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yuki · @yk264

29th Dec 2015 from TwitLonger

いかさまのゲーム:なぜ合意の上でのセックスがそれでもよくないのか。そしてなぜ私たちはそれについて語らないのか。


いかさまのゲーム:なぜ合意の上でのセックスがそれでもよくないのか。そしてなぜ私たちはそれについて語らないのか。

The Game Is Rigged: Why sex that’s consensual can still be bad. And why we’re not talking about it.

原文はこちら。 http://nymag.com/thecut/2015/10/why-consensual-sex-can-still-be-bad.html

2015/10/20
Rebecca Traister

去年の冬、ハーヴァード大学で文学とジェンダー・スタディーズを専攻しているReina Gattusoは、2週間に1度、大学新聞のCrimsonにコラムを連載していました。コラムは、彼女自身のセクシュアリティ(彼女はクィアと自認している)から、ハーヴァードの陰険な階級ヒエラルキーまで様々なテーマをカバーしており、定期的に「4ドルワイン批評」も書いていました。2月、彼女はコラムで性差別的なセックスについて書きました。

Gattusoは決してセックスをすることに反対しているわけではありません。Gattusoいわく、「私は、yesとは言いません。「あー、はい。」とか、「はい、どうぞ。」と言います。」知らない男たちが開くひたすら酒に溺れるパーティーだって好きだと彼女は言います。男のうちの一人は、彼女はバイセクシュアルなのだから、「誰とでもセックスしたがるだろう」と思ったそうです。Gattusoが彼の仲間内の一人といい感じになるなら、彼の彼女ともセックスするだろうと。

「沢山飲んでいて記憶があいまいです。フラッシュが光って、ぼーっと天井を見ました。」Gattusoは振り返る。「キスをされていて、相手は男で、また他の男がきて、私はずっと、私はかわいい?と彼らに尋ねていました。ずっとyesと言い続けました。」しかし翌朝、「起こったことについて妙な気分になりました。」彼女は、こんな「どうしようもない経験」についての不満や混乱をどう表現すれば良いかわからなかったと。

最終的に、彼女は、彼女が葛藤しているのは件の夜の出来事だけではなく、キャンパス・フェミニズムがこのような経験について語ることができていないということなのだと気がついたといいます。私たちは合意を「個人的なプロセス」としてみなし、「このような状況でどんな権力が働いているのか」を問わず、「あなたはyesと言ったの?言わなかったの?」だけを気にします。Gattusoいわく、フェミニストたちは、「yesとnoをあたかもきれいに分けられるものであるかのように語ります。…でも、善いセックスは難しいものです。そして、私たちがセックスにまつわる権力の不均衡を可能な限り最小限にしないかぎり、ずっと難しいものであり続けます」

昨今、大学におけるレイプと性的暴行についての活発でラディカルな運動のおかげで、今日のフェミニストは「いつも」性にまつわる権力の不均衡に語っているかのように思われるかもしれません。しかし、今日のフェミニズムの欠陥は、ラディカルすぎることではなく、ラディカルさが足りないことにあります。性的暴行ではないセックスの批評があまりにも少なすぎるのです。若いフェミニストたちがセックスを(それが合意に基づくものであれば)フェミニスト的な解放の表現とみなす熱狂的で、奔放で、自信満々で、まったく悪びれない、スラット・ウォーク的なイデオロギーを取り入れてきました。結果、この世には暴力かセックス・ポジティヴか2つしかないという世界が生まれてしまいました。つまり、喜びもなく、セクシストな文化を反映して搾取的であったりするような多くのひどいセックスについてほとんど語られておらず、若いフェミニストたちは、なんで「ヤってる」のに「ヤられた」と感じるのだろうと疑問に思っています。

