<これは新垣氏擁護論ではない>
先の投稿により、私が新垣氏を擁護していると思われた方もあるようなので補足すると、この文章にそのような意図はないことは明白だと思う。彼を知る者は、彼が悪辣な詐欺師に絡めとられた被害者であると感じ、それはかれの純粋な性格ゆえであることを承知していて遺憾に思っており、その気持ちを共有している。しかし悪人に絡めとられて悪事に手を出した場合、その人を被害者だと感じることはできても、その人が行った悪事を帳消しにできるわけではない。
敢えて極端な例を出すと、2011年に世間を騒がせた角田美代子(本人はその後自殺)による大量連続殺人事件の加担者たちは、本当に、自分がやらなければ自分が殺されるという恐怖の中、同調せざるを得なかった。私は、本当に自分の周辺にこの事件の関係者がいなくてよかった、という以上の感想を持ち得ない。もしもいたら、自分が巻き込まれないという保証はない、それほどの支配力を持っていたからだ。先の投稿で、自分がもし18年前に佐村河内に出会っていたら・・・という部分は、それと同様のことを書いたまでである。(オウム真理教に絡めて論じた江川紹子氏の文章も広く読まれているが、それと同根の主張だと思う。)
この事件に対して被害感情を持たれている方であればあるほど、私が「新垣氏は被害者である」と書くことに違和感を感じるようだが、被害者と感じる身内意識がどんなに強くとも、その気持ちをどんなに結集しても、それだけで彼の罪を償うことはできない、という前提での表現であることは明確にしておくべきであろう。(先の投稿における、新垣氏の決意を支持するというのはそういう意味であるし、このことは、誰よりも彼自身が自覚し、覚悟していることであろう。大学が辞意を伝えた新垣氏の意向を白紙にしたという。先の投稿で述べたように、辞意は受理すべきだと思う。)

では、新垣氏の罪とは、何であろうか。
そのことを明確にするために、もう一点の補足が必要なようだ。

<佐村河内名義の音楽について>
私は、先の投稿の中で、佐村河内名義で発表された音楽の内容について、或いはその価値について、一切触れていないし、そのような議論には全く興味が無かったのだが、そのあたり、誤解を受けているふしもあるので補足しておく。
当初から一瞬くらいは見聞する機会があったし、確か「HIROSHIMA」の全曲を放送する番組をたまたま車の移動中に流していたので、その程度の態度であれば全てを聴いた経験もあるが、その際、少なくとも私が「現代の創作」として関心を持てる代物ではないという感想を持ったので、この作品については公的な場で何か発言することを避けてきた。旧知の有能な知人が書いたものと判明した現在、「彼があの指示書に基づきどのような仕事をしたか」という、身内意識程度の関心は持つが、それは(例えば和声課題をどのように作ったか、といった)知人の「仕事ぶり」に対する興味であり、やはり「現代の創作」としての興味ではない。(私だって、過去の様式に基づく作曲を、大学の課題としてはしばしば行っており、そのような作業に誇りも感じている。これらの仕事を手抜きで行っているつもりはないし、その仕事の完成度を評価してもらえるなら嬉しいと感じるだろう。だから、新垣氏が、自分のオリジナル作品ではない、あのような作曲作業を継続した気持ちの拠り所には、理解が及ぶ。)
しかし、私が「現代の創作」として興味がないということは、この作品の価値全体を評するものと一致することではない。そのような仕事ぶりによって完成した作品が一般に広く聞かれ、一定の感動を生んできたという事実は拭えないだろう。そして、それが「物語」を前提にした聞かれ方であったか否かが、今回のゴーストライター発覚に際して感じる感想(更に言えば被害感情)を大きく分けている。

