★新自由主義経済政策が国民の生命を脅かすー(植草一秀氏)

すべての基本に市場原理を置くことには弊害があることを留意するべきだ。

市場原理によって資源の配分が効率化することを否定するつもりはない。

市場メカニズム、価格機能が資源配分の効率化をもたらすのは事実である。

しかし、何から何まで市場に委ねれば良いというわけではない。

消費者はモノやサービスの価値と価格を吟味する。

高い価値のあるものを安い価格で買いたいと考える。

当然のことだろう。

しかし、モノやサービスの価値を正しく知ることは、実は難しい。

価値の違いが誰の目にもはっきりと、間違いなく分かるものであれば問題はないだろう。

しかし、多くの分野で、モノやサービスの価値が分かりにくい場合がある。

「安全」

に関する本当の価値は、実は分かりにくい部分がある。

「安全」

が問題になるのは、

例えば、今回のバス事故のような乗り合いバスの安全性。

あるいは、食品の放射線量や添加物、残留農薬などの問題。

ステーキを安く提供する店があるが、消費者がどのような肉を食べているのかについては、

その詳細は分かりにくい。

消費者はできるだけ高い価値のモノやサービスを、できるだけ安い価格で買おうとするだろう。

他方で、事業者の多くは、利益を追求する。

事業者が投入するコストに比例してモノやサービスの価値が高まるという前提を置くと、

事業者にとっては、できるだけ価値の低いモノやサービスを、できるだけ高い価格で売ることに努めるだろう。

しかしながら、例えば、乗り合いバスのような例で考えると、

普通の消費者は、目的地まで行って、目的地から帰ることだけを考えると、

そのサービスの価値は、どの事業者でも大差がないから、

できるだけ安い価格を提示する事業者のサービスを選択しようとするだろう。

そうなると、市場での競争は、もっぱら価格競争だけに集中することになる。

事業者の競争は単純な価格競争に陥り、そのなかで利益を出そうとすれば、

提供するサービスの質を低下させざるを得なくなる。

今回のバス事故では、規則で定められている価格を大幅に下回る価格で

バス会社のサービスが提供されていたことが判明した。

消費者には、

「目的地に行き、目的地から帰る」

というサービスの基本内容だけしか見えないが、

過酷な価格競争が展開されると、こうした、見た目には分かりにくい部分で、

実質的なサービスの劣化

が生まれることになる。

この構造によって発生した事故であるとすれば、この事故を、単なる偶然によって引き起こされた

「事故」

として済ませぬ部分が浮かび上がる。

人間の生命に関わる重大な問題

であるなら、そこに公的な規制を設定することも検討すべきということになる。

例えば、食品に関して、さまざまな添加物の使用制限がある。

カビの混入も許されない。

賞味期限切れの食品の流通も許されない。

食肉などでは、産地や種別の表示に対する厳しい規制も存在する。

したがって、安全な旅客輸送を確保するためには、厳正な規制の設定と、

その規制を遵守させる体制の確立が不可欠なのである。

すべてを市場原理に委ねて、制限のない競争を是認すれば、いくらでも、この種の悲劇が発生してしまう。

2001年の小泉政権誕生以降、この国では、規制撤廃、市場原理が、

唯一の正義であるかのような論説が振り撒かれてきた。

そして、市場メカニズムで勝者と敗者が生まれ、勝者だけが肥え太り、

弱者がせん滅されてしまうことを是認する風潮が強化されてきた。

その流れを後押ししているのが、いまの安倍政権である。

しかし、その流れが正しくはないことを、私たちははっきりと認識するべきである。

価格メカニズムをすべて否定する考えは毛頭ないが、

価格メカニズムだけにすべてを委ねることは明らかな誤りなのである。

価格メカニズムが十分に機能できない部分がある。

その部分には、人為的な手を入れて、人びとの生命を守るための厳しい運用体制が必要不可欠になる。

価格メカニズムにすべてを委ねるという方法は、突き詰めれば、

人命が軽んじられる社会を生みだすことにつながるのである。

本当に安全を確保するには、高い料金を払い、

そして、信用のある事業者を選ぶことが重要なのだという反論があるかも知れない。

たしかに、そう言える部分はあるだろう。

しかし、例えばバス旅行の事業者を選択する際に、

信用を置ける客観的な情報が十分に提供されているわけではない。

