cyborg0721

かじろー · @cyborg0721

25th Feb 2014 from TwitLonger

続きまして、セメント沼こと『新しき世界』ですが、こちらは会長の死をきっかけにして始まる犯罪組織の跡目争いを軸に、熾烈なパワーゲームを繰り広げる男たちの「生と死」を息詰まるような緊張感で描き出したクライム・サスペンスの傑作です。

信頼と疑惑、逡巡と衝突の反復で血にまみれていく極道たちの抗争は、暴力団の壊滅を目論む警察組織の介入によってヒートアップし、策謀の現場要員たる潜入捜査官ジャソンは「任務への忠誠」と「義兄弟への情」の狭間で、自我を引き裂かれるアンビバレンツに陥ることとなります。自分の存在を規定してくれる筈だった職務が、非情の度合いを増すほどに「内なる理想像」から乖離していき、精神の袋小路で深く懊悩する地獄模様が「全てを失って全てを得る」「戴冠への試練」に収束していくストーリーには、往年のやくざ映画と『エレクション』『アウトレイジ』『インファナル・アフェア』に『ゴッドファーザー』の合算という印象が付き纏いますが、そうしたメロドラマ的な情感の裏側に隠された「その国特有の社会背景」が男たちの内面に蓄積された苦渋と憤懣をより克明に浮き立たせている部分には、まったく別種の作品群を想起するところもありました。

韓国華僑という出自において深く内面化された「何者にもなりきれない」鬱屈と焦燥が、己のアイデンティティを保留し続けなくてはならない生業によって増幅され、現実の疲弊として心身を蝕んでいく―その悲痛と切実に肉薄したタッチは『暗殺の森』のような「自我の喪失と再探求」の物語を彷彿とさせますし、殺伐とした外形の内側に秘められた斯様に繊細な心の機微が起因となって、善と悪の境界線を踏み越える形で自己同一性を獲得する「中年男のビルドゥングスロマン」としての佇まいは、ジェイムズ・エルロイの描く世界に通じるものがあるとも言えます。擬似的な「父子」と「兄弟」の三角関係において展開される悲しいすれ違いの物語と、その終着地に血塗れた通過儀礼を経て誕生した「怪物」がひとりぼっちが取り残される結末には、『X-MEN ファースト・ジェネレーション』や『イースタン・プロミス』との相似を見出すこともできるでしょう。

古くから「どんな創作物でも突き詰めれば、その命題は『自分とは何者であるか』という根源的な問いかけ一つに絞り込まれていく」と言われていますが、その意味では、本作において覇権争いの中心人物となるキャラクターも「人生におけるたった一つの究極的な疑問」の回答を模索して血みどろの抗争劇を繰り広げていることになります。報われない帰属願望を空転させる所在無さこそを「自我」とせねばならず、同一性拡散問題の真っ只中にあるジャソンは勿論、死亡した前会長の右腕を務めながら、組織内の序列では急進派たるチョン・チョンの下位に甘んじているジュング、着々と勢力を広げながら、華僑という生い立ちにおいて永久に「外様」の烙印が付きまとうチョン・チョン―彼らもまた「真になりたい自分自身」と「現実の自分自身」の間には未だ大きな齟齬があり、両者の「完全なる合一」には至っていません。

自我同一性の正常な発達を実現する為には、その阻害要因を駆逐して自らが「王」として君臨するほかなく、他者から認識される地位、身分、情勢以外に「自分が自分である」という身の証を己自身にも立てられない男たちの在り方は、人間が社会的生物である、という固定観念に人生そのものを捕縛されたようでもあります。生きている充足感を味わうために、より過酷な体験を希求する視野狭窄を自覚しながら、それ以外に精神を繋ぎ止めるものもなく、進んで与えられた立場と役割に殉じていく―自虐嗜好と破滅願望に溢れた「集団生物としてのサガ」を「儚く哀れなもの」として、美しく艶やかに捉えているところが、本作の物悲しいトーンを決定付けているのでしょう。

この人間観とキャラクター設定の差異こそが本作と『ラッシュ』を隔てる最大の要因です。ラウダとハントが共に自身の生き方に疑念のない「成人」同士であったからこそ持ち得た「躊躇なき前進志向」の衝突が、互いを刺激し、高め合っていくポジティヴィティを迸らせていたのに対し、モラトリアムの時代を経てなお自我形成の途上にある「青年」と、その道を統制しようとする「老年」が織り成す本作の人間関係は、その道筋に幾つもの傷跡を残していくような悔恨と慙愧に満ちています。信頼と疑惑、逡巡と決断、前進と後退の間で大きく揺らぎ、善意故に選択した「現状維持」の回答が、刻一刻と進み続ける状況に許されるわけもなく、各々の思惑が呼び起こした大きな波乱を乗り越えて互いの胸中を理解するに至ったとき、事態はもう引き返せないところまで来てしまっている。狂騒の中心で踊る若者たちも、その様相を高みから観察する年老いた支配者たちも、自らの選択、もしくはその留保に付きまとう悔悛の痛みによって心中を相手の存在に占有されていく様は、何処かその裂傷を弄ぶ暗い愉悦に身を浸すことで、消えそうになっている自身の存在を確認しているようでありました。

