三葉」。
お互いが草花であり、お互いに水を与え合う存在だったんだろう。
特に瀧くん。奥寺先輩は、「瀧くんは誰かと出会って、その出会いが瀧くんを変えた」と言った。きっと三葉に水を与えられたから。そんな瀧くんの「立花」という名字は、本編では特に言及されなかったけど。




それから。
パンフレットの、RADWIMPSの紹介欄。
智史くんの名前があって嬉しかったです。









Reply · Report Post