★GHQ・GS主導日本民主化否定は本質的誤りー(植草一秀氏)

二つの問題を混同するべきでない。

一つの問題は、政府の役割についての考え方である。

これを私は

「弱肉強食」対「共生」

と捉える。

自助・自己責任・機会均等

を基軸に、

結果における格差を容認する立場がある。

市場原理にすべてを委ねる市場原理主義。

新自由主義の立場。

これに対して、

共助・生存権・再分配

を基軸に

結果における平等、あるいは最低保障ラインの拡充を重視する立場がある。

共生重視主義

友愛主義

とでも呼ぶべき立場だ。

政府は経済活動に介入しないという立場と政府が経済に介入して「再分配」を行うという立場の対立である。


もう一つの問題は、政治形態の移行の方法に関わる問題だ。

議会制民主主義の制度を採用しているなかで、

選挙における多数勢力獲得を通じて政治の変革を実現するという立場と

武力による権力の奪取を目指すという立場の

対立である。

「共産主義との戦い」

という場合に、両者が混同されている場合が多い。

敗戦後の日本の統治はGHQによって行われた。

GHQによる日本統治の初期においては、GHQ内の民生局(GS)が実権を持った。

ケーディス、ホイットニー、マッカートなどの人物が日本占領政策を主導した。

この下で、戦後民主化が断行された。

農地解放、財閥解体、労働組合育成、教育改革などが断行され、日本国憲法が制定された。

しかし、1947年を境に、米国の対日占領政策が大転換した。

民主化措置は中断化され、占領政策の基本は「民主化」から「反共化」に転換した。

日本の「民主化」を主導した人々は、「共産主義者」として批判されていることも多い。


ソ連の事例を見れば、革命が行われ、その後「自由主義」が失われた現実がある。

このことから、「共産主義」に対する警戒が生まれるのは当然のことではある。

しかし、このことから、短絡的な論理の飛躍が行われていることが少なくない。

それは、「自由主義」を修正する、あるいは「自由主義」に制限を加える「修正資本主義」、

政府の「再分配機能」を重視する政治主張を、

単純に「共産主義」と総括する乱暴な論理が広く観察されることである。

日本政治をどう変えるのかという問題を考察するときに、この問題がそのまま援用されることも少なくない。

安倍政権が推進する「弱肉強食推進の政策」の是非の問題だ。

多くの主権者が「弱肉強食主義」に反対して「共生主義」への路線転換を求めている。

小選挙区制度のような選挙制度の下で「弱肉強食主義」の勢力を劣勢に追い込んで、

「共生主義」の勢力が政治権力を確保するためには、

「共生主義」を唱える政治勢力が大同団結することが必要である。

そのときに、安倍政権が持ち出すのが、

「暴力革命を目指す共産主義勢力」が「共生主義」勢力のなかに存在するという主張である。

本当に「暴力革命を目指す勢力」が存在するなら、「共生主義」を唱える主権者の多くは、

そのような勢力と手を組むことは拒絶するだろう。

このような重大な問題について、憶測や虚偽の主張は有害無益である。

主権者の大多数は暴力革命ではなく、議会制民主主義の下での政治刷新、政治変革を求めている。

大同団結を推進してゆくうえで、この点を明確にしたうえで、大同団結を推進してゆくべきであると思う。


米ソの冷戦が激化するなかで、両陣営がさまざまな諜報活動を展開したことは事実であるし、

米ソ両国がグローバルに両陣営の勢力争いを展開したことも事実である。

米国内部にもソ連側の立場で諜報活動を行った者が存在することは事実である。

そして、ソ連や中国においては「自由」が制限され、

「国家」による統制が厳しく実行されてきたこともまた事実である。

「自由」と「民主主義」を重んじる人々が共産圏諸国の現実を批判し、

この意味での共産主義に対抗してきたことは当然のことでもある。

しかし、この問題と政府の役割についての意見対立を混同するべきではない。

敗戦後の日本における「民主化」措置は、「民主化」措置であって「共産化」政策ではない。

北欧諸国などでは、国民負担率が高く、政府の「再分配」における経済への介入の度合いは極めて高い。

しかし、政治の体制としては「自由主義」であり「民主主義」である。

「弱肉強食」か「共生」かという問題と、

「自由」と「民主主義」の否定とは、

まったくの別問題なのである。


1947年以降の日本では、冷戦激化の環境下にあった米国が、日本における共産主義排除に総力を結集した。

そのために、「民主主義」の主張や、「所得再分配」の主張までもが、「共産主義」の一角と見なされて、

「赤狩り」

「レッドパージ」

の対象とされてきたのである。

「資本主義」、「自由主義」は放置すれば、際限のない所得格差を生み出す法則性を有する。

「共産主義」は「資本主義」、「自由主義」を否定する面を強く有するから、

資本主義の矛盾を指摘する主張は、「共産主義」と重なる部分を有するのは事実である。

しかし、「資本主義」や「自由主義」の枠組みのなかで、その問題点を指摘し、

その矛盾を是正しようとする立場が存在することも、十分にあり得ることなのである。


戦後日本では、1947年を境に、自由主義、資本主義を批判するすべての主張が

「アカ」として排除される傾向を有してきた。

その延長線上に現在があると言っても過言ではない。

「安倍政治を許さない!」

とする国民運動が高まり、日本政治を刷新しようとするうねりが生じている。

そして、衆参両院の国政選挙において、

「新自由主義経済政策」

=「弱肉強食推進経済政策」

に反対し、

「格差是正」

を求める政治勢力が「共闘」する行動を強めている。

国民の要請に基づく当然の行動である。


こうした主権者連帯運動が広がりを見せれば、安倍政治はたちどころに劣勢に追い込まれる。

その危機感から、さまざまな敵陣営に対する攻撃が行われている。

そのひとつの柱として、共産党攻撃がある。

共産党が本当に武力革命を目標にしているというなら、

多くの主権者は共闘の対象には含めて考えないだろう。

そして、共産党自身が明確にこのことを否定している。

野党共闘が成立して政権交代が実現するとしても、共産党が単独政権を樹立するということではない。

有りもしないことを喧伝して、誹謗中傷を展開することは、

憲法が保障する結社の自由に反する行為であるとも言える。


逆に考えると、弱肉強食推進=戦争推進の政治勢力は極めて強い危機意識を有しているということでもある。

安倍政治の

戦争推進

弱肉強食推進

に反対する主権者が結集すれば、安倍政治がたちまち瓦解してしまうことを認識していることの裏返しが、

さまざまなヒステリックな反応を生み出しているのだと理解できる。

安倍政権は、安倍政権が瓦解することを防ぐために、

共産党攻撃を強めるとともに、

民進党内の「隠れ自公勢力」の拡大を全面支援している。

この二つによって、

「安倍政治を許さない!」政治勢力の結集と拡大を防ごうとしているのである。


「安倍政治を許さない!」政治勢力の結集と拡大を実現するには、

共産党がより明確に「武力革命を否定」するとともに、

政策を基軸にする主権者の側の連帯を強化するために、

民進党内の「隠れ自公派」を排除する方策を構築することが重要である。

再論になるが、戦後日本の「民主化」にとって、

敗戦直後のGHQ・GS主導の民主化措置は極めて重要であったし、意義深いものであった。

この改革がなければ、戦後日本は存在しない。

日本国憲法も、戦後民主化も、初期のGHQ統治の賜物なのである。

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