教会籍について思う(まだ書きかけ、考え中)


【教会籍】(メンバーシップという言い方もされます)
教会籍がもたらすメリットとデメリット。

洗礼を受けてクリスチャンとなり所属教会の礼拝に集い教会家族としての新しい歩みを始めることはとても自然であり、キリストの体なる教会(普遍教会)の一部(地域教会)に属することは大切です。

日本の多くの教会では「教会籍」という制度を持っています。
この教会籍は教会の歴史の中で発生した制度で必ずしも聖書的ではありません。
しかし、わが国の様な異教、異端の多い国では教会においても個人においても守りとなる制度でもあります。まず、本人がキリスト教による洗礼を受けクリスチャンとして群れに属していることを証明することで異端による洗礼者の混入を防ぎます。また、洗礼を受けた人の群れへの所属意識を助けることで聖書が進めている教会形成(エペソ人への手紙 4章1節〜16節)を担う働きにつき共に成長することができるからです。

一方、教会籍をもつことでのデメリットもあります。
それは本来、神が召し、神が運び建て上げるキリストの体なる教会を人の管理によって運営しようとする傾向を助ける制度にしてしますことにあります。個人の管理、献金の管理、教会の政治や予算、組織運営がまるで自治会や政党団体のように人の力や人脈で動かされることです。会堂の建築、維持、組織の維持が教会にとっての大きな働きとなって本来の世の光、地の塩となる部分以上に各教会員の責任が人為的に追求されてしまうのです。

教会籍は聖書にはないが歴史の中で生まれた知恵であり文化です。
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群への所属意識と信仰の成長、交流など助けとなることも多く、異端から群れを守りにもなります。
しかし一方、それが人や組織を管理、運営するという方向で作用する時にこれは聖霊の働きではなく人力教会を作り、人間的な運営方法による教会を生みます。

教会籍が、組織の運営や管理に使われると本来は神が運ぶ教会をまるで人が運営するかのような錯覚を生みます。そのような流れに反対してわが国では『無教会派』が生まれます。これは内村鑑三などによって起こされたムーブメントで、既存の伝統的な教団教会が人間運営に陥って信仰がまるで「キリスト道」のように人に管理されていく事に対抗しました。
しかしまた、この「無教会運動」も聖書研究に重きを置きすぎて活けるキリストの体なる教会の姿とは異なる存在となったように思います。ヨーロッパなどからもブラザレン、メノナイト(再洗礼派)、クエーカーなど似たような群れは存在します。

さらに80年代以降米国などから入って来た教会(横文字の名前を持つ教会が多いように思われます)では教会籍を持たない群れも少なくありません。宣教師の事情で日曜の午後礼拝をしたり土曜礼拝をすることで、既に既存の教会に集う信徒を自分たちの礼拝に集わせて『聖書に教会籍などない、日本の教会はおかしい』という無知でもって自分たちの群れやバイブルスタディーを進める人も少なくありません。

私たちも管理という意味では教会籍をもちませんが、この事が一部の教会から誤解され批判を受けることもあります。(うちの教会の名前も例に漏れず横文字ですから)それは他教会に籍のある人を安易に礼拝に集わせ教会員を盗むかのような批判です。私たちの教会には教会員制度はありませんが、集う人たちには明確な所属意識はあります。戒規も愛をもって聖書的に厳格に行われています。

ある教会で戒規(除籍)された者を安易に受け取るようなことはしません。私たちも同じくキリストの体の一部として地域で共に活動してるので、近隣教会との交流を大切にしています。たんなる聖書を教える聖書塾のような集いが聖餐式だけどこかの教会で受けて来なさいなという発想は反対しています。(クリスチャンは全員、地方教会 ”=ローカルチャーチの訳です”に属する者であることは聖書にある通りです。エペソ人への手紙、1コリント人への手紙12章など。)

私たちの教会に教会員という制度はなくとも、一人ひとりは群れに対する明確な所属意識を有し、奉仕も献金も交流も管理されてではなく自発的にそしてさらに(御霊の働きによって)活発になされています。
日曜日に礼拝に行くのがクリスチャンではなくて、所属する群れに集い互いの愛を実践し、共に祈り合い共に仕え合うキリストの体ですか。

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