yk264

yuki · @yk264

19th Dec 2015 from TwitLonger

男が私に「ロリータ」について説明してくる件について


原文はこちら。http://lithub.com/men-explain-lolita-to-me/

レベッカ・ソルニット
芸術は世界を作り、私たちを壊したりもする
2015/12/17


意見を持っている女は常に訂正されることを求めている、ということになっている。いや、実際にはそんなことはないのだけれど。ジェーン・オースティンについて話すのを嫌いな人なんている?正解:たくさんいる。「プライドと偏見」を何十回も読んだことがある人ばかりではないから。今日は、私がやってみた面白い実験について話そうと思ってる。私が意見を言うと、何人かの男性が、私の意見は間違っていて彼らの意見は正しい、なぜなら彼らの意見は事実であって、私の意見は思い込みだから、という前提で意見を返してくる。ときには、彼らは彼らこそ事実を守り、私を正す責任があるかのように振る舞う。

自分の意見と事実を混同している人は、自分と神を混同している、というのはあまり理解されていない。そういう誤解をするのは、他人は自分とは違う経験や、平等で不可譲の権利を持っており、あなたと同じように、その人も頭の中で面白く厄介な思考をしているという事実がわからない人たちだ。特に、ストレートの白人男性に多い。ヴァージニア・ウルフが言ったように、西洋世界では、そういう男性たちは長いこと鏡を見てきたから。その鏡の中には、男の姿が2倍大きく見えるようにするために、従順な女が写るようになっている。

ストレート白人男性以外の人々は、イシュマエルやダーティー・ハリー、ホールデン・コールフィールドのような物語の主人公に自分を投影するときに、想像の中で別の性別になったり、人種になったりすることに慣れている。ストレートの白人男性はそうでもない。優遇され、代表として扱われる存在であることは、何かを意識しないで済んだり、実際意識していない存在であるということをいうために、privelobliviousness[privilege(特権)+ obliviousness(忘れっぽいこと)]という言葉をつくったことがある。ある意味では彼らも何かを失っている。

フェミニズムの多くは、女性がこれまであまり理解されていなかった経験について声をあげることであり、アンチフェミニズムは男性がそういう女性たちに、そんなことは起こっていないということだった。あなたをレイプした奴は「レイプなんかじゃなかった」というかもしれず、あなたが食い下がれば、殺すぞと脅してくる。死人に口なし。白人以外の人々も、人種主義なんてないし、人種による差別的扱いなんてないし、人種なんて誰も気にしないと言われ、黙らされ続けてきた。実際、有色人種の人々を黙らせることにかけて白人以上に上手な人々なんていない。そしてクィアな人たちもそう。私達はそういうことをすでによく知っているし、そうでなくてもよく注意すればすぐにわかることだ。

共感すること、聴くこと、見ること、自分以外の人の経験を想像すること、自分の経験の外に出ることの根本にあるのが、注意を払うということだ。読書は人々の共感能力を高めるという話はよく聞くけれど、もしそれが本当なら、それは読書が自分とは異なる人々を想像することを助けてくれるからだ。もしくは、傷つくこと、苦しむこと、途方にくれたりすることの意味をより深く考えさせ、もっと敏感にさせてくれるから。男性の想像力を満足させるために作られた本も漫画も映画もはいて捨てるほど溢れかえっていて、その世界の中では、他人は単に自分の素晴らしさを認めるためだけの存在となる。そんな世界に生きて、常に正しいとされ、常に誰かに肯定され、素晴らしい存在であるとされる自分自身、ではないものになること。あまりにも偉大な自分という、色あせて古びた要塞の外に連れ出してくれない文学や芸術もある。

先月、エスクワイア誌が選ぶ「すべての男が読むべき80冊」(そのうち、79冊が男性作者によるものだった)について記事を書いた時、このことを考えた。このリストは読者の経験を広げるような読書を勧めているとは思えなかった。私は、すべての人が女性によって書かれた本を読むべきと言っているわけではなく(リストの中でバランスをとることは大事なのだけれど)、読書の重要なことは、自分のジェンダー(や人種、階級、国籍、生きている時代、年齢、障害の有無)を超えて、まったく違う存在に自分を重ねることができるということなのではないかと言いたい。こういうことを言うと動揺する男性がいる。この興味深い性別の人々の多くはよく動揺するのだけれど、自分が動揺しているとは思ってない(privelobliviousness参照)。彼らは単に、そういうことを言うあなたが間違っていて悪いと思っている。

