わたしとマリーンは双子の姉妹として生を受けた。

 わたしたちの父は遠方の町まで名の知れたクッキー職人で、母はそのころすでに珍しくなっていたけれど、完全に亡くなった訳ではない魔女を生業としていた。母が良き魔女であったのか、悪いそれであったのかは知らない。わたしたち二人を産んだことで彼女は命を落とし、父は文字通りその腕でわたしたちを育ててくれた。父の家は代々クッカーという姓の通りクッキー職人をしており、父の母、つまりわたしたちのグランマも上手くクッキーを焼いていたが、父のことはずいぶんと誇りに思っているようだったし、わたしはわたしのなかにもその血が流れていることを確信していた。
 わたしが初めてクッキーを焼いてみたのが確か九つの時だったかと思う。それは全く悲惨なものだった。黒く焦げ、口に含むとなぜか海藻の味がした。優しい父もグランマももちろんマリーンも、クッキーには厳しかったのもあるが手を付けてはくれなかった。
 今でもだが、わたしは考えを口にするのがとても下手でその時は「のろまなマリア」「阿呆のマリア」という綽名さえついていた。やはりわたしが出来の悪い娘だから、クッキーまで出来が悪いのだ、ととても悲しかったのを覚えている。わたしの色の淡い髪を引っ張って金髪は馬鹿の証だという口の悪い同級生すらいた。
 マリーンはわたしと真逆の娘であった。母譲りの黒髪はゆたかで、すこしウェーブがかかっていて美しかったが、きつい編み込みにしているのでやたらと量が多く見えた。すこし近眼で目つきは鋭く、すぐ睨むような顔をした。後に眼鏡を掛けるようになってもそのガラスの輝きは冷たい印象で静かに光っていた。わたしの父譲りの麦の穂のような色の髪と、下がった目じりとはまったく違う。性格や何やらはさらに違い、彼女は非常に頭が良かった。わたしに話しかけてきた人たちは最初は髪の色や目の色を誉めそやしていたが、うまく話せずにいるとすぐ退屈と失望を滲ませ去って行った。しかしマリーンのもとへは沢山の人が常に居た。
 わたしは賢いマリーンに怒られるのが怖くて、常に父に纏わりついていた。父は私が上手く喋れないのにかかわらず、やさしく頭を撫でてくれ、マリアの笑顔は秋の麦畑が風で揺れたようだと褒めてくれた。
 マリーンの傍にいる人々は、わたしたちが大きくなっていくにつれ徐々に変化していった。良くない友人も増えていった様だった。彼女の口元には寂しいような、歪んだような笑顔が貼り付いていたが、わたしにはどうすることもできず、ただクッキーを焼いていた。クッキーは最初こそ大失敗で、次も上手くいったものではなかったが初めのものよりは若干ましに仕上がった。家の裏に捨てたものをアライグマが食べているのをたまたま見かけたのだ。わたしの初めてのお客様は彼らとなった。最初は捨ててから随分経ってから仕方なしのような風情で現れた彼らが、徐々にクッキーを待つような素振りでいたことは忘れられない。さらに焼き続けること数回、鉄板を取り落して腕に大きな火傷をしてしまったこともあったが、初めは父が、次いでクッキーにはとくに厳しかったグランマが口にしてくれた。身内だから食べれる程度だな、という言葉が苦笑いとともについてきたが、わたしは嬉しかった。
 喋るのも下手で、何をやっても阿呆やのろまやと言われていた私でもクッキーだけは焼けば焼くほど上達していったのが嬉しかった。何度目かのクッキーを口にした父がお前はこれを伸ばしなさい、と言ってくれたのは本当に私の生涯の宝物のような言葉になった。そしてついにマリーンもわたしのクッキーを食べてくれたのだ。あの気難しい彼女が!