騒動前後で作品の価値は変わらないという意見は、「物語」を前提にしていない聴き方をしてきた人の正当な意見であろう。このような人にとって、むしろ公演中止にする必要はなかったはずで、損害があるとすれば、実演に接する機会を失ったことの方である。CD購入は被害ではないし、中止になったチケットも返金されるようなので、それは被害に当たらない。(なお、高橋選手はこのような意見を持っているようだから、彼本人がそう感じている以上、タイミングがどうとか、外野がとやかく言うべきことではない。)
新垣氏は著作権を放棄した。これらの作品はアノニマス(作者不詳)として、今後は上演もフリーになる(但しそれでも利権に群がる大きな力が存在する可能性は否定できないので断定はできないが、)べきもののはずだから、本当にこれらの作品に価値を感じていた向きは、演奏をしたいなら「作者不詳」として上演すればよく、それを聴くのも聴かないのも聴衆の自由である。
なお、騒動前に佐村河内を評価していた音楽関係者の不明を断じる意見がきかれるが、それもお門違いである。「私は」、「現代の創作」として評価できないと感じた。しかし、現在生まれる音楽として、過去の書法を参照して紡がれた交響曲という存在を認める立場にたてば、あれは真摯に要求に応えて制作された仕事であるから、一定の水準を保っているのは当然である。その立場であれを評価したことは(私の評価基準とは異なるが)理解できる。全聾詐称を見抜けなかったのか、という点について言えば、おこがましいと感じる向きもあろうかと思うが、私自身は、あの程度の管弦楽スコアを、プレイバックやピアノの試奏なく(つまり頭の中だけで)作曲することは可能であるし、多くの作曲家は同様の感想を持たれているはずである。(ここに、「常に鳴り響く耳鳴り」というハンディを加えるとどうなのかについては、実際にやってみないとわからないが、私はしばしば、BGMの鳴り響く環境で作曲をするので、恐らく可能である。)だから中途失聴であれば可能性はあると思えただろうから、彼らを糾弾するのも意味がない。(ただ、彼らは、「作品」そのものを評価したのだから、今後も、「価値は変わらない」と言うべきだと思う。ここでもし、価値が転換したというなら、彼らの発言も詐欺だったと言える。)

一方、価値が半減した、或いはなくなった、とまで感じる意見は、「物語」を前提にした聴き方をしていた場合に生じる。このような意見を前にしばしば語られるエピソードは、モーツァルトの《レクイエム》の件である。これはまさに、他人名義で発表されるためのゴーストライターの依頼を受けて、貧困にあえぐ晩年のモーツァルトが小遣い稼ぎで書いたものであるとされる。依頼主の妻の葬儀で上演するために書かれたものというのも、初演時の「物語」として重要だったはずで、その場に生じたであろう感動の渦は想像に難くない。が、モーツァルトの死後、未亡人のアクションでモーツァルト作として暴露され出版され、今日、モーツァルトの名作の一つとして数々の名演奏を生んでいる。既に時効と思われるだろうか? しかし、今回の一件と、本質的に全く変わらない事例である以上、この名作を聴く際にも、これらの「物語」を前提に聴かれる向きは、素直に感動できない聴き方を余儀なくされるであろう。そのことを否定はしないが、そのようにしか音楽を聴けないのだとすれば、それは、もったいないとは思う。しかしこれは、私個人の見解に過ぎないし、このような人々に対して「そういう聴き方は間違ってますよ」と諭すことは無意味であろう。
「物語」を前提に音楽を聴き、「価値がなくなった」と感じる人にとっては、確かに今回の一件は詐欺行為であり、CD購入も、これまでに購入してきたチケットも、騙されて支払った代金だという気持ちになるであろう。そのような聴き方も、音楽の聴き方の一部であり、それを前提に音楽は商品として消費されているし、売り手も(今回の場合は作り手も)、それを前提に商売をしている。(このような構造を糾弾し、変えていかなければクラシック音楽の未来は無い、ということも正論であるし、私だってそれは訴えたい。しかし、現在時点での問題を明確にするために、そのような希望的未来を語ることは、本論では避けておく。)こういった立場に立つなら、これは確かに「食品偽装事件」と同等、いや、そんな次元では済まされない、前代未聞の詐欺事件である。十数万枚売れたというCDも、何か所にもわたる日本全国ツアーも、そういった聴き手をほぼ99%、ターゲットにしたものだったであろうから、これは確かに損害であり、その賠償を求める動きも理解できる。(無論、興行側も薄々自覚していた、とすれば同罪であるが、今回の場合、確実にそれを否定するはずだし、佐村河内が大きな力で守られる気配が無いということは、完全にトカゲの尻尾切りに遭っているわけで、そのことを強化するためにも興行側が賠償賠償請求の民事訴訟を起こす可能性は高いと思う。但し、訴訟の場で「実は知ってました」ということが露呈しようものなら大変だから、少しでも「本当は知っていた」という事実があれば、訴訟を起こさないかもしれない。)

