★英国の民主主義を前進させたジョージ5世を思い出させる「天皇のお言葉」-(田中良紹氏)

「天皇のお言葉」を聞いて「人間天皇の叫び」と「象徴天皇制を継続させる強い意志」を感じさせられた。

天皇は象徴天皇制について、憲法に定められた国事行為だけではなく

「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切」と考え、

そのため皇后とともにほぼ全国を旅し

「国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなしえた」ことに

幸せを感じておられる。

しかし天皇も人間である。高齢化とともに体力は衰え、将来に不安を感ずるようになった。

だが象徴としての行為を縮小していくことに天皇は反対である。

行為を代行する摂政を置くことにも反対である。

務めを果たせぬまま天皇であり続けることに許されない思いを抱いておられる。

そして天皇は人間であるから家族もおられる。

昭和天皇が亡くなられた時に「自粛ムード」が社会を覆い、

国民生活に支障が出たようなことは避けたいと考え、

葬儀と並行して新時代に向けた行事が同時進行するのは残された家族に

厳しい負担を負わせることを経験上知っている。それらを避ける方法はないものだろうか。

日本国の長い天皇の歴史を見れば、

「国民と共に、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、

そして象徴天皇の務めが途切れることなく、安定的に続いていく」方法があるのではないか。

そのように天皇は訴えられたのである。

日本は立憲君主制の国である。

戦前の大日本帝国憲法は天皇を国家元首とし「神聖にして侵すべからず」と規定したが、

しかし憲法を起草した伊藤博文は天皇を絶対君主と考えたわけではない。

天皇は直接政治にかかわらず、天皇の権威を利用して官僚が政治の実権を握る体制が作られた。

例えば日清・日露の両戦争とも天皇は反対だったが日本は戦争に突入する。

ただし戦前は皇室の在り方を定めた皇室典範が憲法と同等の地位を占めたが、

戦後は大日本帝国憲法に代わる日本国憲法が皇室典範より上位となり、

天皇は国家元首ではなく国民統合の「象徴」と位置付けられた。

同じ立憲君主制でも戦前はドイツ型で、戦後は「君臨すれども統治せず」というイギリス型になった。

この象徴天皇の在り方に天皇は強いこだわりを見せ、

それを安定的に継続する道を模索して国民に直接訴えられたのである。

政治的行為を許されない象徴天皇であるから天皇は行政府や立法府を超えて国民に訴えられたが、

問題が皇室典範の改正となれば様々な議論が出てくることは間違いない。

これまでの政権運営に国内の右派勢力から不満の声が上がっている時、

安倍政権としては極めて難しい課題を迫られたことになる。

ところでフーテンは天皇のビデオを見ながら英国王ジョージ5世を思い出していた。

ジョージ5世は1910年から1936年まで英国王であったが、

就任時に英国政府と貴族院が増税を巡って深刻な対立に陥った時、

強権をふるう貴族院に組みせず、

庶民の側に立って貴族院優位の英国議会を改革するきっかけを作った。

英国議会は700年の歴史を持ち「議会制度の母」と言われるが、

当初は大土地所有の貴族が自分たちの収める税金を監視するためのものであった。

それが産業革命を経て商人や職人なども税金を納めるようになり、

世襲の貴族院に対抗し選挙で選ばれる庶民院が設けられ英国議会は二院制となった。

しかし貴族院の力は強く、庶民院が貴族院に逆らうのは命がけで、そのため誰も議長のなり手がない。

最年少の者が議長にさせられる風習ができてそれは今でも残っている。

その英国議会で世襲の貴族院から決定権を奪ったのが1911年の議会改革である。

それまでも予算の決定権は選挙で選ばれた庶民院が優先されることになっていたが、

1909年に政府が土地課税予算案を提出すると貴族院が猛反発して予算案を否決した。

貴族院の予算案否決は17世紀以来の出来事で、政府は庶民院を解散して国民に信を問い、

さらに貴族院の決定権を拒否する法案を提出して対立が深刻化する。

こうした騒ぎの中でジョージ5世は国王に就任した。

新しい国王が政治の混乱に巻き込まれることを周囲は懸念したが、

ジョージ5世は混乱を収めるため、政府に対し再度国民の信を問い選挙に勝ったなら

土地課税に賛成する者を貴族にすると約束する。

国民の意向を最大限に尊重する姿勢を見せたのである。

その結果、政府の意向通り貴族院は庶民院が可決した法案を否決する権利を奪われ、

1年間の執行停止だけが認められることになった。

貴族院の横暴はこれで終わり、英国の民主主義は大きく前進することになったのである。

ジョージ5世は晩年になっても「自分はごく平凡なひとりの人間に過ぎない」と述べるなど、

その人柄によって英国民から愛されたが、日本の昭和天皇も大きな影響を受けたと言われる。

1921年に皇太子だった昭和天皇がロンドンを訪れた際、

ジョージ5世は父親のように世話をして「君臨すれども統治せず」という立憲主義の本質を教えたと言われる。

また今上天皇の教育掛をした小泉信三氏もジョージ5世の伝記をテキストにしたというから

その影響は二代にわたるものかもしれない。

今回の「天皇のお言葉」はこれまでの日本の常識で言えば極めて異例のことだと思うが、

何よりも国民に訴え、国民の合意を得たうえで、

「象徴」という制度を安定的に継続させるという強い意志を表に出されたのは、

皇太子時代に学ばれたジョージ5世の帝王学が身についていたからかもしれない。

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