 「まあ、美味しいんじゃない。」
 その言葉に私は飛び上がらんばかりに喜んで、ぎゅっと彼女を抱きしめてしまったので彼女は随分驚いた様子でわたしの腕をふりほどいた。一瞬のち、しまったという顔をして、彼女は言った。
 「……ごめんなさい、貴方は私のことなんて、好きじゃないと思っていたから。」
 驚いて、という声は擦れて聞き取れないほどだった。嫌いなわけない、とわたしはゆっくりと、震える言葉を紡いだ。胸の中で渦巻く気持ちが伝わるように、上手に口にできるように祈りながら。
 「たった一人のねえさんだし、いもうとだもの」
 なあに、それ。と彼女はおかしい、という雰囲気で噴き出した。わたしは焦りながら必死で言葉を紡いだ。
 「生まれてきたときには、どっちの髪も栗の色だったから、わたしもまりーんも見分けがつかなかっておとうさんが、だから、わたしも、まりーんもねえさんだし、いもうと」
 焦れば焦るほどどんどんばらばらになっていくわたしの言葉に呆れたのか、彼女はわたしの唇に黙れの形に指を置いた。わたしは諦めてそのとおりに口をつぐむと、彼女は言った「そんな話、初めて聞いたわ。そうねそれならどちらが姉かなんて、分からないね。わたしたち世界にたった一組のペアね。」
 「それとね、さっきのクッキー、塩をもう少し入れてみたらどうかしら。」わたしはきっとその通りにすると言って彼女の手を握った。マリーンは賢いから、きっと間違いはないと思っていたし、その時も少し増した風味がチョコチップに合って、クッキーは少しだけ美味しくなった。
 やがて冬がやってきた。寒い、寒い冬で、クッキーが評判になりすぎて昼夜を問わずに働いた後に父が没した。わたしたちは16歳を前にしていたが、わたしは葬儀でずっと泣き続け、とうとう自室に戻された。マリーンは涙一つ零さず、よく働いた。
 父が死に、わたしは本格的にグランマの元でクッキー職人になるための修業を始めた。沢山の粉を挽き、振るうこと、クッキー生地を捏ねること。主に力のいる仕事はすぐにわたしがやることとなった。もとより阿呆のマリア、勉強は好きではなかったので進学の意思すらなかった。ただ、マリーンは次の学校に進むべきように思われたし、学校の先生など周りの人々は当然のようにしていた。グランマさえ、父の残した多少の額はあるので、心配しないようにと告げた。だが彼女の答えはそれに反したものだった。
 「私はクッキーは作れないけど、グランマとマリアの手伝いをするわ。」
 ああ、その時彼女の真意に気づいていたならば! だが私は喜びに震え、彼女の手を取った。彼女は家の持つ小さな畑に見たこともすらない麦を育てた。曰くこれは非常にクッキーに合う麦である、これを使えばきっともっと美味しくなると。わたしは疑うことすらせず、喜んでそれを挽きさえした。それは、クッキーシードと呼ばれていた。クッキーはますます評判を呼び、近所の人々のみならず村に用事のあった遠方の人が少し遠回りをしてまでわざわざ買って行ってくれることもあった。わたしとグランマはそれを喜び、より一層のクッキー作りに精を出していた。
 マリーンはクッキー作り自体には手を出すことはなかったが、祖母の古い麺棒を見かねて新しいものを買ってきたり、拙いものであったが自動で粉を捏ねる手を模した機械を作ったり、また腱鞘炎に効くという薬を持ってくるなどわたしたちにはとても良くしてくれた。腱鞘炎の軟膏は、透き通って白く、よく伸びる薬で、マリーンは自らの冷たい指にとり、そっと私の手に塗りこんでくれた。薄荷の匂いが鼻の奥で薫り、わたしはどうしてかとても悲しいような、取り返しがつかないような気持ちになったが、そんなことは到底上手に言えないから黙っていた。グランマなどはあるとき、わたしにだけ聞こえる声でそっと呟いたのだ。「マリーンは、あの子は父親が死んだときも涙さえ流さなかったのに、なかなかどうして、優しい子じゃないか。」
 わたしたちはとても上手くやっていたし、クッキーも美味しかった。その年の冬はそのように明けて、徐々に日も長くなり、空気も暖かくなってきた。わたしたちのお店”クッカーズクッキー”はさらに評判を良くし、わたしとグランマでは到底手が回らなくなってきた。近所のグランマのお友達も手伝いをしてくれたが、それでも仕込んだクッキーの生地が昼過ぎまでに売り切れてしまうこともあった。
 ある日、マリーンは言った。「工場を建てましょう」と。わたしとグランマは驚いたがマリーンの言葉はその時すでに家の中で独自の重たさを持っていた。本来は彼女の進学の為に貯められていたお金、今までの売り上げなどを合計しても工場の建設には少し額は足りなかった。そこでマリーンの提案で、これから向こう焼く幾許かのクッキーが抵当ということになった。そのようなことが本来可能かどうかも分からなかったが、それでも工場は次の冬までには出来上がった。それを待つ間わたしたちは相も変わらずクッキーを焼き、農場の世話をした。