今年は、大学の学生たちに対してこういうことがたくさん言われてきた。女性の学生、黒人の学生、トランスの学生たちに。彼らが超神経質でわがままであるせいで、他の人が萎縮していると。アトランティック誌(リベラルとコンサバの間で振り子のように方針を変える不思議な雑誌)も最近、「アメリカン・マインドの甘やかし」という記事を載せた。記事によると、「Jerry SeinfeldとBill Maher[2人ともアメリカのタレント]は、学生たちがあまりにも神経質すぎて、ジョークも言えないと声高に非難した」らしい。まるでこの白人男性二人が絶対的に正しい権威であるかのようだ。

でも真面目な話、ジョークがわからないのってどちらなの?白人男性のほうでしょう。なんでも自分の思い通りになると思っていて、あなたは素晴らしいと常に言われながら生きてきたせいで、自分や自分の世界観にあわないことがあると、すぐ怒り狂って、イライラして、取り乱して、号泣して。一応、念のために言っておくけれど、すべての男性がそうだと言っているわけではない。白人男性の多く(その中には私の友人や家族も含まれる)はユーモアや、自分のいる位置を超えて理想と現実のギャップを理解できる人々だと思う。人に深く共感し、私たちのように考え、書く人たち。人権の熱心な擁護者であったりもする。

でも、自分を甘やかすことを求める男はどこにでも現れる。黒人の学生たちは問題を指摘して、とても民主的な方法で変化を要求しているのに、あたかも彼らが核兵器でも要求しているかのように、甘えるなと非難されている。一方、白人男性のゲーマーたちは、女性の文化批評家がゲームの中の女性嫌悪の問題を指摘するのがいやで、彼女にレイプや殺人、爆破の脅しを浴びせかけ続け、個人情報を勝手に晒し、ついには1989年に14人の女性を殺したモントリオールの女性差別主義者Marc LePineをモデルに引用した大量虐殺の脅しまでした。もちろんゲーマーゲートのAnita Sarkeesianの件の話。ああいう奴らこそ甘やかされていると言えるだろうし、そう言うべきだと思う。彼らがやること、好きな物、作った物はすべて素晴らしいと考える人々(もしくはそうでなければ黙っている人々)しかいない世界に住んでいるつもりなのだろうか?本気で?多分そうなのだろう。長い間、そういうものだと思ってきたのだから。

少し前に本についてフェミニストとしての意見を表明したら炎上したことがあった。「ロリータ」について。「私の大好きな小説があまりにも浅はかな方法で中傷された。もし「ロリータ」を読んで一人の登場人物に自分を重ねて読めば、ナボコフを誤解することになる」というコメントがあって、「家父長制のなかでロリータを読む」という本でも存在しているのかと思った。小説は共感を人に教えるから素晴らしいのだというよくある議論は、読者はキャラクターに自分を重ねるもので、それはギルガメシュでもエリザベス・ベネットでも構わないという前提がある。ロリータに自分を重ねて読めば、この作品は白人男性が長い期間の間何度も子供をレイプした話というのは明らかだ。「ロリータ」を読みながら、これは子どもをレイプする、そういう話だということからなんとかして目を背けるべきなのか?読書するとき、物語に自分の経験を引きつけるのはおかしいのか?このコメントをした人はそう思ったのだろう、もしくは、これは私のせいで不愉快だと伝えるための彼なりの方法なのだ。

私が実際に発言した内容は、On the Roadのなかでひどい扱いをされているキャラクターに自分を重ねたように、私はロリータに自分を重ねる、ということだ。ロリータと同じような年齢だったころから、たくさんのナボコフの作品を読んできた。誘拐された子供がなんどもレイプされるという筋の小説を読むと、この世界が、というよりはそこに生きている男性が、どれだけ女にとって敵対的な存在になり得るのかというのを思い出す。愉快なことではない。

「ダーヴァヴィル家のテス」から「レス・ザン・ゼロ」まで、女の子をレイプする男は文学の主題としてありふれているし、1991年に11歳のときに誘拐され、その後18年間性奴隷にさせられたJaycee Dugardの伝記もある。こういうものがどこにでもあることは、女性たちに、私たちがいかに静かに、戦略的に、レイプされないように気をつけながら過ごしてきたかということを思い出させるもので、こういう経験は私たちの自己の感覚に大きく影響し、消えない跡を残すものだ。ときに、芸術は私たちに生について考えさせる。

