★紀元節に反対し、南京虐殺を認めていた三笠宮殿下ー(天木直人氏)

うかつにも私は知らなかった。

 しかし、知らなかったのは私だけではないはずだ。

 多くの日本国民は知らないに違いない。

 いや、有識者さえも知っている者は少ないだろう。

 きょう11月26日発売の週刊新潮12月3日号に、

三笠宮祟仁親王殿下(昭和天皇の末弟)の百寿を祝う特集記事がある。

 その中で私が知り、驚いたのは、かつて三笠宮殿下が「書いたり話したり」してきた言葉の数々だ。

 戦後、軍人から学者へと転じた三笠宮殿下は、

GHQの意向で廃止された祝日・紀元節を復活させようという機運が高まっていた中、

毎日新聞(1957年11月13日付)は、次のような三笠宮殿下の発言を報じたという。

 「紀元節問題は歴史科学に影響するところが大きいと思う・・・このさい・・・

全国の学者に呼びかけ、2月11日・紀元節反対運動を展開してはどうか」

 その後も、三笠宮殿下は、文芸春秋1959年1月号に寄稿された

「紀元節についての私の信念」と題する論文の中で、次のように述べられたという。

 「・・・昭和15年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、

翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。

すなわち、架空な歴史を信じた人たちはまた、

勝算なき戦争を始めた人たちでもあったのである。

もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。

だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、

生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている・・・」

 三笠宮殿下はまた、南京から帰任する直前の1944年1月、

若杉参謀の名で将校らを前に軍紀の乱れや現地軍の独走を激しく指弾する講話を行い、

その内容は、「支那事変に対する日本人としての内省」という文書にまとめられ、

1994年に半世紀ぶりに公表されたという。

 当時の月刊誌(THIS IS読売1994年8月号)の取材では、

いわゆる「南京虐殺」についてこう言及されているという。

 「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、

なんだか人数の事が問題になっているような気がします。

辞典には、虐殺とはむごたらしく殺す事と書いてあります。人数は関係ありません・・・」

 紀元節復活への反対発言と言い、南京虐殺の肯定発言と言い、

「当時の情勢では宮様でなければ命を落としかねないような内容」(皇室ジャーナリスト久能靖氏)を

三笠宮殿下がされていたとは、私は知らなかった。

 そのことは、三笠宮殿下が、「赤い宮様」と揶揄されながらも信念を貫かれたこととともに、

私には勇気づけられる発見だ。

 歴史を直視できない安倍首相や稲田朋美らのような無学な若造は、

百寿の三笠宮の爪の垢でも煎じて飲むべきである。

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