 無事建ったクッキー工場で焼きあがったクッキーは、勿論グランマのものともわたしのものとも違ったが、わたしが最初のころに焼いたものよりは随分ましだった。手伝いに雇われていたうちの数人は遜色のない味だといった。私たちは少し安い値段でそれをお店に出すことにしたが、それでも随分良く売れた。暫くして工場製のものを指定して随分遠方からも発注が入りだした。知人では足りず求人を村々に出し、農場も広げてより多くのクッキーシードを育てることとなった。わたしもグランマも大忙しで細かいことを考えている暇はなかった。焼きあがったクッキーの管理はマリーンが一手に引き受けそれでも足りない、足りないと工場を大きくしたり、二つ目の工場を作ったりした。今度は抵当など用意することもなく書面のみの約束であっさりとそれは建ち、そして何の問題も無いように見えた。 
 しばらく経った後、またもやマリーンはとんでもないことを言い出した。チョコチップに大まかに分けて二種類の作り方があるのは、製菓に興味のある人であれば大体が知っていることだ。一つは地球の裏側でとれる豆を使う方法、もう一つは大地に埋まっているカカオ鉱脈から採取したものを精製する方法だ。わたしたちは今まで古いレシピに沿って豆を使っていたがマリーンは品質、量いずれの観点からみても鉱脈産のものが優秀であると主張した。いずれ鉱脈を一つ手に入れることが出来るから、それをぜひ使うべきであると。チョコレート鉱山を買うという話にわたしたちは心底驚いたが、マリーンは工場を建てたときのようにクッキーがあれば簡単に買えるという。
そして、実際に鉱山は手に入り、深い深い坑道が彫られた。掘り出されたチョコレートは見事なもので、宝石のように黒く艶々としていた。さっそく工場に運び込まれたチョコレートたちはどんどんクッキーに練りこまれ。また近くにはクッキー生地の地層も見つかり、それも使われることとなった。
 マリーンは村の店よりもクッキー工場に通うことが多くなり、わたしたちも居をその近くに移すことになった。すこし大きくなった家に、わたしは新たな家族を迎えた。軒先でナアナアと鳴いていた白い子猫を拾ったのだ。猫にはミルククリーム、という名を付けた。白いふわふわとしたところがまさにそのような猫だった。
 クッキーの味は、もうわたしのものともグランマのものとも随分と違ったが、それでも人は争うようにそれらを欲した。村のお店では相変わらず昔のクッキーを売ってはいたが、それよりも安価な工場製のものはよく売れたし、パッケージをされて町の店にも置かれることとなった。パッケージを作るときに、マリーンはわたしの絵を描かせて、そこに印刷すると良いだろうと言った。彼女が何を考えているのかさっぱりわからなかったわたしが呆としていると「マリアは美しいから、よい宣伝になるでしょう」と言う。わたしはからかわれているのかと思い、曖昧に笑っていた。
 「あなたの青い目の周りは上等のミルクのようだし、やわらかい髪は麦の穂のようだわ。クッキーのパッケージには本当にぴったり、そうしましょう」彼女は私の髪を弄びながら言った。一瞬後ばりっと音がして髪を放りながら後ずさる手には赤い筋が数本あり、私はやはり何が起こったのか分からなかった。子猫が彼女の手をひっかいたのだ、と分かったころにはマリーンは身を翻して、じゃあいいわ、今までの袋に描かれていたようにグランマの絵にしましょう、と言いながら去っていくところだった。子猫はフーッと毛を逆立てて、まだ怒っているのか怯えているのかといった風だった。
 その自分だったろうか、でわたしにはクッキークリッカーという妙なあだ名がついた。つつくような速さでクッキーが焼けるという触れ込みだった。事実とは反していたが。わたしに焼けるのは一日に千枚がせいぜいといったところだ。真のクッキークリッカーはマリーンである。彼女の工場、鉱山からは日々どれだけのクッキーが生まれていただろうか。またどれほど遠くの町までそれは行ったのだろうか。それでもまだ品薄になり、随分高い値段になっているとニュースですら報じられているのを聞きすらした、私はすこし恐ろしくなっていった。
 クッキーの新しい味を開発するといった建前で、わたしは店の業務から外された。町の中に立派な社屋が経ち、クッキー屋は株式会社になった。企画試作室、と名付けられた部屋が私の職場になり、わたしは昼夜なくそこで過ごした。今まで使ったことのない材料も指示一つで入手できる環境は正直楽しかったで、あまりにも家に帰らない私の為にその広いキッチンは改装され、仕切られた小さな寝室が作られた。グランマは少し離れた工場の監修をしているとのことで、あまり会わないようになっていった。昔から手伝ってくれたグランマのお友達も、最近工場から去って行ったと噂に聞いた。何かが少しづつおかしくなっていった。