ハーディーの小説[「ダーヴァヴィル家のテス」のこと]は実際、若い女性が主体性をもたないとき何が起こるかについての悲劇だ。金持ちの男にセックスを強要されて拒否できないことから始まり、それが彼女の人生を破壊していく。偉大なフェミニスト小説として読み直すこともできるかもしれない。昔から、男性に対してと同様に女性のキャラクターに対しても人道的で共感的な男性の作家たちはたくさんいる。ワーズワース、ハーディー、トルストイ、トロロープ、ディケンズなどが浮かぶ。(全員、欠点がないというわけではないけれど、それについてはまた別の機会に。)

芸術を守るつもりでなされる芸術へのありふれた攻撃がある。芸術は私たちの生活に何の影響もなく、芸術は危険ではなく、だから全ての芸術には何の罪もないというものだ。これに反論する根拠はないし、これらへの反論は即ち検閲である、という。こういった議論に誰よりも華麗に反論したのは、いまは亡き批評家のArthur C. Dantoで、彼の1988年のエッセイが私の考えの元になっている。右派の議員が芸術を検閲し、全米芸術基金を潰そうとしていた時代のエッセイだ。たとえばメイプルソープの、SMプレイをする男性をモデルにした美しいフォルマリスト的な写真作品を含む芸術作品に対し、これらは危険で、人の心、生活そして文化を変えてしまう危険があるという攻撃がなされた。メイプルソープらの芸術を擁護する側は、不幸にも、芸術は危険ではない、なぜなら、現実に影響を及ぼさないからだと言わなくてはならなかった。

写真もエッセイも小説もその他の芸術も、あなたの人生を変える可能性がある、危険なものだ。芸術は世界を作る。ある本を読んで自分の残りの人生で何をするか決めた人、本によって救われた人を私はたくさん知っている。本は生命維持装置ではない。もっと複雑で、緊急性のない理由で人は本を読む。たとえば快楽。そして快楽というのは重要なのだ。Dantoは芸術と人生の間にアパルトヘイトの壁のようなものがあると考える人の世界観をこう描いている。「芸術の概念は生と文学の間に分厚い膜を差し込む。その膜のおかげで、芸術家は、その芸術家がしていることが「芸術である」と認識される限りは、人々に道徳的に害をなす力はない、ということになる。」Dantoの指摘はつまり、本が人に良い影響を与えるように、芸術は人々に道徳的に害をなす可能性があって、しばしばそうしているということ。Dantoは、官僚たちが、芸術は世界を変える可能性があると明確に認識して、その可能性をたたき潰そうとしている全体主義的な体制のことを話しているのだ。

* * * *

ナボコフと彼の描く登場人物との関係はいろんな方法で読むことができる。ナボコフの妻であるヴェラ・ナブコフは書いている。「誰かが子供についての優しい記述に気がついてくれれば。彼女の化け物のようなHHへの病的な依存と、彼女の勇気に…」そしてナボコフの小説を抑圧的なイランで読んだ女性、Azar Nafisiは「テヘランでロリータを読む」でこう書いている。「ロリータは身を守ることができず、自分の話を自分で語るチャンスを奪われた犠牲者の一人だ。そうして、彼女は二重に犠牲者となる。彼女の人生だけでなく、彼女の人生の物語が奪われるのだ。この2番目の犠牲者にならないようにするために、私たちはこのクラスにいるのだと言い聞かせている。」

私のエッセイに不機嫌なコメントがきたとき、私は、誰もが読むべき古典的作品とされるものの中には、女性の物語が奪われ、男の物語しか存在しない作品が含まれているということを言おうとした。そういう本はときに、女性の視点から世界を描いていないだけでなく、女性を中傷し、貶すことがかっこいいことであると教え込むのだ。

Scott Adamsによる漫画Dilbertでは、先月、私たちは母権制の世界に生きている、なぜなら「セックスへのアクセスは女によって厳しくコントロールされているから」と言っていた。相手があなたとセックスしたいのでなければセックスできないというのは、まったく当然であるように聞こえる。相手があなたにサンドイッチを分けるつもりがないときに、勝手に人のサンドイッチをうばったりしないように。それは抑圧とは関係がない。幼稚園で習うことだ。