安い価格で良質のサービスを提供する事業者もいれば、

高い価格で質の悪いサービスを提供する事業者も出てくるだろう。

つまり、単純に価格が高ければ安全、価格が安ければ危険という判断はつかないのである。

このような点をカバーする上で、消費者、利用者の声が重視されるようになっている。

各種の口コミ、消費者による評価が重要になる。

たしかに、利用者が広範に存在するモノやサービスについては、

こうした消費者の口コミ情報が有用性を発揮するかも知れない。

しかし、そのような広範な情報がすべてのモノやサービスに提供されているわけではない。

また、乗り合いバスの事例で考えれば、

たまたま、そのバスの運転を任された運転手が、どの程度の技量を持っているのか、

あるいは、どのような健康状態、どのような勤務状態で業務についたのかに、大きな個別差も生じる。

したがって、本当に国民の生命を守る必要があると考えるなら、

このような事業に関しては、相当に細部にわたる規制基準を定めて、

この規制基準を遵守させる体制を構築することが必要不可欠なのである。

これは原発でも同じだ。

原発などの場合には、こうした問題に関心を持ち、意見を表明する人が多いだろう。

それでも、原発の問題でも、十分な安全が確保されているとはまったく言えないのである。

日本では2008年に4022ガルという地震の揺れが観測されている。

そして、この規模の揺れは、日本全国のどこでも、いつでも発生し得るものである。

したがって、誰でもが考えられる、最低限の基準として、

日本のすべての原発は、最低でも、この4022ガルの揺れには耐えられるような設計で

構築されていなければならない。

ところが、安倍政権が再稼働させた九州電力川内原発の耐震性能の規制基準は、

驚くことに、たったの620ガルである。

耐震性能の基準をこの著しく低い水準に設定して、

この基準をクリアすれば再稼働させてもよい、というような運用が行われている。

つまり、国民の生命、自由および、幸福を追求する権利を、

十分に守るような取り組みが行われていないのである。

誰もが強く「絶対安全」を求める原発についてさえ、

いまの安倍政権は、こうした国民の幸福追求権を侵害するような行動を示している。

バス事業の運用については、つい最近も、同じ軽井沢近辺で悲惨な事故が発生したばかりである。

北陸道のサービスエリアでも悲惨な事故が発生した。

事故はいつでも発生し得るが、人びとの生命を守るための、

十分な規制基準と、その規制基準を遵守させる体制確立は必要不可欠なのである。

しかし、そのような行政が行われていない。

日本がTPPに参加すると、日本が定めてきたさまざまな規制基準が破壊される可能性が高い。

食品添加物、残留農薬、遺伝子組み換え食品の表示義務など、

さまざまな分野でさまざまな規制が存在する。

しかし、TPPに参加すると、日本でビジネスを展開する海外の巨大資本が、

日本の規制基準が存在するために、損失を蒙ったと裁定機関に提訴する可能性が高い。

そのとき、日本の外に置かれる裁定機関は、

規制基準の根拠となる有害性などについて、日本の側に挙証責任をかぶせる可能性が高い。

有害であることを立証できなければ、その規制には合理性がないと判断する可能性が生まれる。

この裁定機関が、日本の規制基準には合理性がないと判断すると、日本はこれに抗うことができない。

日本の規制基準を日本が決められない状況が生まれる。

危険性のある食品の流通が放置され、国民は自分が摂取する食品に、

何がどのように含まれているかを、知ることさえできない状況が生まれる。

安倍政権が推進する規制撤廃=自由化=競争政策=成長戦略は、

このような危険を内包するものなのである。

原発も食の安全・安心も、そして、バス事業における乗客の安全確保も、

すべての底流に流れているのは、国民の生命、自由、および幸福追求の権利軽視なのである。

何もかも、すべてを市場原理に任せてしまうことは、完全な誤りなのである。

すべての分野について、市場原理に任せていい部分、市場原理に任せてはいけない部分を

はっきりと区分し、国民の生命、自由および幸福を追求する権利を確実に守るための制度を

確立しなければならない。

市場原理万能主義、資本の利益のみ追求の行政、政治を改める必要がある。

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