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yuki · @yk264

22nd Dec 2015 from TwitLonger

真の連帯と「アライ劇場」を見分ける方法


How to Tell the Difference Between Real Solidarity and ‘Ally Theater’
真の連帯と「アライ劇場」を見分ける方法

原文はこちら。http://www.blackgirldangerous.org/2015/11/the-difference-between-real-solidarity-and-ally-theatre/

2015/11/4
Mia McKenzie

あなたがもし社会的に周縁化されたグループの一人として活動に関わっているか、ソーシャルメディアをよく見るか、その両方である場合、あなたはきっと多くのいわゆる「アライ」と呼ばれる人と付き合いがあると思います。「アライ」という考えは、ないほうがマシというくらい、とても入り組んだ概念です。

繊細な白人から能天気なシスジェンダーの人々、「私はあなたの味方だよ、だから優しくしないとだめだよ」タイプから「私に教えて!」タイプまで、「アライ」は周縁化された人々にとって実際に役にたつ何かというよりは無駄なパフォーマンスになりつつあります。だからこそ私は、この言葉を使うことをかなり前にやめたし、どうしても必要なら仕方ないので「」を使います。

数ヶ月前、Black Girl DangerousのコラムニストでエディターのPrincess Harmony Rodriguezは「アライ劇場」という言葉を作って、いわゆる「アライ」がソーシャルメディアで演じるその方法を批判しました。Harmonyが強調したのは、しかし、いわゆる「アライ」の人々が毎日演出しているもののほんの一部でしかありません。

ほんの数日前、私はツイッターで#Zola storyについての批判をつぶやき、いかに私の白人女性への不信感が私の無垢と悪の理解に影響を与えているかを書きました。何年も白人女性からの暴力を経験してきて、私は白人女性を無垢な犠牲者、黒人女性を悪役として描くあらゆるものに懐疑的です。私の経験では、白人女性は私たちにどんなことをしても犠牲者として見られ、私たちがいつも悪者にされます。私は白人女性を信じません。そして私はそれをそのままつぶやきました。

そうすると、ほらきた。「アライ」が話に加わってきました。

「@miamckenzie そう言ってくれてありがとう。私は白人女性です。私たちは有色人種の女性たちを失望させてきたと思います。やらなくてはいけないことがたくさんありますね。 」

はい。まず最初に。私の発言は「彼女に」言ったわけではありません。速報!:黒人が自分の生活について語る全てのことがあなたの消費やフィードバックのためのものではないのです。非黒人の人々。

第2に、これこそまさに私たちが「アライ劇場」と呼んでいるものです。この女性のリプライはどんなメッセージを発していますか?これの何が役にたつの?

ネタバレ注意:役に立たない。こんなのは「私は他の白人とは違います」を薄くベールに隠した「あなたの痛みについて読むのは面白かったです、ありがとう!」でしかありません。

この女性はどうにか、どうしても、この会話に割り込んできて、「アライであること」を公に「演じる」ことで、彼女がいかに善良で、他の人とは違っているというのをみんなが見えるようにしたにすぎません。驚くべきことに、私のツイートを呼んで、彼女は黙るということができなかったわけです。私があの瞬間、一番誰の声を聞きたくなかったかって、知りもしない白人女性の言葉だっていうのは明らかだったはずです。私はただ、白人女性がこれまで私に加えてきた痛みやひどい仕打ちについてツイートしただけなのに、この女性のリプライときたら「それを言ってくれてありがとう。」

あんた、いい加減にしてよ。

そして間違いなく彼女は一人ではありません。たっくさんの人がこういうことをします。たっくさんの人々が「アライであること」を実際には非常に有害な方法で演じています。みんな、これが「アライ劇場」ですよ。そして本当の連帯と 「アライ劇場」の間には大きな違いがあります。たくさんの大きな違いがあるのです。私が常々経験しているもののいくつかは以下のようなものです。

1. 真の連帯はあなたがいかに良い「アライ」であるかを証言する目撃者を必要としない

多くのいわゆる「アライ」はご褒美とショーを求めています。彼ら自身はショーではないと思っていても、ショーなんです。ご褒美目当ての「アライ」は端役だろうと主役だろうと自分の全てのパフォーマンスに観客を欲します。こういう人たちにとって、抑圧と闘うことは、みんなが「抑圧と闘っている自分」を見ていなければ価値がないのです。

ソーシャルメディアでは、しばしば「アライであること」は、他人の人種主義的、女性嫌悪的、トランスフォビックなツイートに、自分が起こった反論をつけてシェアしたりリツイートしたりすることのようです。まるで「みんな見て!この人は本当に抑圧的!みてよこれ!ほら!こっち!私のやってること見えてる?見てーーーーーーー!」

こういうご褒美目当ての人々には、そもそもフォロワーが12人しかいない卵アイコンのアカウントの人種主義的/女性嫌悪的/トランスフォビックなコメントなんて、もしあなたがRTしなければ、十中八九誰も見ていないということがわからないようです。でも、ちょっと待って。あなたがいかに素晴らしい「アライ」であるかを目撃させるために、必要もなくすでに抑圧された人々をより暴力に晒すことに意味なんてあるの?ねぇ?

