@sailorsousakuTL  『空に想うは』 綾葉と智由利のお話。




 部室。部屋にあるものは机と椅子、壁に打ち付けられている本棚には様々なジャンルの本が詰め込まれている。既に入りきらなくなっている本達が床にそのままうずたかく積まれている。西日が綺麗に見える窓であるのに、カーテンは完全に閉じられており、うっすらと埃を纏っている。
 かりかり。ボールペンを走らせる音。
 かちかち。ボールペンをノックする音。
 ただ一人、少女は終業のチャイムの後、この部室に籠って黙々と原稿を仕上げる作業を行っていた。ただ、書いては紙をたたんで新しい紙を出す、書いては紙をたたんで新しい紙を出す、の繰り返しで原稿が進んでいる気配は感じられなかった。
 立てつけの悪い部室のドアがぎい、と音を立てる。だが、その錆びた音に少女は振り向くわけでもなく、手を止めるわけでもなかった。まるで音自体が聞こえていないようだった。
 時に少女、菱沼綾葉は蝉になる。
 周りの音は聞こえない。ただ、文字という名の声をあげるのみ。自分の奥底に眠る言葉を文字にして。
 周りの景色は見えない。ただ、白い紙が世界のすべて。自分の奥底に眠る言葉を吐き出す舞台。
 綾葉を見る一組の瞳。彼女は何度も蝉になった彼女を見てきているから、声をかけるわけでもない。ただ、同じ空間に居るだけ。だけれどたくさんある本には見向きもしない。ただじっとして彼女を見つめていた。ふと目を離してしまえば彼女がどこかへ消えてしまいそうだったから。
「どこかへ行ってしまいそうって言うのは私も同じか」
「――実際に、一年もどこかへ行ってしまっていたけれどね」
 思うがままに吐き出した言葉は消えてしまう前に人となった綾葉に届いた。こうやって、唐突に綾葉は人間へと戻る。
「ありゃ、もう書かないの」
「煮詰まっていてね。何も思いつかない時に、無理矢理書こうとしてもいい物は書けないだろうし」
「ふぅん。そんなものなの」
 部室のドアに寄りかかったままの少女に綾葉は自身の対面の椅子に座るように促す。少女が歩くたび、鞄に付けてある野菜のキーホルダーが揺れる。頬杖をつきながら澄んだ瞳で少女を見つめる。少女の方は少し居心地が悪そうに視線を逸らそうとするのだけれど、綾葉の瞳は少女の瞳をがしりとつかんで離さなかった。
「智由利」
 一言。小さく、落ち着いた声だったのだけれど智由利の中にずん、と落ちて石になる。そんな感覚に最初こそ智由利は逃げようと思ったこともあった。なのに気が付くと彼女の方に足が向く。彼女の声を聞きたくなる。傍に居たくなる。まるで首輪をつけられたかのような感覚に陥る。智由利自身が決めたルールを半ば強制的に破ってしまうようなもの、それなのに不快感がない。不思議な力だった。
一年間。そう。一年間。海外へ航空免許を取るために留学した時も向こうの土地で彼女の言葉が恋しくなった。首輪が取れたのに、再び首輪が欲しくなっていた。長い期間の穴埋めをするかのようにこちらに帰って来てからというもの、かなりの頻度で智由利は文芸部の部室を訪れていた。
「智由利」
「んー?」
「私に何か話をしてくれないかな」
「話? どんな?」
「なんでもいいよ。智由利が話したいことを喋ってくれれば。そこから私の原稿が進むかもしれないし」
「話したいこと……今、なんか無性にマンゴーフラペが飲みたい」
 じーっと、見つめる彼女の顔に変化はないけれど瞳の奥が少し凍り付いたような気がして、智由利は慌てて取り繕う。
「冗談だよ、冗談。私が話したいこと……というか話せることは空のお話しかないから、その話でも」

 地上から空に飛んだあと、しばらくしてからふと自分がいた地上を見てみるとね、何もかもが小さく見える。家も、畑も、森も人も全部。みんなみんな作り物、ジオラマみたいに見えてくるんだ。自分の背丈から見える世界がすごくちっぽけな世界なのかっていうのを思い知らされる。でもそれだけじゃない。風の音、ひゅるりひゅるりなんて生易しい物じゃない強い音。いや、音っていうよりも声、かな。空の声。空の声に耳を傾けていると私自身が飛行機の中じゃなくてそのまま空に放り出されているような感覚があるんだ。真っ青な空、そこに浮かぶ真っ白い雲。私をどこかへ連れて行ってくれる、縛られてたものから解き放ってくれるような、そんな感じ。……うまく言葉にできないんだけれどね。