フェミニズムはずっとセックスと複雑な関係にあり、熱烈な擁護と批判の間を行ったり来たりしてきました。2000年代のバックラッシュの後、女性たちがフェミニズムに目覚め始めた頃には、1980年代の「セックス・ウォーズ」は遠く過去のことでした。当時、アンドレア・ドウォーキンやキャサリン・マッキノンといった第2波フェミニストには、セックスやポルノ、性差別を一続きのものとみなし、息苦しい抑圧の中でこれらの中に快楽を見いだすことは不可能と思っている人たちがいました。他方で、いわゆるセックス・ポジティヴ・フェミニストたちーEllen Willis, Joan Nestle, Susie Bright—は、彼女たちがピューリタン的傾向とみなすものへ反対していました。セックス・ポジティヴの闘士たちが「セックス・ウォーズ」に勝利したのは様々な理由があります。とりわけ、彼女たちの仕事が人々に楽観主義を与えたということが大きな要因でした。つまり、性的主体性と平等は女性にも手がとどくもので、女性たちはモノや犠牲者としてではなく性的な生活を送ることができ、そこから快楽や力を得られるという楽観主義です。彼女たちは、セックスは楽しくスリリングでありえるから、そして人々がそう信じたいから、勝ったのです。

ですから、フェミニズムが若い女性の間で再び盛り上がり、新たな運動をつくりはじめたとき、それが意識的にセックス・フレンドリーで、性的客体化のサインやシンボルへのアプローチに無頓着であったのも自然なことでした。誰も彼女たちのようなフェミニストをユーモアのないお堅いババアとか不感症のペニス嫌いだなんて思わないでしょう。しかし、その基礎となる哲学は少しずつ変わっていました。セックス・ポジティヴはもともと、女性、セックス、権力についての理論を指す言葉で、あらゆる種類の性的な振る舞いー変態から禁欲、SMプレイまでーを擁護し、女性はこれらを女性嫌悪的な文化に言われるがままではなく、自分たちなりに楽しむことができると語ってきました。しかしいまや、セックス・ポジティヴはこれらのあらゆるセックスを擁護するためのフェミニズムとしては物足りなくなっています。フェミニズムのセックスへのフォーカスはたった一つの事柄、つまり強制と暴力に狭められてしまっており、明確な合意のないセックスはセックスではなく、レイプだということのみになっています。

このような考え方では、yesと言った後のセックス、暴力や強制の伴わないセックスは、善いものということになります。セックスはフェミニスト的なのです。そして、そのようにエンパワーされた女性たちはセックスを楽しむべきということになっています。実際、イェール大学ロースクールの学生で、Know Your IXという反レイプ団体の創設者であるAlexandra Brodskyは、女性たちから「すごく楽しくて、すごくポジティヴなセックスができないことが、どういうわけか、政治的な失敗であるかのように感じる」という声を聞いたと私に話してくれました。

若い女性たちが、いつもセックスを楽しむことができないとしたら、それは彼女たちの内在的に女性的な心理学的もしくは身体的な状況のせいだけでありません。若い女性たちに可能な異性愛の(そして非異性愛の、ということもできるでしょうが、多くの場合は異性愛の、という現実に目を向けましょう)セックスの質が良いわけではないというのは、若さゆえの愚かさや心の弱さのせいだけでなく、ゲームの条件が公平ではないからです。

ゲームの条件が公平ではないという問題は、合意の問題の範疇を超えています。私が話した学生たちは「男性の性的権利」について話してくれました。つまり、男性の性的欲求はなにより優先されるべきで、男性がセックスを獲得し、女性はそれを与えることになっている、という考えです。彼女たちは、いかに男性がルールを決め、パーティーを開き、アルコールを用意し、場に影響を及ぼすかを語ってくれました。男性からの注目と承認がいまだに女性の価値の基準であり、女性たちは(おそらく、ますます)ポルノスターのようなルックスと振る舞いを期待されます。毛がなく、肌も滑らかで、ばれないように感じているふりをする。男が射精することが異性愛的なセックスのクライマックスとされており、女性のオーガズムはいまだ掴み難く、あれば良いなぐらいのおまけ。そして女性に対してネガティヴに働くダブル・スタンダードも健在。セックスを求める女はだらしがなく、性欲が強すぎ、セックスを求める男は健康で色っぽい。Noという女は堅物か調子に乗った思わせぶりで、男はNoということでその女を否定する。こういった性にまつわるダブル・スタンダードにより、若い女性はセックスをしすぎていないか、あまりにもしていなさすぎないか、でジャッジされていると感じています。結局、若い人々が酔っ払って(どちらにとってもあまり良い経験にはならない)セックスをしても、女性の方がひどい目にあうことになります。