更に言うと、端から価値を感じなかったしそれは今も変わらないという向き(ある意味で「価値は変わらない」というグループに属する)もあろうし、私のように、この騒動によってむしろ興味が増す、という価値の転換も一部にはあろう。しかし私の場合、先に述べたように、あくまでも「知人の仕事ぶり」に対する興味であるし、興味が増したという意見の大半も(知人でないにせよ、彼が有能な現代音楽作曲家であると知った上での)同質の興味であってレアケースだろう。そして、価値を感じず手を出さなかった向きには損害は無いはずだから、この議論からは除外する。(私の周囲には、端から価値を感じなかったし胡散臭いと思ってはいたが演奏は仕事だからやらされた、という向きも多数おり、それもある意味で被害かもしれないが、この議論からは除外させて頂く。)

なお、この分類が、様々な中間的な存在を無視しているものであることは言うまでもない。例えば、作品ごとに異なる感想を持つ向きもあろう(初期に、編成以外の指示を与えられず比較的自由に作曲された吹奏楽と邦楽の作品があるが、それなどは、創作の自由度の高さゆえ、佐村河内名義の作品の中では比較的、音楽的にも優れているというのは事実だろう)。また、これらの分類の何割かずつを、感じている向きもあると思う。しかしここでは、問題を整理するために、主として「価値は変わらない」と「価値がなくなった」という、二通りの聴き手が存在するとさせて頂く。
ここに書いた、主として二通りの聴かれ方による被害感情の相違は、今後も埋まらない溝であり、議論を尽くすことに本質的な意味は無い。どのような聴き方も、どのような音楽のありようも、それらが存在する以上、どちらが正しいとか間違っているとか、そのような議論には意味がない。そして、「価値がなくなった」とする意見を持つ側に被害感情がある以上、(そしてそういう聴衆を相手に商売をしていた興行主がいる以上、)損害賠償という話は避けられないだろう。

ここで問題なのは、言うまでもなく「価値がなくなった」と感じる聴き手であり、それを相手に商売をしていた興行主である。だから、「それでも作品の価値は変わらない」とか「そもそも価値がなかったことを見抜けなかった方が悪い」とか、そういう見解は全く無意味である。
繰り返すが、このような立場に立てば、今回の一件は、れっきとした詐欺行為であり、莫大な損害を生じさせてしまったのも事実なのである。

では、新垣氏の行為は、どのような罪を背負うべきものなのか。

<新垣氏の罪>
ここでも、問題を整理する必要がある。(なお、佐村河内の罪は歴然としているので、本論は、新垣氏の罪にのみ言及するものである。)

