@sailorsousakuTL 『花を愛でつ』高校を出て数年後の居酒屋にて

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　すうすうという寝息が聞こえる。
　周囲の喧騒が嘘のようにこの部屋だけは静かだ。
「隣、良いか」
「もちろんどうぞ」
　私よりだいぶ背の高い身体が滑り込んで来るものだから、席を奥にずれてスペースを作る。
　テーブル席のはずなのに、同じ側に座らざるを得なくて、まるでカウンター席になったみたいだ。
　でもそれも仕方ない。
　私と彼女の向かいには、身体を横たえて二人分の席を占拠した、この席を用意したはずの後輩の姿があったからだ。彼女の目の前には、半分ちょっと飲み干された、カルーアミルクが揺れている。カフェオレが好きな彼女らしいチョイス。
　自信満々に大丈夫です！　なんて言い放った、笑顔を思い出すとちょっと恨めしい。けど、今そんなことはどうでも良い。
　さて、どうしたものだろうか。
「……紫歩は大丈夫だと言っていたけど、本当に貴方が来てくれるとは思わなかったな」
「私だってそうだ」
　私も彼女も、声は落ち着いている。
　在りし日の激情はお互いに風化しつつあって、今は二つの糸だけで結ばれている、少し奇妙な関係性。
　私こと甲埜美南と、雑賀瑞生のために紫歩が設けてくれた席。……主催は開始十分で眠ってしまうという体たらくなのだけど。
「雑賀さんの絵、雑誌で見た。表紙だったね」
「へえ、それ、よく私の絵だってわかったな」
　わりと有名な雑誌名を挙げると、少し目を見開いて、驚いた素振りを見せる。確かに表紙を飾ったその絵の作者は誌面のどこにも載ってなかったと思う。
「私は雑賀さんの絵、好きだから」
「……それは、どうも」
　彼女は私に負けず劣らずザルだと聞いている。その頬が少し赤くなっているのを見て、瑞生は恥ずかしがり屋なんですよ、という紫歩の言葉を思い出す。
　本当は、私たちが学び舎で生活しているときに言いたかった言葉。
「謝らなきゃいけないことがあってね」
　目の前のジンライムを傾けて喉を潤してから、喋り出す。こういう時、アルコールが入って僅かでも気分が高揚すれば良いのにと思う。
　雑賀さんの視線が戻ってきたことを確認して、言葉を継ぐ。
「いつだったか……雑賀さんが置いていた空の絵を見たことがあるんだ」
「……そう、なのか」
「勝手に見てごめんね」
「まあ、アンタが一番見る可能性が高かっただろうな。アレは紫歩も知らないと思う」
　今、目を瞑っても鮮明でキャンバスに広がる青を覚えている。
　上半分には一筆も書き加えてない不思議な絵。
「なんとなく勝手に見てはいけないものなのかと思っていたけど、一度知ってしまうと視界には入って来ちゃってね。ドア越しに何度か置いてあるのだけは、見かけた」
「あれは、なんでやってたのか、私自身もよく分かってないんだ」
　その言葉を聞いて、少し目を丸くする。そうだったのか。でも、あれは私の目にはまるでーー
「実際のところは私も当然分からないけど、あれは手紙なのかと思ってた、あのひとへの」
「手紙……そうかもな、手紙だったかもしれない」
　詳しい事情は私は知り得ない。下手をすると一番親しい紫歩すら知らないことかもしれない。あの一見、未完成な空の絵と、それにまつわるエピソードは。
「とにかく、あれがきっかけ。私は雑賀さんの絵、好きだよ」
「なあ、雑賀さんって止めてくれないか、会長。瑞生で良い」
「そっちこそ生徒会長なんていつの話？　私も美南で良いよ。瑞生さん」
　雑賀さん……瑞生さんはもごもごと分かったと言い、くるくると弄んでいたグラスを持って、焼酎を呷る。
　私もそれに習う。酔わないけれど。アルコールの味と、喉が焼ける感覚は好きだ。
「若かったな」
「別に今も若いでしょう」
「でもあんな熱量を持って今はもう生きられない」
　振り返って、確かにそうかと思い直す。あの日々のように一日一日が鮮烈に苛烈で、過酷で楽しい生活は、多分三年間だけ許された特権だった。
「そうだね……だから、申し訳なかったと思う」
「私だってそうだよ、すまなかった」
　互いに視線を重ねて、にやりと笑い合う。
　グラスを持ち上げて、かつりと一度ぶつけると、残りを全部飲み干した。たったこれだけのやり取りで当時のわだかまりが全て無くなるなんて、甘いことは考えていないけど。それでも第一歩には違いないと、そう信じている。この展開を意図していたかは知らないけれど、大丈夫と断言していた紫歩の言葉は、どうやら間違ってはいなかったらしい。
　可愛らしい寝息を立てている眠り姫が起きるまでは、まだもう少し時間があるに違いない。

　それを肴にして、私たちは今しばらく、静かな時間に身を委ねることにした。

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