『自然を名づける』(キャロル・キサク・ヨーン著、NTT出版)を読む。
著者はアメリカの進化生物学者ですが、母は日本人ということで、幼い頃食卓にさまざまな魚がのぼったことや飼っていた金魚の想い出などが本書の終盤で語ら、著者の”魚類”への愛情が告白されています。本書を読み終えて、あらためて本の帯にある「「魚」は存在しない?」という意表をつく句は、魚好きの著者が現代の生物分類学(詳しくいうと分岐学者による分類)では消滅するということに対する驚きと疑問と違和感が表明されたものだということが分かります。この何とも言えない違和感をもたらすのは、私たちに備わった生物に対する直観的な認知能力(これを著者は「環世界センス」と呼んでいます)のせいであり、分岐学者による分類はそれを否定するものだからです。本書の前半では、環世界センスにもとづいて生物を分類していた時代から進化を考慮にいれた分類へと時代が進んでいくことが語られます。環世界センスがどのような能力なのかを説明する中間部をはさみ、後半では、分類方法の異なる三派として数量分類学、分子分類学、分岐分類学が登場し、その三つ巴の論争が語られます。環世界センスに頼らず、進化の過程をなるべく忠実に反映した分類を構築すること(これがひいては魚類の消滅を招くのですが)”科学”が、環世界センスとどういうところで衝突するかが語られます。分類するという行為について哲学的な問題もからんできますが、ここでの論争を思いきって単純化すると、進化という時間軸から生物を分類する系統樹的な思考とある一断面でとらえた生物を分類する分類的思考との対立と捉えることができるでしょう。著者は分類学で環世界センスの居場所がなくなっていることにある種の悲しみをいただいているように思われますが、それは他の自然科学の分野でもふうつに起こることであり、分岐による生物の分類が構築されていくことはおそらく健全な方向なのであろうと私には思えます。そしてこの”衝突”はおそらく時が経てば、哀しいけれど懐かしい想いに変わるのではないかと思いますし、私たちに環世界センスがある限り生物そして生物学への興味や愛情が尽きることはないと考えます。分類学を離れて、認知心理学や進化心理学からみれば、この生物に対する環世界センスというのは私たちにインストールされた実に興味深い特性ですし、これ自体が科学の対象として興味が尽きません(こちらの方面から環世界センスを考察した本がさらに読みたくなりました)。
関連する本:『系統樹思考の世界』『分類思考の世界』『生物系統学』(いずれも訳者である三中信宏氏による著書です)

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