 マリーンは何かに取りつかれたように、一心不乱に作業をしたり不意にどこかに行ってしまったりすることが増えた。そしてある日楽しげに笑いながら成功した、という。異星からクッキーを運ぶことに成功したと。それはもうわたしたちのクッキーではない違うものに思えた。しかし素晴らしく、売れた。
 工場製よりさらに安価な異星製のクッキーは出自を明らかにしているというのにどんどんと売れていった。玩具のようなロケットがひゅーっと飛んでいくコマーシャルは非常に人気を博し、クッキーロケットの模型や衣類まで作られた。グランマ印は忘れられ、ロケット印が棚を占めた。わたしも数度、恐る恐るそれを食べたが、クッキーであった。クッキーというほか無い何かであった。ただ、やはりわたしのクッキーではなかった。もちろんグランマのクッキーですらなかった。父のクッキーからは程遠かった。わたしはどうしてこんなことになったのか、解らなかった。
 「マリーン、これはね、パパのクッキーからずいぶん遠くへきたね。」
 わたしは久しぶりに会った彼女に恐る恐る話しかけた。彼女は随分と疲れているらしく、顔色も悪く老け込んで見えた。
 「これがよいこととは、思えないのだけれど」そう告げた時の彼女の顔は白く、吊り上った目はチョコレート鉱石のように、ぎらりと輝いていた。
 「私はね、マリア。お父さんのクッキーなんて食べたことないわ」そんなことあるはずがないと思った。私は何度も父のクッキーを食べたことがある。袋に入れる際に欠けたものなどもよく貰った。
「マリア、いつでもあなただけよ。お父さんがクッキーを渡していたのは。あなたはのろくて、食べる時もぽろぽろ零したから、お父さんはつきっきりだった。たまに上手に食べれたときのご褒美のクッキーも、あなたが泣いて止まないときのご機嫌とりのクッキーも、あなただけのクッキーだったわ。私はただの一度もクッキーをもらったことなんて、無いの。だから味を知らないの。」そう言って踵を返して、彼女は社長室、というプレートのついた重いドアを閉めた。本当にそんなことがあっただろうか、わたしはどうも動けずそこの立ちすくんでいた。ミルククリームが、足元でにゃあと鳴いた。
 わたしは茫然と閉まってしまったドアを見つめていた。そしてすごすごと与えられていた自室に帰った。部屋の扉を開けると、付けっ放しだったニュースがやかましく騒ぎ立てていた。以前から研究をされていたクッキー錬金術が実用化されたという話だった。
 金を錬金術で大量のクッキーに変えるその技術は、研究途中のものを私も見たことがある。金といえば装飾品や工芸に使用されていた安価な金属である。それがクッキーに代わるといえばだれでも飛びつくだろう。
 実験の景色は今でも覚えている。大きなガラスケースの中に小さな古びた指輪が入れられていて、スイッチを入れるとまばゆい光とともにケースがクッキーで溢れた。わたしの覚え違いでなければ、指輪は母が使っていたもので、サイズの合うマリーンにグランマから譲られたものに違いなかった。溶け、光を放ち、ざらざらとクッキーを吐き出したそれを見て、マリーンはクッキーがまた得られると大喜びをしていた。母の指輪は跡形もなく消えた。わたしは嘗て彼女が手を取り、薬を塗ってくれた時のことを考えていた。その時も、彼女の指にその細い金の指輪は光っていた。わたしたちの間にあったものは、どんどんクッキーになってしまう。どうしようもなく悲しかった。グランマに会いたいと思った。
クッキーを作っていれば日々は驚くべき速さで過ぎていく。私の作るクッキーは普通のものとは違うところへ行くらしい、どこかの国の王様が待っているのだという話を聞いたことがあるが、本当かは分からない。わたしはもうクッキーを作るべきでは無かったかもしれないが、クッキー作りを止めて阿呆のマリアに逆戻りするのが怖かったのかもしれない。