新垣氏が雑誌のインタビューに応え、記者会見を行った経緯は、むしろ、詐欺の摘発を行ったものである。自身も共犯であることも認めた上での告発ではあるが、この経緯は、内部告発に似ている。内部告発が所属する企業の犯罪を暴くものだったとして、その行為は保護されてしかるべきだろうし、内部の人間というのはそれに加担していたわけだからある意味で「共犯者」ではあるが、告発者が単独で犯罪者として扱われることはない。そして、その告発なくしては企業犯罪を暴けなかったということから、告発は推奨され保護されるべきものである。倫理的に、新垣氏が先日、会見に踏み切ったことは推奨されこそすれ、批難されるべき性質のものではない。なお、この見解は、「墓場まで持っていくべきだった」とする意見に対する反論である。どうやら明確な契約書が二人の間で交わされていたわけではないようだから、守秘義務違反、契約不履行等ということもない。つまり、今回の行動そのものには、何ら批判されるべき性質は無い。タイミングがいいとか悪いとか、そういう議論も、何ら意味が無い。確かに、興行が完遂してからなら、興行主の損害は少なくなったかもしれないし、墓場まで持っていくなら事実は隠蔽され続けたであろう。プロなら隠し通すべき、という意見もきかれた。しかしそのような見解は、詐欺に加担する意見でしかない。(なお、タイミングについては、佐村河内による義手のヴァイオリニスト家族への恫喝が度を超したことが、最も引き金になったわけで、自己犠牲をかってでも、幼少から知る家族を守るための行動だったとすれば、何とも新垣氏らしい、という感想である。・・・繰り返すが、だからといって彼を擁護しているつもりはない。)

そういうわけで、問題は、ゴーストライターを継続した点に絞られるだろう。

そしてこの点は、ゴーストライターを行うこと自体と、全聾詐称を知っていた上で行っていたこととに分かれ、更にそれらの法的問題と倫理的問題とに分かれる。

まずは、ゴーストライターを行うこと自体について、法的観点で言うと、ゴーストライターとしての仕事全般をもしも問題視するなら、あらゆるジャンルの様々な人物が問題となる。このことについては残念ながら事実であり、その存在の有無や必要悪について議論の余地はなく、事実は事実である。それ自体を倫理的にどう問題視するかは後に述べるが、少なくとも法的にこれが問題になることは、現在の(それが偏在する)状況を鑑みると、実情的にはあり得ないと思われる。(今回の場合、それを公表してしまった新垣氏によって問題が明るみになっただけであり、通常、どちらかというと著作権を争うような問題に発展するが、周知の通り、今回、新垣氏は著作権を主張する気が無いのだから、そこでの泥仕合にはなり得ない。もしかすると、佐村河内ではない別の組織によって著作権管理をするという流れはあり得るかもしれないが、その場合は新垣氏は蚊帳の外である。佐村河内が新垣氏の著作権を侵害した、という構図も無いわけで、法律の専門家が今回の件が著作権侵害で問題になると言うのを見受けると、見識を疑わざるを得ない。)

ゴーストライターという存在それ自体を否定する見解、その倫理的問題を批判する向きに対しては、上記の理由から、それが「倫理的に」是か非かという議論にしかなり得ないことをまずは確認したい。「私は絶対にやらない」と宣言する創作者も多数出てきたが、そうだとしても、実際にはまかり通っていることを知らない人は業界にはいないはずである。倫理的に問題だと思うならやらないし、まあいいだろうと思うなら手を染める、ただそれだけのことであり、これをこれ以上議論することは不毛である。(特に、師匠名義で自分の書いたものが音になる機会を得ていくうちに修練し、いずれ自分名義で発表できる機会に至るという過程は、しばしば、放送音楽等の現場では見られたことだし、それが人材育成システムとして有用であることも事実である。)
それでも、倫理的に問題だからゴーストライティングを世界から抹消すべきだと主張し、本当に、様々なジャンルでの様々なレベルでのゴーストライティングを否定するのであれば、それは確かに潔いことかもしれないが、それをするなら、かなりの業界における様々な創作、商品等の著作者クレジットが書き換えられることになるだろう。先に述べたように、モーツァルトの《レクイエム》ですら、その作曲経緯から、この世から抹消すべきということになる。今回を契機に、本当にそれをするのであればいいかもしれない。しかし、現実にはそれは行い得ないであろう。
ここで、「いや、今回は、交響曲といった、崇高な芸術の場でそれが行われたのが問題なのだ」という意見も散見される。商業音楽ならよくて、芸術音楽だから問題だ、という主張に対しては、では、その線はどこで引くのか、と問いたい。今回、佐村河内は、希代の詐欺師であったと同時に有能な(しかし間抜けな)プロデューサーでもあった(もちろん、更にその裏に操る人物がいたのかもしれないが)。交響曲が商売になり得るとふんで、周囲も扇動し、ここに至った。実際に、日本人が書いた80分規模の交響曲としては異例のプロジェクトが組まれ、大いに「商売」になった。この経緯を思えば、これは歴然とした「商業音楽」である。
結論を言うと、18年間の新垣氏のゴーストライター業そのものを、倫理的に問題視する声があることを否定はしないが、それ自体を悪事であったと断じるのであれば、同時に、相当数の悪人を適示する必要にも迫られるであろうし、それは不毛なことと言える。

