「思考」について。下記2つのエントリに対する私信



「思考停止」が当たり前の生活で、思考の海を揺らぎ続けるには - ぐるりみち。
http://yamayoshi.hatenablog.com/entry/2014/11/19/212942

思考停止 という言葉。思考停止は楽な生き方になる場合も - 鈴木です。
http://suzukidesu23.hateblo.jp/entry/stop-thinking

@Y_Yoshimune 國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』によれば第3章思考と主体性によれば、自らの習慣(=環境世界)に留まっている人間は思考していない、しかし外部の「出来事」に遭遇することではじめて「思考させられる」ということを哲学者ドゥルーズは語っているのだけど。この遭遇にも条件があって、あらかじめ兆候を読み取るための訓練をしていないと出来事から思考をはじめられないのね。

……というリプライをしようと思ったら長くなった。思考停止について少し思うところがあったので書いてみる。私信です。



さて、発端となった記事の、鈴木さんの「思考停止への疑義」というのは人間が「習慣」にとどまっている状態の是非を問うているわけだね。はたして日常に踏みとどまって決断しないことは善なのか悪なのか。それに対して、けいろう君のアンサー記事のなかでは、まず思考停止の分類が示されている。

1)習慣に流されていること=ひきこもり(未決の)状態と、2)「決断という選択」のあとに生産的な思考が始まっていない状態=思考の欠如した決断のみの状態だ。

けいろう君はそこから選択以前の段階のほうに意識を戻して選択のもつ多義性を考える。そして「思考」をはじめよう、自分の腑に落ちるところを探しましょう、そのためにゆらぎましょう、という提起で終わるのがあのエントリーの主な流れだね。(間違っていたらごめん)

まずこの私信の結論から書くと、1の状態は「日常に潜伏すること(=貧しい世界を享受すること)」2の状態は「非日常に出ていくこと(=思考すること)」に言い換えられ、それらは同時に「豊かな経験でありうる」。ただし、それにはそれぞれべつの方法があるということを示したい。その解説をするために環境世界という概念とドゥルーズにおける思考と主体性について少し書く必要がある。



1.日常に潜伏すること=貧しい世界を享受すること

はじめにドゥルーズの話を出したのは、この問題は「思考が開始されているように見えて実は作動していない状態」についての、つまり「思考」という概念について共通の土台ができていないから生まれている認識の齟齬だと思うからです。

自分の世界に引きもこる思考停止の態度は悪い、決断主義(非日常に飛び出せ!新世界の神になる!バトロワ!)も思考停止のバリュエーションである。たしかにそうだ。(余談だけど、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』とはセカイ系/決断主義批判をつうじて、"コミュニケーションによる乗り越え"という根っこでは本問題と同様のテーマを扱っている。)

それでは、思考していない状況に置かれている人間とはどういうものなのか、そして思考が始まる契機はどこにあるのだろうか。冒頭の言葉を借りるなら、人間は独自の「環境世界」に生きており、べつべつの知覚世界を生きている。説明は後述するが、とある生物学者の編み出した概念だ。環境世界は「習慣」といいかえてもいい。たとえば学生と会社員の環境世界=見ている風景は違うし、芸術家と証券投資家の環境世界は違うものだろう。こうした人たち、つまり僕たちが自分の見ている風景=普段過ごしている習慣から外に出ることはあまりない。

環境世界概念を提唱した生物学者のユクスキュルは「マダニ」の比喩を使ってこれを説明した。彼によればマダニには3つの情動しかない。哺乳類の匂いを知覚し、跳躍し、吸血すること。そして驚くことに獲物が通りかからなかった場合、マダニは16年もの間その場所で停止する。これは僕たちの環境世界では異常に思えることだけど、彼らにとってはごく普通に行われていることだ。この場合のマダニは行動停止している、というより「待ち伏せている」といっていい。あるいは日常のなかに深く潜伏している。これは果たして「貧しい」生き方だろうか。