 ぽかんとよく晴れた日だった。その日はクッキーが作れなかった。その時のクッキー製造方法のメインになっていたポータル……、クッキー次元への扉を開きクッキーを持ってくる設備、が15個目に開いたことと、さらに新しい技術であるタイムマシンのお披露目の式典があるので出席をしろとのことだった。新しいポータルへは会社の用意した車で向かった。大きな車にわたしとマリーンの二人だけがぽつんと、向かい合わせに座ったが何も話すことができなかった。ポータルが開いたのは何もない平野で、煌びやかに張られた幕などがその場が晴れの場であると主張していた。式典は滞りなく進んだ。15個目のポータルも滞りなく開き、タイムマシンは過去に行き、たくさんのクッキーを持ってきた。さらに未来にもいき、未来のクッキーも持って帰ってくるらしい。タイムマシンの機体が過去へ行った先ほどと同じように掻き消え、先ほどと同じように数秒後にまたそこに現れたタイムマシンは、全体的にくすんだように見えた。ぽたりと滴るのは、チョコレートか、血か。赤黒い水たまりが広がっていく。軽い音を立ててハッチが開き、パイロットがよろよろと歩み出てきた。壇上のマリーンに縋り付き、小声で何かを囁いたようなように見える。
 マリーンはにっこりと笑い、タイムトラベルには精神の力を使うのですなどと言いその場のざわめきは徐々に収まっていった。わたしはそっと自分の席を立ちパイロットの姿を探した。式典の会場近くの医務テントに運び込まれたようだった。囁いた一言がどうしても気になるのだ。彼は未来に何を見たのか。どう言ってテントへ入ろう。そう思いながら近づいていくと叫び声が聞こえた。労せずその言葉ははっきりと聞こえた。
 「未来には二度と行きたくない!! 未来は、無かった!!!!」
 わたしはその前に立ちすくんでしまった。明朗に言葉になっていたのはそこまでで、あとは叫び声と、奇妙に歌うような喚くようなそのような声になっていった。ぞっとするような節がついていて、聞いているとこちらまで気分が悪くなるような雰囲気だった。一体未来に何があるというのか。このままクッキーを作り続けることは、その未来に向かうことに他ならないのではないか。わたしは恐ろしかった。誰かに相談をしたいと思ったがそのような人はグランマしか思い浮かばなかった。
 勝手に今日の式典に来るだろうと思い込んでいたが、姿は見なかったので工場まで出向くことにした。グランマが居るという工場は遠方だったため、わたしはミルククリームをバスケットに入れて列車で向かうことにした。車窓から見える景色はもくもくと煙を上げるクッキー工場、広大な塀に囲まれ何をしているのか分からないようになっているポータル。続く採掘で穴だらけの山々と散々な景色だった。このあたりは昔はこじんまりとはしていたが、随一のターミナル駅であり、レンガで作られた家々が並ぶ町であり、散在する小さな村と続く丘陵地帯は放牧が行われ、平地は畑になっていた。そのような景色は、もう永遠に亡くなってしまった。そしてそれが失われた原因はわたしたちのクッキーなのだ。
 繰り返す工場地帯の一つでわたしは列車を下りた。バスケットのなかではミルククリームが不安げに鳴いている。グランマが居るというその工場はごく初期に建てられたもので外観もすこしくたびれてはいたが、ひっきりなしに運搬車が出入りしており、わたしも難なく敷地に足を踏み入れた。まず近くの建物を覗いたが機械が稼働するばかりで無人だった。次に入った建物は馬鹿に広く、わたしは中でですっかり迷ってしまった。人の声が聞こえたような気がして、とりあえずそちらに向かった。もし見つかっても本社から来たといえば大丈夫であろう、などと考えながら。
 働いていたのは年端もいかぬ子供たちだった。クッキーの変形パッケージをつくる仕事につかされているらしい。彼らは一様に痩せていて、それは明らかに不当な労働であった。わたしはまさかそんなことまで行われているとは思っておらず、驚いて見ていると働いている子供の一人がばたりと倒れた。すぐに監査員じみた人間がやってきて、信じられないことに倒れた子供を麺棒で殴りつけた。わたしはさらに目を疑った。それはわたしの愛するグランマであるように見えた。バスケットからミルククリームが飛び出して、後方に振り返りふーっとうなり声をあげた。そちらを見るとグランマ、グランマ、グランマ、グランマの大群だった。しかも妙な服を着ているばかりか、体が崩れかかったようなものや、皮膚が変色したものもいる。わたしは思わず悲鳴をあげ、その声を合図のようにしてミルククリームは飛びかかっていった。勿論子猫の一匹のことなので、かわいそうなミルククリームはその大群に取り込まれ、すぐに姿も見えなくなってしまった。わたしは気が動転してしまい、手に持った空のバスケットを振り回しながらその異形のグランマたちの集団に飛び込んだ。グランマたちは、何もしてこなかった。かすかな鳴き声を頼りに子猫を引っ掴みわたしは出口に一目散に逃げる。グランマたちは口々に小声で何かを言っていた。波紋のようにそれは響き重なり、わたしの鼓膜を震わせた「マリア」「マリア久しぶりだね」「キスを……」「止めておくれ」「マリアなら」「止めてくれると信じていたのに」わたしは悲鳴をあげながらドアから転がり出て運搬車の運転手に縋り付き、近くの駅まで運んで行ってもらうことになった。わたしの尋常ではない様子にすこし彼は驚いたようだったが、ここでは、いろんなことがありますからと言うなりその後は一言も口をきこうとしなかった。わたしはマリーンを止めなくてはいけないと思った。