次に考えなければならないのは、全聾詐称を知った上での行為だった点であり、今回の騒動は、本来、唯一、この点のみが問題なのである。そして、刑事か民事か、そして倫理的にはどうなのか、ということも考慮しなければならない。

「これからはそういうこと(全聾)でいくので」と言われ、2級手帳も見せられつつも、会話はそれまでと変わらなく行い、そして新垣氏の演奏音源を聴いてその場で選択したりもした、という新垣氏の証言を信じるなら、佐村河内は明らかに全聾詐称を行っていた。そして、そのことを、新垣氏は知っていた。もしも今後、佐村河内が全聾詐称について刑事事件として立件されれば、新垣氏は証人として法廷に立たされるであろう。しかしこの場合、新垣氏が共犯として刑事責任を問われることは無いと思われる。全聾詐称による刑事事件は、詐欺としての立件ではなく、手帳の取得、補助金受給等の面に限定されるはずだからである。(真偽のほどは定かではないが、補助金の受給は行っていなかったということなので、刑事事件に発展する可能性は低いかもしれない。)なお、別人が作曲していた事実に基づく詐欺での刑事事件としての立件が難しいと考える根拠は、前述の通りである。従って、手帳取得等を詐称によって行った経緯が立件されたとしても、新垣氏は、証人になりこそすれ、共犯者ではない。

では、民事訴訟についてはどうか。この場合は、損害賠償請求が主たる争点であろう。

それを考えるに際し、新垣氏の加担の度合いや経緯も検証しなければならない。
最初の共同作業であった《鬼武者》のサントラ盤に寄せた文章がここで読める。
http://anond.hatelabo.jp/20140208001756
私は、これは恐らく、新垣氏が書いた分析の文章を下敷きに、佐村河内(或いはその妻、またはディレクター)が脚色したものだと推察する。新垣氏の文章をたびたび読んできた私が思うに、依頼されたにせよ、ここに書かれているような中二病的表現を彼がとるとは思えない(とくに今となって読むなら「自画自賛」ととれる部分については、明らかに脚色されたものであろう)。しかし一方、音楽的分析の部分は、佐村河内には不可能な内容である。だから、全面的に新垣氏が書いたものではないにせよ、一部は、新垣氏が執筆したものではあるだろう。なお、80段にも及ぶスコアに一気呵成に書きあげたくだりなどは、その後の書籍等において、新垣氏の幼少期のエピソードをそのまま自身のものとして引用した経緯などからも察するに、恐らく、新垣氏自身の作曲過程を目撃した佐村河内が、自身のこととして書き加えたエピソードだと思われる。この文章が「物語」を増長する契機となったなら、この何割が実際に新垣氏によって書かれたものなのか、ということについて具体的な検証が必要だと思うが、「物語」に寄与した部分は、ほぼ全面的に佐村河内の加筆によると思われる。
新垣氏が「物語」を知り、協力した事実は拭えないが、前述の通り、それは悪人に絡めとられ利用されただけのことである。しかし罪は免れない。とすれば、新垣氏が具体的に背負わなければならないのはどの程度であろうか。

