onomushi

斧子 · @onomushi

12th Feb 2014 from TwitLonger

私が『新しき世界』を観てから、早1週間が経とうとしています。

 あれから「やばいやばい」と言い続け、チョン・チョンとジャソンたちに対して延々と思いを馳せ続けて今、実生活もやばいことになっています。具体的には先週取り込んだ洗濯物がたたまれることなく今だ床に散らばってます。そしてWhiteberryの『夏祭り』を聴きながら、ぐず…と鼻を鳴らしています。君がいた夏は遠い夢のなかなのです。遠い!夢の!なか!

やばいです。





1.やっぱりジャソンがやばい


 やばいです。


 私がジャソンに惹きつけられるのは、彼が持つあの「寄る辺なさ」ゆえです。


 私は韓国社会をよく知りません。ゆえに恥ずかしながら韓国映画から見える「韓国」というイメージからでしか語れません。不勉強、ひらにご容赦ください。
 私が「韓国」社会が持つ一面として印象付けられたのはユン・ジョンビン監督『悪いやつら』が描き出す「血の社会」です。「血」と「民族」によって強く結びついた社会。そういうなかに、華僑としてジャソンは過ごしていた。潜入捜査官に選ばれるくらいです。孤独な身の上であったかもしれません。そういう出自としての寄る辺なさが、まずジャソンにはあったのだと思うのです。

 もうひとつは、儒教の影響が色濃く残る父権社会としての韓国です。肉体のなかに流れる血と所属社会によって注ぎ込まれる意識のなかに流れる血と、ふたつのアイデンティティに揺らぐジャソンがより強く社会規範に寄り添おうとしても不思議ではありません。そんなジャソンを見出したのがカン・ヒョンチル。潜入捜査官としてのイ・ジャソンは彼によってつくりだされたものです。そういう意味で、ヒョンチルは彼にとっての逃れたい存在「父」だったのでしょう。 
 警察という組織の意思と、その代弁者たる父の意思、そこにジャソンの意思が入り込む余地はどれくらいあったのでしょうか。犯罪組織に身を置き、より強く警察官としての「善」を意識せざるを得ないなかで、疑惑を抱かれることなく生き延びるために他の人間よりもいっそう厳格にマフィアとして「悪」の振る舞いを見せ付けなくてはならないジャソン。出自に加えて、自分の意思を奪われた人間の寄る辺なさがあり、そのために彼は終始「何ものでもない」。

 そういう人間が、流れる血によって何ものかになろうとする姿に、私は、どこまでも目が離せないのです。

 流れる血から「境界」が取り除かれ、すべてがひとつに混ざり合ったとき、ジャソンはようやく自分のなかに流れるものを知る。何ものでもない「意思」という血だ。そこから始まる復讐劇は圧巻の一言です。


 ジャソン、やばい。





2.やっぱりチョン・チョンがやばい


 やばーい。


 「中国人」と揶揄されながらも、ゴールド・ムーンにおいて実質No.2の座を掴み得た。それはやはり彼の実力ではないかと思うわけです。組織のなかで成功するために求められる能力のひとつといえば、人間観察力であり、チョン・チョンはそれに優れた人間なのではないか、と。その「観察」の目はジャソンに対しても向けられていたわけで。

 6年前のチョン・チョンは殴りこみにおいて、相手が大人数であったと知れば尻込みするような人間だった。そんな彼の前で、躊躇うそぶりを見せず相手が複数たむろうドアの向こうに飛び込んでいったジャソンの姿は、彼のまぶたの奥に実に鮮烈にやきついたことでしょう。
 チョン・チョンが組織において能力を発揮できる地位までのぼりつめることができた背後には、やはりジャソンのそういった姿が外せなかったろうと思います。同じ「血」を持つ、数少ない信用できる人間。己の身の安全をかえりみることなく投げ出せる決断力と行動力を持った人間。チョン・チョンにとってのイ・ジャソンはおそらくそういう人間であり、組織のなかで生き延びるために、彼の存在は必要だった。

 一方で、ジャソンのなかにある「揺らぎ」に気づいていた。ジャソンが常に寄り添うべき「何か」を求めていたからこそ、チョン・チョンは「兄貴」として振る舞い、彼のうえに立つことを選んだのではないかと妄想するわけです。ハイ、妄想です。ここまでぜーんぶ妄想です。妄想でなかったらポエムでもいい。ここから先も延々と妄想ポエムが続きます。

 チョン・チョンはジャソンの拠りどころであろうと努めていた。それは、長年ともに過ごしてきた「兄弟」に対する情もあるのでしょうが、それだけではなくジャソンという「人材」を逃したくないという部分もあったのでしょう。ジャソンが望む兄貴として笑いながらずっと、チョン・チョンはジャソンの奥底にあるものを見定めるべく、注意深く観察していた。

 ようやくジャソンが抱えてるものを見つけ出したとき、同時に彼が自分に向ける情もやはり確かに存在していたのだと気づいた。だからこそチョン・チョンは肉体から命が零れ落ちていくなかで、ジャソンを生かそうとした。いつでも寄る辺なく佇む兄弟が、寄り添うべきものを見出せずとも、この世界で立ち続けていられるように彼の意思を引きずり出そうとした。
 チョン・チョンがジャソンにとって口にした問いが求めたものは、答えではなくジャソンの意思そのものだったのだろう。チョン・チョンがこれまで抱いてきたジャソンに対するあらゆる思いは、はじめて心から兄弟として向き合うことができたとき、ひとつのメッセージとしてジャソンに伝えられる。「強くなれ」。ただ生きろ、と。


 はい、チョン・チョンがやばいですね。全部私の妄想ですけどやばいですね。


 チョン・チョンの言葉は、金庫のなかに置かれてあったものに触れたことによって、偽りなきものとしてジャソンのなかに溶け込んでいくことになる。そうしてジャソンの世界は開かれたのだ。

 ジャソンがチョン・チョンを欺いていたように、チョン・チョンもジャソンに対して「見せかけ」の部分を持っていたのではないかな、というお話です。そういう互いに騙しあってきた人間が、最後の最後で、ほんの一瞬に過ぎなくとも触れ合うことができたならすっげえ萌えるよねって、六畳間から叫びたかっただけです。


 洗濯物は今日もたたみません。

Reply · Report Post