 かわいそうに助け出したミルククリームは何があったのかすっかりチョコレートのような茶色になってしまった。そして何かに怯えているような仕草でバスケットのなかに丸まっている。わたしは列車の進むのももどかしく帰り、マリーンのいるであろう社長室のドアを開けた。
 マリーンは悠然と紅茶を飲みながらクッキーを食べていた。わたしが口を開く前に、彼女が先に言葉を発した。「貴方が言うから、もっと美味しいと思ったのに」わたしは彼女が持つクッキーに妙な既視感を感じながら、様々な問いを紡ごうと必死で口を開く。彼女は手に持ったクッキーをぽいと投げて、立ち上がりしなに踏みつけた。「これだったら、わたしの作ったポータルのクッキーのほうが美味しいくらい。」そのクッキーは、パパのクッキーだった。「タイムマシンで持ってきてみたんだけど、わたしの口には合わなかったわ。もういらない。」
 わたしはマリーンの頬を張った。そんなことをしたのは初めてだった。彼女もすこし驚いたように見えた。沈黙ののち、彼女は笑い出した。机上にあるブザーを鳴らすと、いつからそんなものを用意していたのか黒い服の人々が一斉に部屋に入ってきて、わたしの肩をつかみ、部屋から引きずり出された。連れてこられたところはわたしの部屋だった。ただ、いつもはかけられていなかった鍵が重い音を立てて閉められて、わたしはミルククリームと一緒に閉じ込められてしまった。わたしの頬を次から次へと涙が伝った。窓もすべて鍵が掛り、椅子で殴り掛かってもヒビひとつ入らず、キッチンからも室外へ出ることはできなかった。わたしはどこかで止める手立てはなかったのだろうか。そんなことを思ってずっと泣いているといつの間にか眠ってしまった。そこからずいぶん長い間、わたしは泣いたり眠ったり、やはりクッキーを作ったりして暮らした。わたしはクッキーを作る以外に日々の過ごし方を知らなかった。
 ある、月の綺麗な夜のことだった。真夜中にふと目を覚ますと窓の外は真っ暗になっている。鏡のような美しい月はどこへ行ったのだろう、とわたしはベッドから身を起こした。初めは見間違いかと思った。部屋の景色の一部がゾワゾワと歪んで見え、頭の後ろ側が猛烈に痛くなった。思わず床に目を落とすと、解れ、汚れ、嘗ては黄色だったらしき布が見えた。これは服の一部で、誰かがいる。そう気が付いた時に頭痛は最高潮に達した。これは、わたしのクッキーをとりにきたのだ、と何故かそう思った。わたしは震える手でテーブルの上のクッキージャーを手探りで開け、顔をあげてその客人を見ることも出来ずクッキーを差し出した。一目見たなら、たぶん気が狂うとどうしてかそう思った。「それ」はクッキーを受け取ったようだった。「それ」は何となく満足をしたようだった。視界の端にちらと見えていた黄衣が、さらさらと崩れていく。ここを去るのだ。わたしは何故かそれに向かって祈った。ここを出してくれ、と。がちゃん、と鍵の開く音がした。異様な気配は消えていた。
 今まで色々な人や動物にクッキーを渡してきたが、あんなものまで来るとは思いもしなかった。だが、とりあえず外には出れそうだ。わたしは疲れ果てていたが、大切な荷物を纏め何とか眠るミルククリームを抱え、外に這い出した。静かな夜で、わたしが逃げ出すなど思いもしていなかったのか何の追跡もなかった。何とか逃げおおせた私の右手には、今はもうチョコレートといった色のミルククリームが眠っていた。左手には、キッチンの冷蔵庫に入っていた、とっておきのものたちが詰まったカバンをもっていた。なぜあのような苦しみの中で、これを持ってきたのか自分でもよくわからないが、それは大切なものだった。わたしがかってあの小さな店でクッキーを焼いていたころのミルクやバターを特殊な冷凍方法で保存したものである。工場や会社の規模が移り変わる中でわたしたちは居を移してきたが、わたしはこの故郷の味を捨てることができず、ずっと運搬してきたのだ。わたしの足は自然とあの小さな村へ向いていた。列車を乗り換え、工場も鉱山も越えて、クッキーシードの整理された農園の向こうへ。電車のなかで朝日は昇り、畑を黄金の海のように染め上げる。わたしは懐かしい村に帰ってきた。
 しかし、村はすでに棄てられた場と化していた。古く懐かしい畑たちは荒れ、ひとの手はここ数年は入っていないようだった。空家も多くあった。閉ざされた郵便局にはクッキーシード農園への就職を募集する色あせたポスターが貼ってあり、わたしはここすらもわたしたちが壊してしまったのだと悟った。
