映画やゲーム音楽の現場でのアシスタント業務(浄書、音源入力等の実務的なものから、オーケストレーション、簡単なメモのリアライズ等、かなりの創意を要するもの、そして完全な創作に至るまで様々な段階があり、どこからがゴーストライターと言えるのかは不明確である)は、本当に、古今東西どこにでも転がっている話である。万が一、(新垣氏とほぼ同世代で様々な機会にご一緒していた)自分が、18年前に彼に代って佐村河内と関わっていたなら、新垣氏がそうであったように、自分もアルバイト感覚で引き受けたかもしれない。だからこれは、決して他人事ではない。ある一定の作曲技術を身につけた者なら、誰しも、あの出発点には立つ可能性があったのではなかろうか。
その後の経緯については確かに、詐病を知っても付き合い続けた新垣氏の罪はあるし、そもそも交響曲というようなジャンルでそれをやるべきではなかったかもしれない。しかし、自分ならあのように詐欺師に絡めとられることはないと、誰が断言できるだろうか。佐村河内の悪辣さは想像以上である。(あの指示書すら本人の筆ではなく妻が書いたものだという。)あのような人物に捕まってしまえば、なかなか抜け出せないのは明白で、正直なところ、私自身も100%、新垣氏と同じ轍を踏まないと断言する自信は無い。
そういう意味で、やはり新垣氏は悪人に引っかかってしまった被害者だったと思うし、それは彼が純粋で弱い人間だったからに他ならない。
言うまでもないが、糾弾されるべき問題の本質は、佐村河内の詐欺であり、それを増幅したマスコミと業界の構造である。

にも関わらず、今回の件ではワイドショーまで巻き込んで世間は騒いでいて、新垣氏のあの真摯で謙虚な会見を実際に見てもなお、新垣氏に対して人格否定的発言をする人がいることに辛い気持ちになるし、それは彼を直接知る人物の誰もが(本当に誰もが)共有する感情である。

しかし我にかえると、私も、まだゴーストライターが誰なのか報じられていなかった段階では、五輪を控えた金銭トラブルだと思ってしまった張本人である。だから、表面的事実だけをとらえるなら一般的にそのような感想に至ることは理解できるし、今、彼を批難する見解を持つ人々を不当だと思うべきではないのかもしれない。(新垣氏でない、自分とは関係の薄い人物がゴーストライターだったならば、今でもそのような勘繰りを捨てていなかったかもしれない。)

このように世間に罵倒されることを、新垣氏は予見していただろうし、それを受忍する覚悟の強靭さがあった。そして、そうでもしなければ蟻地獄を断ち切れないというところに追い込まれていた。文春に掲載された悪辣なメール文面、あのようなおぞましい脅迫が日増しにエスカレートする中、1月30日に行われた三善晃お別れ会で「自分の好きな音楽で人をこれ以上欺くことはできない」と霊前に思い至ったであろう彼が、全てをかなぐり捨てて事実を公表する決意をした。(せめて五輪が終わるまで待てなかったのか、という意見には呆れる。自ら贖罪意識を持つ人が、何故、告発を遅らせる必要があるのだろう。高橋選手と、幼少から知るヴァイオリニストへの真摯な気持ちの表明も、正当で真っ当な内容だった。あれをきいてもなお、待つべきだった、墓場まで持っていくべきだった、と思うとすれば、佐村河内と同等な詐欺師の神経だ。)
もちろん、今回の会見に至る経緯が、マスコミによって誘導された可能性も否定できない。(詐病に始まる一大詐欺行為がここまで発展した経緯がマスコミと業界の扇動によって実現したように。)
しかし私は、新垣氏自身が選択した「かなぐり捨てる」決意を尊重すべきだと思う。だから、自ら大学の職を辞するとの決意も、尊重すべきだと思う。(懲戒ではなく諭旨、といった処分軽減はされるべきだと思うが。)
彼は、彼が現時点で考えられる限り最も誠実な行動をした、ただそれだけのこと。少なくとも自分の立場がどうなるかについては、一番、思慮していなかったと思う。居ても立っても居られない、そういう一心からの、なりふり構わない行動だったと思う。でも、だからこそ、彼にしか行い得ないとすらいえる、正真正銘の誠実さがある。

そして、あの時点での行動だったからこそ、佐村河内からの脅迫という、小さな恐怖への対峙だけで済んだのだ。これをもっと遅らせていたら、もっと大きな力で、彼の誠意は捻じ伏せられていたに違いない。彼の尊厳は、今以上に、踏みにじられていたに違いない。
そうならなかったことが、せめてもの救いである。

そして、そうならなかったことで、新垣氏は、ようやく、本来の、彼自身の芸術に邁進できるようになったのである。

ふと、彼がまだ学生だった頃の、ヴァイオリンとピアノの作品を思い出した。
散発的なノイズがヴァイオリンによって発せられる中、新垣氏自身が弾くピアノパートは、唐突にリコーダーで重音を吹き、ボルトを床に転がす。一見、特殊奏法のオンパレードの類いと映じるその演奏においては、緊張した時間に置かれた全ての音響イベントが精緻に紡がれ、異様な説得力を持って響いていた。鮮烈なデビューだった。桐朋学園というアカデミックな場でも、その作品は最高の評価を得たという。(1990年代当時、音楽大学でそのような作品が高い評価を受けることは珍しかった。先生方の目にも、奇を衒っただけのものではないことがはっきりわかったのであろう。)

佐村河内の手垢がついていないあの時期に遡ってリセットし、再び、真に「新垣隆」の芸術を、我々に届けてもらいたいと、切に願う。

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