 がた、と椅子から智由利は立ち上がる。部室の中をゆっくりと練り歩く。彼女の瞳は閉じられているにも関わらず何にもぶつかることはなかった。綾葉は同じ姿勢で、智由利が座っていた椅子をうっすらと笑みを浮かべながら見つめていた。

 何も遮るものはない。辺りを見渡しても空と雲だけ。解き放ってくれるようなって今言ったけれど、それだけじゃなくて。この空間すべてが自分の物、自分だけの世界のようになった気がして、とても嬉しくなる。ほら、子供が欲しいおもちゃをお母さんやお父さんにもらったら喜ぶでしょう? あれと同じような感覚。ずっと、ずっと。この手に入れた世界に居たい。話したくない。って思うんだ。一生、この場所で過ごしたい。私は空に居るとき、一番大きくなれる。地上の小さな私には戻りたくない……なんてね。

 ゆるやかにウェーブがかった髪の毛が揺れる。閉め切られた窓の前で瞳が開かれる。カーテンを勢いよく開ける。夜の眠りにつこうとしている太陽と、カーテンの纏っていた埃に智由利は目を少し細める。

 きっと、私は空で死ぬよ。
 小さいまま、死ぬよりも、大きな心のまま死ぬ。きっとそう。私はそれを願うよ。

 凛とした声が部室に響く。
 その声と光に綾葉は目と耳を傾ける。音をまるで立てないで智由利の真横に立った。目線は合わない。二人の瞳は太陽でオレンジ色を纏っていた。
「きっと、智由利の存在こそが、空なんだね」
「……難しいこと言うね、どういう事?」
 智由利が綾葉の方を向くけれど、綾葉は決してさっきのように智由利の瞳を見てはくれなかった。ただ、その代わりに一つ大きく息をついた。
「自分の意思で、物事を決めることが出来る。それこそ本当の自由だよ。私とは違う」
「じゃあ、綾葉は」
「私か? 私は何だろう。……そこの時計、とかどう?」
「唐突に人を空だとか言い出して、今度は時計、ますますわけわからなくなるね……」
 部室の角に置かれている一番小さな本棚の上に置かれている時計。可愛らしいサクラソウの絵があしらわれているのであるが、無音かつカーテンと同じく少し埃をかぶっている。大分昔に動くことをやめてしまった時計。智由利が薄汚れた盤面を指で拭って盤面を見てみると時刻は1時25分を指していた。
「その時計はもう、動かないんだ」
 時計の裏を見てみると電池は所定の位置にきちんとはめ込まれている。
「電池が切れたとかじゃなくて?」
「そう。何をしても動かなくなってる。ほら、私みたいだろう?」
 智由利は何か言いたげな表情で綾葉を見つめるのだけれど綾葉はもうそれ以上何も言わなかった。机の周りにばらまかれている紙類やファイルを鞄の中にしっかり詰め込んだ。
「とても面白い話をありがとう。今度時間があればもっと聞いてみたいな。でも今日はもう時間切れだ。さあ、智由利、帰ろうか」
 返答を待たずに彼女は部室の外へ出てしまった。慌てたように智由利も鞄を持って部室から飛び出そうとする。飛び出そうとして、立ち止まる。
 もう太陽はほとんど沈んで空は深い青を帯びていて、ところどころに星も瞬き始めている。智由利が元の場所へ戻した時計は未だに置物と化して、動くことをしなかった。時刻も1時25分のまま。

 ううん。違う。
 私もきっと空なんかじゃない。
 空は自由なんだ。何にもとらわれない大きな世界なんだ。
 だから、私は空にはなれない。
私は、私の心はもうすっかり綾葉にとらえられているんだから。

 そんな言葉が頭をよぎって、急に智由利は少し恥ずかしくなる。頬の火照りを冷ますかのように駆け足で智由利は綾葉を追いかける。
 気持ちは言葉にすると途端に重みを増す。智由利は体の中で一つの気持ちが言葉となって体を重くしていることを自覚した。
 智由利は綾葉に追いつくと何も言わずにそっと綾葉の手を取った。綾葉も驚いた様子を見せることはなかった。微笑んで智由利の手を握り返す。
「いつか、綾葉にも空を見せてあげたいな」
「ふふ、その日が来るのを楽しみにしているよ」

 かちり。
 1時26分。

Reply · Report Post