このように問うのは國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』という著書だ。たとえば美少女アニメのオタクや鉄道マニアをみてみよう。彼らが趣味に没頭している時間に同年代の男女は恋愛し、集団で遊び、物質的に「豊かな」日々を送っているかもしれない。けれども、君も僕もそうであるように、オタクの趣味や経験が「貧しい」ものだとは思えない。べつの豊かさがあると信じているし、実際に存在することを知っている。こうした貧しさのなかにある豊かさのことを國分は消費に対して浪費と呼び、彼は後者を称揚した。動物のように環境世界を貧しく限定することで得られる豊かさもある、ということだ。



2.非日常に出ていくこと(=思考すること)

長くなってしまった。残りは短くまとめてしまおう。参考にしているのは同じく國分の『ドゥルーズの哲学原理』第3章だ。

「日常に潜伏」していたはずの人間が思考をはじめるのはどういうときなのだろう。ここに非日常に出ていくこと(=思考すること)のヒントがある。
ドゥルーズによれば、人間はできることなら思考したくない、考えたくないと思っている。なぜなら思考とは苦しいことだからだ。だからこそ思考は外側から強制されるものである。
では、何によって?

それは「出来事」である、と彼はいう。9.11のような衝撃的な出来事でも、不意に訪れた考えるきっかけでもいい。大事なのは日常から外れた場所からやってきて頭をこずくような要素のことである、ということだ。あまりに予想外の場所から殴られると場合によっては頭がおかしくなってしまうけれど、出来事とはそんな軽いものから重いものまでバリュエーションがあると想定してほしい。

出来事に「遭遇」するためには、その出来事から経験を得るための素地が必要になる。例えば「9.11」という出来事に遭遇するには、事件をTVニュースで知るだけでは不十分で、背後の事実関係を知っていなければならない。9.11はなぜ起こり、そして9.11はなぜ米国にとって重大な問題なのか。「無差別テロだから怖がっている」で理解が終わってしまったら他のテロ行為と何が違うのかわからない。勉強してはじてめて出来事に遭遇したことになる。

このように出来事に遭遇するためには普段から「ものについて考えること/勉強すること」をつうじて自分の環境世界を広げていく必要がある。これが思考の主体性だ。思考そのものは受動的なモードだけれど、真に思考を作動させるには主体性が不可欠になる。その要素がドゥルーズの言葉でいうところのしるし(シーニュ)を捉えること、つまり勉強ということだ。

なぜ苦しい「思考」をするために苦労して出来事を捕まえなきゃならないのか。はじめの方にもいったように、それが日常から離れ、非日常の世界へ行くための扉になっているからだ。経験し学ぶことで人間の世界は拡張していく。そこから得た経験=訓練の成果は日常の豊かさを享受する際にも役立つだろう。


まとめ。

僕が伝えたかったことはすでに書いた。が、少しだけまとめよう。

日常に潜伏して豊かさを享受するモードもあれば、出来事と遭遇することによって思考を強制させられ非日常に開かれていくこともまた、「豊か」であるといえるだろう。だから「思考停止のほうがラク」なのは罪でもなんでもない、むしろ日常の豊かさを享受できるのはとても幸福なことである。同時に考え"させられる"ことで「ゆらぐ」のも倫理的なモードである。とはいえ物理的に非日常になることだけが、会社を辞めることだけが「考える」ことではない。この文章では省略したが、國分は『暇倫』のなかでこのようなことも言っている。人間は環境世界間移動能力に優れ、そのためすぐに退屈してしまう(場合によっては退屈しのぎに殺しあう)が、様々な環境世界を味わう能力が備わっていることでもあるのだと。思考によって環境世界を拡張することも任意の環境世界に没入することも「倫理的」な態度である。
願わくば善く生きられんことを。


補記
走り書きなので読みずらく、理解しにくいところもあったかもしれない。また説明は厳密ではない。もし興味があるようなら『ドゥルーズの哲学原理』や『暇と退屈の倫理学』を読んでいただけたら幸いである。

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