 懐かしい家にたどり着いたのはもう昼もすぎた頃だった。幸いに電気も水道もまだ生きていた。マリーンもいつかここに戻ってくる気があったのだろうか。重い荷物の冷蔵が必要なものは片付けてわたしは昔の自室に戻り、ベッドに倒れた。家具にかけられた白い布を剥がすことさえしなかったので埃が舞い、黴の匂いがした。そばに来ていたミルククリームがかわいらしいくしゃみをして、まるで平穏なようだった。わたしはどうすればいいのか、一生懸命考えていたがクッキーを焼くことくらいしか思い浮かばなかった。幸いに昔のミルクも、バターも持ってきた。小麦粉と砂糖と塩、卵とカカオ豆で作られたチョコチップが手に入れば、一番ベーシックなグランマのレシピのクッキーは作れる。最初にマリーンがもう少し塩を入れるように言ったレシピだ。パパのクッキーの味は分からなかったマリーンだけれど、きっとあれなら分かるはずだ。あれを食べてもらおう。そうして話をしよう。わたしたちは随分長い間、言葉すら交わしていないから、きっと思い違いも沢山あるだろう。グランマのことも、本当のことを聞こう。あの姿が一体なんだったのかを。もしかしたら、全てすれ違いかもしれない。それだったらわたしはいかにも滑稽だ、そういうこともあるかもしれない。「阿呆のマリア」の考えていることなんて、いかにも本当ではないかもしれない……。そんなことを考えながら、わたしは間抜けにも転寝をしてしまった。
 数時間後、大きな音で目を覚ました。ミルククリームがどうかして、ニュースのスイッチを入れてしまったようだった。大きな声でそれは新しいクッキー製造方法がさらに出現したことを告げた。世にあまねく存在する反物質をクッキーに変換する装置とのことだった。わたしは一刻も早く仕事にかからなければならないのを感じた。砂糖は納屋に保管されたものが少しだが残っており、きちんと密封をされていて使えそうだった。これは昔ながらの茶色い砂糖で、クッキーの色は少し濁るが味は美味しい。裏の畑に出てみると、手をかけ続けなければいけないクッキーシードはもう枯れてしまっていて、かわりに強い、地の麦が雑草の合間ではあるもののしっかりと育っていた。わたしは納屋から錆びた鎌を拾ってきて、それをざくざくと切り、一抱えにも満たない程度だが小麦を手に入れた。わたしは消えかけた子供のころの知識を頼りに、なるべく塵芥が入らないようにより分け、水にそれを晒した。さあ、次は卵だ。朝のうちからかつて鶏を沢山飼っていた家に向かった。家は案外きれいに残っていたが、とうに廃業をしてしまったようで一匹の鶏もいなかった。わたしは何とか卵を手に入れなければならないと、当てもなく歩みを進めた。
 打ち捨てられた村に都合の良い鶏などいるわけもなく。それに、村に人が残っていたところで全てを壊したわたしをどうしただろうか。わたしはいつしか丘を越え森に迷い込んでいた。徐々に日暮れが近づいてきている。昔確かに遊んだ森なのに、どうにか外に出なければと思えば思うほど深くに迷い込み、鳥の羽ばたく音にも驚き、どこかで獣の声がした気がした。恐ろしくなって駆け出し、暫く走っただろうか。張り出した木の根に足を取られ転んでしまい、そのまま少しの記憶が途絶えた。
 ふと目を覚ますと、ちいさなベッドに寝ていた。一瞬、家で見た夢かと思ったが、丸木で作られた室内は田舎の家とも、閉じ込められた自室とも違っていた。部屋のドアががちゃりと開き、むくむくと熊のようなおじいさんだか、おじさんだかが入ってきた。
 「驚いただろう、心配しなくていいよ。家の近くで倒れていたのでね」わたしは昔話に聞いていた、森の奥に住む隠者のことを思い出していた。
 おじいさんの話によれば昔はこの森の管理人として雇われていたらしい。このあたりに人が多くいた頃には、狩猟や茸、ベリーの採取など、この森は暮らしの舞台になっていた。わたしも子供のころにここで遊んだこともある。しかし人が少なくなり、森の持ち主も都会に行くこととなった。そこで仕事を辞めてほかの土地に行くことも出来たが、おじいさんはここに残ることにし、持ち主もそれを快諾した、という話だった。クッキー工場に買われるという話もあったらしいけど、折り合いが付かなくてね、駅や道路からも遠いしね。という彼の言葉に、本当にそうならなくて良かったと答えた。