でも、女体持ちとセックスするのが異性愛男の権利だと考えるなら、女は、あなたとあなたの権利行使の間に不当にもいつも割り込んでくる頭のおかしい門番と映るだろう。つまり、そういう風に考えるとき、あなたは女を人間として見なすことができていなくて、おそらく、そういう思い込みは、あなたの周りの人やシステムから教え込まれるのと同じく、あなたがこれまで見てきた本や映画によって作られてきた。芸術には力がある。レイプが意志の勝利として祝福される作品なんてたくさんある(ケイト・ミレットの1970年の本「性の政治学」は、エスクワイア誌のリストに載っていた何人かの男性作家もカバーしている)。芸術は常にイデオロギー的で、私たちの生きている世界を作り出す。

ジャーナリストのT. Christian MillerとKen Armstrongは最近、いかに警察が連続レイプ犯を捕まえたか(そしていかにそのうちの犠牲者の一人が何年も疑いをかけられつづけ、ついには嘘をついたと言わされ、それに対して罰を受けることになったかについて)についての長い記事を出していた。レイプ犯は「子どものときジャバ・ザ・ハットがレイラ姫を鎖で繋いでいるのを見た頃から、恐ろしいファンタジーに取り憑かれていた」と語ったという。文化は私たちを形作る。MillerとArmstrongのエッセイ“An Unbelievable Story of Rape”は大衆文化と、女性の物語が軽視され、尊重されないことのもつインパクトを証言している。

さて、「ロリータを読んで、その登場人物に自分を重ねるなんて、まったくもってナボコフを誤解した読み方だ」と頼んでもいないのに彼はご丁寧に私に教えを授けてくれたわけだが。本当に笑えると思ったのでFacebookにそう投稿したら、別のリベラルな男が、あの小説はアレゴリーだから、と説明してきた。まるで私がそんなこと思いついたこともないかのように。実際アレゴリーだろう、そして同時に、あれは年上の男が華奢な子どもを何度も犯す小説でもある。彼女は泣き、そしてもう一人の素敵なリベラルの男がやってきて言うのだ、「君は芸術の根本的な真実を理解していないようだ。僕は、女性がひたすら男を去勢しまくる小説があったって気にしないだろう。それが美しい筆致で描かれていればぜひ読みたいね。何度でも」もちろんそんな文学作品などなく、もしこう言った素敵なリベラル男性が去勢のシーンにあふれ、それが祝福されたりするような作品がクラスの課題になったりしたら、おそらく彼も黙ってはいないだろうけれど。

付け加えておくが、私はこういう男たちのせいで傷ついたとは思っていないし、自分がかわいそうだとも思っていない。ただ彼らのめちゃくちゃな話に驚いてぎょっとしているだけ。私はラボを運営していて、彼らは素晴らしい標本を常に差し出し続けてくれている、という感じ。想定外のことも起こる。今年のブッカー賞受賞者のマーロン・ジェームズはこう言った。「リベラルな男たち、私はあなたたちが進化してネオリベラル、ついにはネオコンに傾いていくのを止めようとしているわけではないのだけれど、一つだけ言わせてもらおう。レベッカ・ソルニットの新しい記事を受け入れられないという人がいるらしいけど、検閲と、誰かが金儲けをするのを邪魔すること、これは別々のことだよ」

Jamesが私の記事を話題に挙げてくれて光栄だけれど、私は検閲どころか、誰かが金儲けをするのを邪魔することさえしていない。私はただ本やすでに亡くなった作家のキャラクターについて面白いことを言っただけ。彼らはとても動揺して、私の意見や声の存在が他人の権利を侵害したと信じきっている。男たち、検閲は権威が芸術を抑圧することで、誰かがある作品を嫌うこととは全く違うと覚えておいて。

私はロリータを読むべきではないと言ったことはない。私は何度も読んだ。もてはやされる本の中にはあまりにも私のジェンダーに対する扱いがひどいものがあるから、「女は読まないほうが良い本のリスト」を作ろうかと冗談を言ったことはある。けれど、その時だって「もちろん、誰もが自分の読みたいと思う本を読むべきだと思う。ただ、本の中には女が汚らわしく、アクセサリーとしてか、本質的な悪か空虚として以外には存在しようがないということを教えこもうとするものがある」と言った。作品や著者について自分の意見を発表するのは楽しいことだ。だけど、私はこの点については真剣だ。本の中で、あなたのような人が使い捨てにされ、汚いとされ、静か、欠如、価値がないとされる本を読み続ければ、それはあなたに影響を与える。芸術は世界を作り、その力を持ち、私たちを作るものだから。そして壊すこともある。

Reply · Report Post