エバーグリーン州立大学2年、22歳でジェンダークィアのOlive Brombergは、現代ではセックス・ポィティヴィティがジェンダー間の権力の不均衡を強化しているとみています。「「君ってセクシーさをアピールしてるよね、つまり、セックスしてもいいってことだよね」という思い込みがあるように思います」とBrombergはいう。「女性の性的解放が、男性には性的な権利が与えられているという感覚を増長させます。本当に最悪です。」

繰り返しますが、これらはフェミニストが女性にとって良いものになると考えていたはずの、合意に基づくセックスの一部です。しかし、私が20年前に大学で経験したようなこととなると、境界線が非常にあいまいになり、混乱が生まれるのです。今日の活動家なら「レイプ」と呼ぶであろうセックス。著書The Morning Afterでのアンチ・レイプ・アクティヴィストへの長たらしいイチャモンでよく知られるKatie Roipheに言わせれば、ただの「よくなかったセックス」。学部生の友達みんながしている普通のセックスのうちの一つだとかつての私が思っていたセックス。酔っ払っていて、短く、乱暴で、間違いなく合意の上なんだけど、ちっとも良くないセックス。いろいろな理由で合意したセックスで、私の体はそこにあったけれど心がまったくなかったセックス。

「こんなセックスは珍しいものではありません」Gattusoはいう。彼女は、Crimsonでのコラムがフェミニスト系メディアのFeministingの関心を引き、その後Feministingの寄稿者となった。「私たち自身が重要なのではないセックス。私たちがそこにいないセックス。Noとは言いたくないから言っていないセックス、その気になったからyesと言ったけれど、Noと言っていたらと恐ろしくなるセックス。首もとを触れられることや触られ方が嫌だろうが関係ない。私たちは重要ではないから。」

これは一晩限りの関係をよしとする文化への道徳的または感情的な拒絶反応ではありません。性的に奔放であること、性的な接触がときにカジュアルなものであることへの反対でもありません。まず第一に、若い人々は彼らの両親よりもセックスをしていないということが研究でわかっています。第2に、交際や結婚といった古い形の関係も、女性にとってはそれ自体リスクがあるものです。パーティーで嫌な思いをさせられた男と自尊心が傷つけられるようなセックスをするのは、彼とセックスしたことを理由にその後白い目で見られたり、そのセックスの結果妊娠して中絶ができなかったり、一度セックスしたその彼と、その後50年添い遂げてひどいセックスをつづけないといけない、というような状況よりは、まだましなことかもしれません。でもそれはひどいことであることにはちがいないのです。

Feministingの編集長であるMaya Dusenberyは、ますます多くの若い大学生の女性たちから、「性について、暴力ではないけれども取り組まないといけないひどいこと、つまりどうやって男を追い払うかなど」についてますます多くの声をきくと言います。「彼女たちは、セックスがどんなものであり得て、何ではないのかについて、これまでとは違う積極的なヴィジョンを提示してくれるフェミニストを必要としています。これはレイプだけの問題ではないのです。性の文化がクソみたいなのはレイプだけが理由なのではないからです」

大学を卒業したからといってこういう文化がなくなるわけでもなさそうです。29歳のDusenberyも「フェミニストとしての大きな恥」について語ります。セックスを過去10年ほどしてきて、でもオーガズムに達することは稀だと。「皮相的だし、性的な快楽が重要だと私が信じていたとしたらもっとひどい気分になっていたでしょう。何してるの、Maya!ちゃんと伝えないと!」彼女のパートナーにどうすれば彼女も良くなるのかを伝えることをサボっているというのは良い気分ではありません。「でも、私はこれを負担しないといけないのが自分でなければいいのにと思います。私のことを大事にしてくれる素晴らしい男性のパートナーが、一度でも、「いや、これは受け入れられない。君がイけないならこんなことを続けるのはやめよう」と言ってくれたら。でもそんなことが起こるわけはありません」

いまはフルブライト奨学金でインドにいるGattusoはメールで私にこう言いました。「ときどき、性的暴行は絶対に何がなんでもダメだ、ということを伝えたいという真摯で、深く、重要なフェミニストとしての欲望が私たちにはあるということ考えます。そう主張することで、私たちはより微妙で執拗な方法で、私たちが傷つくことがあることを忘れることができるのです。セックスが快楽のためのものでもあるということも、一日の終わりには忘れてしまいます。」