―傷つけあうことでしか交われないのなら、いっそ僕/君のことを忘れられなくなる傷をつけたい/つけてほしい―
―それが僕の/君の生きた証だから―

まったくもって「やおい」的としか言いようがないのですが、このロマンチックさも『ラッシュ』のそれに比べると、正反対のトーンを帯びています。反目の末、相互理解に至り、互いの道を前へ進んでいこうとする潔さ、清々しさに「スポーツマンシップの極致としてのやおい」を感じさせた『ラッシュ』の余韻が、後腐れのない

「さらば友よ、またこの場所で会おう」

だったとすれば、後腐れそのもの、鑑賞者以前に登場人物たちが沼にハマりこんで身動き取れなくなってるような本作のムードを醸成する要素は、

「あんなに一緒だったのに」(©斧子さん)
「同じ路を歩んできたのに、違う夢を見てる」(©おーしまんさん)
「いちばん大切な相手を自分では救えない」(©ばちこさん)

の3つ。まぁ、こんな文章書きながら、ワタクシの脳内では『とどかぬ想い-MY FRIEND'S LOVE-』が再生されたりしてるワケですが、そんなことはどうだってよろしい。自責の念こそ生きる縁とばかり、進んで過去に囚われようとする男たちの姿は、消えない傷痕を道標にして未来へと視座を向けることで一層顕著になりますが、一見陰惨な表向きの下に、その耽美的な陶酔と死に隣り合わせた官能性を愛でる繊細なタッチが滲む辺りには、同様に「やおい」と括られる物語の中でも、『ラッシュ』の少年漫画的なテイストに比べ、その正道たる少女漫画の趣を強く感じます。それを端的に示していると感じたのが、終盤に用意された病院での面会シーンです。

ジュング一派に襲撃されて重傷を負い、死を目前に控えた病院のベッドで、チョン・チョンはジャソンに語りかけます。

「もう会えないと思っていた。チョー嬉しいよ」
「おい、ブラザー。苦しんでるみたいだな。そんなに悩むな。この辺で選べ」
「おい、この野郎。もしも、もしもだが、俺の命が助かったらどうする?お前は俺が許せるか?」
「強くなれ。強く生きるんだ(二人の母国語で)」
「強くなれ兄弟。生き残るんだ」

「許せるか?」という言葉の解釈を巡っては本国でも諸説あるようですが、意味合いとしては、罪悪への「赦免」というより、相手の存在に対する「許容」と「忍耐」の方が近いようです。勿論、ジャソンには「犯罪者の存在を黙認できない」警官としてのバックボーンがありますから、ここは前者の意味合いも込めた「また前と同じように自分とやっていけるか?」という問いかけになるのでしょう。「強制」のニュアンスも付きまとう「選べ」という言葉も身元バレのサスペンスシーンに見えて、実は「おまえにこうなって欲しくないんだ」という「警告」を言葉なしに発していた倉庫での一件に比べると、この場面では自分がもはや何を望んでいるのか分からなくなっているジャソンに対して「おまえは好きな方向に進めるんだ」と、そのストレスを和らげるような響きを伴っているように思えます。

実際にどんな選択肢があるかは別としても、そんな状況で自分が裏切られていたと知ってなお、弟分に変わらぬ親愛の情を示して、その心を解き放ってやろうとする。その上で「俺はやっぱりお前のことが好きだから、好きという一存でお前を血の因果に結びつけるけれど、それでも構わないか?」と問いかけるチョン・チョンの姿は、誰もが欲しながら決して手に入ることのない「永劫の愛」を体現しているようです。これからも共にありたいと願いながら、適わない夢と悟って弟の背中を後押しする純情は、アイデンティティを喪失したジャソンにとって、本来の望みと異なる道に自分を縛る「呪い」のようなものでありますが、同時に空回りし続けた帰属願望を満たしてくれる拠り所として、大きな「救い」になったことでしょう。閉鎖的なシチュエーションで特殊化・濃密化していくが故に無遠慮や無分別が「絆」を強化するホモソーシャルなコミュニティを舞台にした作品で、最後の最後におずおずと恋文の返答を催促するようなデリケートさが際立ってくる筆致には、同じように血みどろの世界を描きながら、物語の主軸となるガッツとグリフィスの関係性に少女漫画のメソッドを組み込んだ『ベルセルク』や、男たちの哀しくも美しい交感と交歓を描いた名作『BANANA FISH』を思い出したりしました。

