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雁木真理 · @gimarigan

19th Jan 2015 from TwitLonger

コーレイ・オークレイ「シャルリー・エブドと偽善のペン」の翻訳。「言論vs暴力」という構図は本当に正しいのかを考えるために。(訳文の転載はご自由に)


シャルリー・エブドと偽善のペン
コーレイ・オークレイ
2015年1月11日
http://redflag.org.au/node/4373

もう堪忍袋の緒が切れた。ヘラルドサンの風刺画家、マーク・ナイトのせいだ。

公平を期していえば、全面的な責任が彼にあるわけではない。これに先立つあらゆる狂気の沙汰がなければ、彼の風刺画に対してブチ切れるのではなく、ただのマードック流の狂気として笑うだけですませられたかもしれない。しかし、文脈こそがすべてだ。言論の自由と西洋文明の啓蒙的価値についての殊勝ぶった世迷い言を聞かされ続けた日々のあとでは、ペンによる戦争はもうたくさんだという気になる。

問題の風刺画には、男性2人が描かれている。覆面して武装したアラブのテロリストだ(ほかの種類のアラブ人は存在するのだろうか?)。爆弾のような物体が彼らの頭上に降り注いでいる。それはペン、鉛筆、羽根ペンだ。おわかりだろうか。銃の言語しか解さない中世的イデオロギーに対して、啓蒙意識に満ちた英雄的西洋が応答しているのだ。理念と表現の自由という武器でもって、野蛮に抵抗することを再確認することによって。

これが全世界の新聞で繰り返されている、興奮に満ちた語り口だ。まったく吐き気がしてくる。折れた鉛筆が次なる戦いに備えて研ぎ澄まされているさまがふんだんに描かれ、イスラム蔑視をやめることを拒絶することでテロリズムに勝利するのだ、と宣言する社説の数々。

ばかな、といえる時期はとうに過ぎている。ナイトの風刺画でこの上なく明確にされたことであるが、西洋文化は理念による戦いを挑むことで急進的イスラム主義から自己を守れるし、守るのだ、という思想を呼び起こすイメージのすべてが、同一の歴史的かつ政治的記憶喪失を表している。

このばかげた語りほど、現実とかけはなれたものはないだろう。

過去15年間、アメリカ合州国は他の西洋国家から程度の差はあれ支持されつつ、アラブ・ムスリム世界に対して、現代戦の歴史において並ぶものがほとんどないほどの残虐さに満ちた暴力と破壊を降り注いできた。

イラクを、ガザを、アフガニスタンを破壊し、数十万の人間を殺したのは鉛筆でもペンでもなく、もちろん理念でもなかった。12人ではない。数十万人、だ。そのみんなが人生を、生活を、家族を持っていた。数千万人が友人を、家族を、家を失い、自らの国が引き裂かれるのを見てきた。

軍事占領の犠牲者に対して、イラクでの「衝撃と畏怖」作戦で爆撃された家にいた人々に対して、白リン弾と劣化ウラン弾でバラバラの死体となった人々に対して、アブ・グレイブの拷問部屋で行方不明になった子を持つ親に対して、これらすべての人々に対して、西洋「文明」は剣ではなくペンによって、冷酷な嘲笑を浴びせる以外に、どんな戦いを行ったというのだろうか。

こうした悲惨の最新のものだけが、私たちに関連付けられる。血と鉄でもって、アラブ世界のごく少数を除いたすべての人々を貧困と絶望に追いやった、一世紀以上にわたる西洋の植民地政策は考慮にさえ入っていないのだ。

ペンによる戦いは、アルジェリアにおけるフランス植民地主義の暴政について、そして帝国の残骸を維持するために数十万人のアルジェリア人と、数百人のフランス系アルジェリア市民さえもを殺そうと準備していることについて、語ることすらしない。大半がアルジェリア出身であるフランスのムスリムたちが現在耐え忍んでいる貧困、隔離、迫害について触れることはないのだ。

「西洋的価値」は暴力および政治的道具としてのテロの拒絶を必然的に伴う、とする奇妙な思考に対し、ムスリム世界に対する西洋の関係史、すなわち植民地主義と帝国主義、占領と支配と戦争の歴史が、抗議の声を叫び立てる。

もちろん、ペンは一方でその役割を果たしてきた。際限ない愛国法、反テロ法の数々、警察の嫌がらせと市民的諸権利の制限を固定化したその他の法案に署名したペン。果てしもないヒステリーを繰り返し、反ムスリムの偏見を深化させ、人々に自分たちの国で異邦人となることを余儀なくさせた、新聞の論説委員たちのペン。しかし、新聞編集者たちのペンが強かったのは、その機知や理性によるものではなく、権力者とその銃のしもべであるかぎりにおいてなのだ。

この文脈を考慮に入れたとき、啓蒙的西洋が言論の自由を守るという語りを作り出すものたちの偽善が暴露されるだけではなく、それに応答する恐るべきテロ行為の予測可能性と必然性もまた明らかになる。もちろん、今回の最新の残虐行為を実行した3人の男の心中がいかなるものであったかについて、私たちが知ることはないだろう。しかし、これらの攻撃が起こった背景にある、近年と長年の双方にわたる文脈を無視することは、非歴史的な俗物主義の最たるものである。

宗教的象徴を悪意をもって描かれたことに対するムスリムの激怒は、西洋におけるムスリムの迫害とイスラム諸国に対する侵略および占領と切り離して評価しうるとする考え方は、持続的かつ体系的な抑圧の経験に対する共感能力が完全に欠如していることによるものだ。

近年の歴史をごくわずかでも考慮に入れたとき、並外れているのは今回の恐るべき事件が起きたということではなく、このような出来事がもっと頻繁に起こってはいない、ということなのだ。終わりなき挑発のなかで、このような行為に訴えるのがごく少数の人々にすぎないということは、世界のムスリムたちが持つ辛抱強い人道主義の偉大なるあかしである。

来る日々において、現在疲れ果て消耗しつつある愚行の劇場は、その避けられない帰結を演じ続けることだろう。反抗者を牢に閉じ込め、その市民生活のあらゆる瞬間を調査する欧米の政治家たちは、思想の自由について言葉を飾り立てつづけることだろう。あらゆる立場のムスリム指導者たちは、かれらと何の関係もないテロリズムについて非難を強いられる一方、その非難がまだ手ぬるいとして逆に糾弾されることだろう。右派は左派をイスラム主義テロリストの共感者だとして攻撃し、ジャーナリストはその意見を表明したことで殺されるべきではない、というわかりきったことを際限もなく繰り返し続けることを要求することだろう。彼らはまた、ムスリムたちではなく、西洋の白人こそがこの最新の政治劇における真の犠牲者なのだ、ということを受け入れるよう求めることだろう。

その一方、欧米に住むムスリムたちは、避けようのない報復を恐れながら外を出歩くことだろう。そして彼らが怖がるのは、ペンではないのだ。

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