快楽!女性も快楽がほしい。少なくとも、快楽への平等なチャンスがほしい。堅苦しい取引がしたいわけではありません。セックスが複雑だったり倒錯的だったらだめだとか、セックスによる快楽は、ある人々にとっては、古臭い権力の不均衡を反復することに依拠している、ということが言いたいのでもありません。でもセックスにまつわる複雑な問題は男女が共に背負い、同程度の自己決定と満足を得られるようにできるだろうし、そうするべきでしょう。

結局、セックスも、政治的なものです。現代のフェミニズムは、女性も罰やスティグマなく、男性と同じ数の人とセックスすればいいし、男性と同じく自由に自分からセックスをしようと言えばいいし、それは良いことなのだと考えるように言っている、とSalamishah Tilletは言います。ペンシルヴェニア大学の英文学とアフリカン・スタディーズの教授で、A Long Walk Homeという女性に対する性的暴力を終わらせるための団体の共同創設者であるTilletは、しかし、「そうすることだけが、女性と男性が平等になることを可能にする」と考えると問題が起こるといいます。「男と同じようにセックスをすることだけが、性的な支配と搾取の構造への答えではありません。女性たちはこの大きな支配と搾取の構造の中で男性と性的に接触するのであり、そこでは、男性はセックスする相手の女性を自分と対等な人間とみなせとは言われていないのです。」という。

ブラック・フェミニストの伝統においては、セックス・ポジティヴであることを政治的目的のための手段にしたことは決してなかった。黒人女性は性欲が過剰という偏見のせいで、彼女たちが性的暴行の被害者になっても周りはそれを信じず、彼女たちがセックス・ポジティヴの文化に馴染むことは困難でした。つい昨年、ベル・フックスはインタビューの中で黒人女性にとっての「解放的なセクシュアリティ」とは禁欲かもしれないと発言し、視聴者を驚かせました。

今日のフェミニズムがセックス・ポジティヴのフレームワークや、アンチ・レイプ運動をやめるべきだといっているわけではありません。ただ、新たな批評の視角が必要なのです。一般的なセックス・ポジティヴの要点が単に「女の子もやればいいじゃん」に矮小化されていると指摘し、Brodskyは「セックス・ポジティヴは、良いセックスへのリーン・イン[女性と仕事についてのシェリル・サンドバーグの著書「リーン・イン」より。リーン・イン=女性が自信をもって一歩前に出ること、ぐらいの意味]なんだと思います。素晴らしいセックスの実現を阻む構造的な要因があるのに、寝室でも、職場でそうするように、私たちは「もうちょっと頑張れば、もうちょっと自分に素質があれば、乗り越えられるのに」という呪いの言葉を自分たちに言い聞かせてしまっています。サンドバーグの著書「リーン・イン」がそうであったように、女性たちのセックスを後押しするセックス・ポジティヴィズムもとても重要なものです。しかし、職場での問題と同様に、それだけでは足りず、もう一つ別のものを足す必要があるんです」とBrondskyは続ける。「集団的な解決策と個別の解決策、両方が必要なのです。」

Dusenberyはフェミニストたちが闘いの語彙を使うのをやめる世界を想像しているという。たとえばレイプ・カルチャーを「撲滅」する、というような。そして、その代わりに、性的平等とは一体なんなのかについての具体的なヴィジョンを推進することができればと。「非常に多くのことがそこには含まれるはずです。オーガズムについての男女の差から、ほとんど犯罪レベルの若者への性教育の不足、中絶の権利、性の二重基準まで。射程を広げることで、近年レイプ・カルチャーについてなされてきた議論をより深めることができるし、性の文化におけるあらゆる不平等をつなげて考えることができるようになります。」

一つ確かなことは、フェミニストは女性の性生活についてのゴールを高く、ずっと高く上げる必要があるということだ。「もちろん、意識のない誰かとセックスしてもかまわないと思っている高校を卒業したての新入生に合意について教えることは必要です。」Dusenberyはいう。「しかし、合意はゴールではないという事実を忘れないようにしたいのです。私たちがセックスについて言える一番大事なことが、それが合意の上でなければならないという、たったそれだけだとしたら、あんまりですから」

* この記事は2015/10/19のNew York Magazineに掲載されました。

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