以下のようなシナリオを考えてみてください。

誰かが有色人種のクィアな人に向けて攻撃的なことをツイートします。連帯というのは、

a. 攻撃的なコメントに「ありえない!本当にひどい」とコメント付きのRTをする

b. 悪質なコメントに、有色人種のクィアな人を巻き込みリプライする。彼らから、あなたが「アライ」であり、彼らを見ていることがちゃんと伝わるように。

c. コメントをしたアカウントにのみ返信し、RTも攻撃の対象になっている人の巻き込みリプライもしない。

c以外は「アライ劇場」です。

真の連帯は観客や賞賛を必要としません。もしその差別アカウントを黙らせた時、誰もそこで聞いていなかったとしても、それでも意味はあります。約束します。

また、攻撃的なツイートを向けられた人は、差別的なアカウントと関わり合いになりたくない可能性があります。無理に会話に引き込むのは暴力であり、連帯ではありません。

2. アライ劇場にはちゃんと隠れもできていない「XXがみんなそうというわけではない」や「私はほかのXXとは違って」という喚きにあふれている。

「全ての白人がそうじゃない」「全ての男がそうじゃない」などなどの喚きはありふれていて、社会的に意識の高いソーシャルメディアユーザーの間ではジョークになるほどです。特権を持った人は、ときに特権についての会話に「全てのXXがそうではない」と割り込んできて、私たちは笑うか、目を向くか、バカにするか、3つ全部やるかといった感じです。「全てのXXがそうじゃない」はしばしば話を脱線させ、構造的な抑圧のリアリティを消そうとする試みです。そうでなければ、「私は他のXXとは違う」の言い換えです。

話を脱線させるために使われる場合、それはたんにクソリプです。しかし、「私は違う!」というために使われるなら、それはアライ劇場の一歩手前です。

「一歩手前」というのは、ここが少しややこしくなるところだからです。なぜなら「全てのXXはそうではない」というのは非常に嫌われる、呆れたフレーズになり、慣れた「アライ」パフォーマーはこれをよくわかっているからです。これをいうと、彼らの真の「アライ」としての地位が脅かされ、ご褒美ももらえず、差別する側と認識されることになってしまうということを彼らはわかっています。

彼らは「私は違う!」とは言いませんが、「私は違う!」を違うやり方で表現します。結局、他の白人・ストレート・シスなどなどと同じではないと明らかにせずに、彼らこそが真の「アライ」でご褒美をもらうにふさわしい存在であるということはできないのですから。「私は他のXXとは違う」を「全てのXXがそうではない」ではない別の言い方を探さなくてはならないのです。
さてお待ちかね、「アライ劇場」の時間です。

こういうシナリオを考えてください。

黒人の女性が「うわーこの白人の女、私に聞きもせずに勝手に私の髪に触った!どうして白人ってこうも気持ち悪くて厚かましいの??」とツイートしました。

連帯とは…

a. 「わー、白人の誰かがやらかしたの?私は白人だけど、そんなこと絶対しないよ!」と返信する。

b. 「白人の多くは有色人種の人々を尊重するのではなく、なんでもしていいと教えられて育てられてきた」と返信する。

c. 「そんなことがあって残念でしたね」と返信する。

d. 何も返信しない。

d以外(もしくは、知人である場合ならcもアリかも)はアライ劇場です。

真の連帯は、直接的であれ間接的であれ、周縁化された人々に、あなたは他の人とは違うと言ったり、(他とは違う人として)他人がいかにひどいかについてコメントすることではありません。

なぜなら、1)他のXXと同じにならないための唯一の方法は、そうならないようにすることだけであって、2)どんな主義主張をもっているか、「アライ」としてどんな素晴らしいことをしていると考えているかにかかわらず、彼らはそれでも特権的な集団であることから利益を得ているからです。システムは彼らを利するようになっており、それがわかっているから、そこから出ていかないのです。つまり、彼らも結局他の人となんら変わりはないのです。これが特権と優位が機能する方法なのです。

3. 真の連帯は名札のようにつけるものではない

彼らが「アライ」とツイッターのプロフィールに書くとき、彼らは何をしているのでしょう???「教師、庭師、白人のアライ #BlackLivesMatter.」

(笑)いやいや。あっちいって。

前にもどこかで言ったけれど「アライ」というのは自分で自分につけるラベルじゃありません。

今年の初め、私は大学で講演をしていて、有色人種の学生が白人の学生に対して苛立っていることを共有してくれました。その白人の学生に、彼女がいかに抑圧的なことをしたり言ったりしたかを指摘すると、いかにその有色人種の学生が彼女のアライとしてのアイデンティティを否定しているかと彼女は泣くというのです。

それを聞いたときの私の表情といったら。

「アライ」って最近はアイデンティティなの?はー。(崖から飛び降りる)

聞いてください。連帯は行動です。それだけです。連帯して何をするかが問題なのです。周縁化された人々が特権を持つ人々に望むものを聞き、それをするということです。

「アライ」をアイデンティティとして主張して、抑圧されている人々からの批判を避ける盾にするのは、連帯の真逆です。

プロフィールに「アライ」と書いている人は、本当にわかりやすく、彼らが実際にはご褒美目当てで#sorrynotsorry[実際はちっとも悪いとは思っていない]でしかないかというのを伝えてくれています。でも私はご褒美をあげたりしませんから。

さて。玉石混合のものの中から本物を見分けるための、真の連帯とアライ劇場の3つの重要な違いを見てきました。なぜって、がらくたは仕分けないといけないからです。

そしてもしあなたが白人and/orストレートand/orシスジェンダーand/or障害がなくて、という人で、抑圧された人々と連帯したいというのであれば、「アライであること」を演じる前に自分に聞いてみてください。「今言おうとしていること、やろうとしていることは、本当にわたしが語ったり何かをしようとしている人々の利益になるのだろうか。そうだとしたら、どのように?」と。

良い正解が見つからないなら、それはたんに「アライ劇場」です。舞台から下がってください。

Mia McKenzie is an award-winning writer, a speaker, and the creator of Black Girl Dangerous. Bring her to your college or community event.

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