サモンプロモーションが興行中止にした問題。これが最も大きな損害だったと推察するので、これについて検証する。

交響曲《HIROSHIMA》が、《現代典礼》という名前で発注され、CD発売時に《HIROSHIMA》になった経緯は周知の通りであるが、この点は、「名称変更」に過ぎない。「物語」を尊重する向きには納得いかないかもしれないが、これをして詐欺とするのは不可能である。(ちなみに、ペンデレツキの《広島の犠牲者に捧げる哀歌》も、発表当初は別の題名だった。)
ゴーストライターを雇って自分の作品として公表した経緯については、雇い主が訴えられるのはあり得るが、雇われた側がその点で訴訟の対象になるのはお門違いである。(ゴーストライター業務それ自体を法的に罰することができる現状ではないことは先に述べた通りである。)佐村河内が、別人の作を自作として発表したことについて、詐欺行為を指摘される可能性はあっても、提供者である新垣氏が訴訟の対象になることはないと思われる。(仮にその点で共犯扱いされるとすれば、今度こそ、署名でもなんでも、行動に出るつもりである。)

問題は、やはり、全聾詐称の点に尽きる。それを知っていたにも関わらず提供し続けていたという点で、新垣氏は共犯者になり得るかどうか。

現時点で、佐村河内の代理人は、全聾は詐称ではないと主張している。もしも先に述べたようにこの点が刑事事件となれば、脳波検査等、確実な方法でそれを立証する必要があるだろうし、民事でも、それを行う必要があると思われるが、結果は火を見るよりも明らかである。ここでは、佐村河内が全聾詐称を行っていたという前提で話を進める。

佐村河内は全聾を主張していたし、このほど、別人作曲が露呈してもなお、全聾であることについては主張を曲げていない。
であるならば、仮に新垣氏が全聾であることに疑問を感じていた(或いは聴こえると確信していた)としても、佐村河内が全聾であるかどうかは、唯一、佐村河内本人の主張に委ねられる。手帳を持ち、代理人すら信じている状況が、騒動後にも存在している。新垣氏が会見を行った時点で、なお、本人が全聾であると主張していることは、新垣氏を共犯として主張できないことと同義である。
つまり、新垣氏を訴えようとする側にとって、佐村河内が全聾でないことを、新垣氏が知っていたか否かは、問題になり得ない。

全聾の看板が偽りだったことにより、或いは、別人の作であることが露呈したことで興行中止となった損害は、以上の理由から、佐村河内本人のみに賠償責任があるのであり、新垣氏には、その責は無い。

以上の考察から、私は、新垣氏は、民事訴訟の被告にもなり得ないと考えている。
そして、もしもなった場合は、それこそ、全力で、阻止したいと思う。(この投稿は、そうなった場合、その端緒ということになるであろう。)

しかしながら、倫理的な問題を問われるなら、それは、一定の責を負うべきであろうし、それはこれまでにも再三述べてきた。
今回、彼が全てを晒したこと、それによって、本来はメディア露出等、最も忌み嫌う彼が、これほど世間に悪人として露出したこと、そして、大学の職を辞する(重ねて言うが、大学は彼の辞意を尊重すべきである)という、社会的責任を負うわけであるから、私見としては、新垣氏は、これをもって、一定の贖罪をなしたと考える。

そして、先の投稿の末尾に戻るなら、彼は、再び、彼のオリジナル作品を、「新垣隆」として世に問うてほしい。
ちなみに、その場合、彼が今回のことを経た結果、確かに多少は、話題になるかもしれないが、これをもって売名として今後に活かされる効果は、恐らくほとんど無いと思う。彼のオリジナル作品は、超然と、現代音楽表現の最先端を歩くものであり、(誠に遺憾ながら)本来、多くの聴衆を獲得する類のものではないのだから。

そして、新垣氏の友人として、これだけは釘をさしておきたい。

新垣さん、今後は、仮に依頼を受けたとしても(そしてその可能性はとても高いと思うけれど)、佐村河内名義で発表したような作品を書くことはやめて、純然と、オリジナル作品だけを、書き続けて下さいね。

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