少年漫画と少女漫画。二つの「沼」を隔てる差異も、いざ言葉にしてみれば、極々当たり前のカテゴライズだな、と自分で呆れ果てる凡庸な結論に辿り着きましたが、宇多丸氏が「腐女子にもオススメ!」とプッシュした一方で、実際はそれ以前から女性の支持の方が圧倒的、男性は賞賛しながらも割合平熱で、その熱狂に遅れを取っているような印象があったのも、こうした作品の色合いに起因している気がします。

加えて言えば、本作の後ろ髪を引くような余韻を強めているのが、作中における「動機の不在」と「経年の省略」です。『ラッシュ』が激しく衝突しながら、相互理解に至る6年間のプロセスを、ほぼ時系列順にそのまま描くことで作品の疾走感とカタルシスを生み出していたのに対し、本作は同じように6年前をジャソンとチョン・チョンの原点としながら、彼らがもっともプリミティブな生の喜びに満たされていた「無垢の時代」を幕切れ直前に配置して、その間の「空白」を一切描いていません。

二人はどんな日々を過ごしてきたのか?田舎町の三下だった彼らが、どうやって組織の中枢まで上り詰めたのか?ジュングとチョン・チョンの確執はいつ・どのようにして始まったのか?そこにカン課長のシビリアン・コントロールは介在したのか?コングロマリット化した組織を傘下に置くなら、なぜその前に各個撃破を試みなかったのか?予想外の事態があり、それが課長の心に傷に作ると同時に二人の隆盛の要因になったのではないか?

諸々の疑念に対する回答は用意されておらず、男たちが沈痛な表情を浮かべる「今」だけが、その疲弊した内面と「遠くまで来てしまった」という感慨を伝えてきます。現代パートにおいても「己の立場を留保し続ける地獄」が「それを勝ち取る地獄」にシフトチェンジする上で、もっとも重要なファクターとなる「チョン・チョンがジャソンを殺さないと決めた理由」が具体的に明示されません。ストーリーを破綻なく進行させながら、意図的に作られた行間がその間に位置する事象と「出会ってしまったことで不幸になった二人」の「違う形の未来」に対する想像を膨らませて、作中で描かれた登場人物たちの愛憎が鑑賞者の記憶の中で強化されていきます。ラストシーンを蛇足とする批判もあるようですが、観る者を捕らえて離さない本作の魅力は、こうした「引き算」と「足し算」の絶妙なバランスから生まれているのであり、この場面配置はむしろ脚本の巧みさの現われだと言えるでしょう。

物語は「父」であるカン課長の思惑を超越し、「兄」であるチョン・チョンの遺志を受け継いだ「弟」ジャソンが旧世界の施政者たちを淘汰し、新世界の玉座に座ることで終焉を迎えます。非人間的な表向きの裏側に隠されていた深い人間性、その情が見せる寛容と残酷―それまで描かれてきた人間の二面性がジャソンという男の内面で一つに結実し、一人の男の「自我形成の物語」が完結する幕切れには、道の途中で「魂の片割れ」を失った者の悲嘆と空虚が強く漂っていましたが、チョン・チョンに心を持っていかれてしまった身としては、肉体を失ったことで己の分身と心を同化・合一化できた「兄」の安寧のようなものも感じられました。己の意思を継ぎ、自分が観ようとしていた景色を見ている最愛の「弟」。独り王座に座って煙草をくゆらすジャソンの傍らに本来映っていない筈のチョン・チョンの姿が見えたように思えたのは、決して自分だけではないと確信しています。

ロストイノセンスの「不幸」に暗い歓びを見出す「幸福」。出自・人情・過去の「呪縛」が未来へ進む「よすが」ともなる情動の表裏一体。バッドエンドのようなハッピーエンド―パラドックスとして並列されてきた正反対の要素が渾然一体となって、万感胸に迫る感動が押し寄せるこの結末は、男たちの心の機微を精緻極まるタッチで丹念に拾い上げながら、その取捨選択さえも誤らない「冷静と情熱の間」から生まれてきたものであり、その意味で作り手自身の「繊細」と「残酷」という二面性も非常に良く象徴しているような気がしました。

パク・フンジョンは『生き残るための3つの取引』『悪魔を見た』という、これまでの脚本作でも一貫して、善と悪のタイトロープを踏み外してしまった者の地獄巡りを題材に「人間の多面性」を描いてきましたが、その精神の逼塞の出口を探り当てた本作で、当人の作家世界、ノワールというジャンル両面において、題名通りの「新しい世界」を提示してみせました。その生残で美しい光景に魅せられた者は、瞬く間に引きずり込まれ、彼らの前にもまた、男たちが心に身体に血を流す様を見つめて悦喜に浸る「新世界」が開けていく―足を踏み入れた人間を固めきって身動きを取れなくさせてしまう粘度の高さと手に触れた折のヒンヤリとした心地良さ、まさに「セメント」という形容が相応しい「沼」であったと思います。

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