 わたしはいままでに起こったことを、わたしですら信じられないことは省いて、彼に話した。相変わらずうまくは話せなかったけれども、じっと黙って聞いてくれた。最後にわたしは大切な人に食べさせるためのクッキーを焼きたいのだ、と続けた。だけども、卵がない、小麦も足りないかもしれない。ほかにも材料の不足がいろいろある。と呟くと彼は何が足りないのか、一つ一つ聞いていった。そして、メモを取ったものを指さしながらそれはここにある、卵はぼくが飼っている鶏がいる。チョコチップはもうすこし離れた町に母がまだ居るから、明日取ってこよう。彼女も豆のチョコチップが好きなんだ。と言った。
 わたしは本当に、そんなことがあるのかと思った。夢のようだった。その日は幾つかの荷物と一緒に彼の飼っている驢馬に乗って家まで送ってもらい、用意しておいた麦を懐かしい古い古い臼で挽いた。すべてが、子供のころに戻ったようだった。翌日不足のものも届けられなんとお礼を言えばいいのか、まるで昔の童話のような展開に、感謝の足る間もなく、ミルククリームを撫でて彼は帰って行った。わたしはクッキーを作ることにした。まず長く使っていなかった厨房を隅々まで掃除した。使い慣れた道具のうち幾つかは引っ越しの際に持ち出していたので、残っていた食器などをなんとか寄せ集めて火にかけれるものなどをより分けた。オーブンも新しいものが壊れていたようで、薪になりそうな物をあつめて昔のオーブンを使うことにした。新しい小麦粉はやはりほんの少量しか出来ず、頂いた粉に混ぜてふるった。塩を少しだけ、最初のレシピより多くした。嘗てマリーンが言ったように。
 オーブンに薪を入れ火を着ける。バターや砂糖を、泡だて器がないので古いばらばらのフォークたちで何とか混ぜる。新鮮な、本当の卵を割りいれる。もうずっと見たことがなかったような鮮やかな黄色だ。わたしが使っていた卵と同じ色だ。冷蔵庫からミルクを取り出し変質していないことを確認する。少しだけ飲んでみたら、本当に懐かしい味で涙が出そうになった。粉をさっくり混ぜて、チョコチップを入れる。混ぜるスプーンがどんどん重くなってくる。手で焼くクッキーだ。最初に教えてもらった、それだ。わたしは本当にうれしくなった。本当に故郷に帰ってきたと思った。
 オーブンから取り出したそれは、見たこともないほどきれいに焼けた。冷めるのを待って一番小さなもので味見をしてみると、とてもとてもおいしいクッキーだった。いつの間にかそばに来ていたミルククリームもふんふんと匂いを嗅いで、笑うように目を細めた。昔使っていたわたしたちのお店のグランマ印の袋に残らず入れて、わたしは急いで町へ戻った。列車の揺れに気は早るばかりだったが、気がかりなこともあった。人々が読む新聞や流れるニュースで、新しく稼働した反物質クッキー装置が今までとは比べ物にならないクッキーを吐き出しているのを知った。そしてまた今度また何か新しい建物が建設されているらしい。
 新しい建物はビンゴセンターという名前で、働く老人たちのためであると宣伝をされていたが、わたしは何故か妙な胸騒ぎを感じていた。ミルククリームも町が近づくほどピリピリとしてくるようだった。周囲に座る人を威嚇したり、ふとしたことで飛びかかろうとしたりと落ち着かない。会社には出てきたときと同じようにあっさりと入ることができた。人は全くおらず、ガラン、としている。わたしは来る途中のニュースを思い出していた。ビンゴセンター、だ。きっとそうだ。どこにあるかもニュースで言っていた。第27工場跡地。わたしが嘗て異形のグランマの群れをみた工場。
 わたしは本当に気が重かったが、そのビンゴセンターとやらに行くしかなさそうであった。ミルククリームはもう自室において行こうかと思ったが、わたしの片腕や首筋に乗るのがすっかり気に入ったようで離れようとしない。仕方なしに連れて行くことにした。列車を乗り継いで見知らぬ駅で始発を待ちたどり着いたのは朝方であった。ビンゴセンターはその楽しそうな名に反して、威容を誇る建物だった。白く、大きく。今まで建ってきたすべての工場より立派な建物だった。唖然とわたしはそれを見上げていると、マリア、と呼ぶ声がした。振り返るとマリーンが黒い服を着て、ぼうと立っていた。
 わたしが最後に彼女と別れてどのくらい経っていたのだろう。そんなことを思うほど、彼女は疲れているように見えた。一段小さくなり、眼光だけが鋭く、ぎらぎらと光っていた。気圧されなにも言えずにいると、ミルククリームがちいさなうなり声をあげた。「どこに行っていたの、マリア。私は本当にあなたと会いたかったのに、どこかへ行ってしまったから大切なことも何も言えなかった。」 彼女の言葉はわたしに向けたものというよりも、自らに語りかけるように小さな声で、籠った言い方だった。
 「もうすべてが遅い。始まってしまった、終わりが、」彼女が手を伸べて、わたしのほうへ向かってくる。わたしはその手に、必死でクッキー袋を渡そうとした。傍から見れば多分に滑稽な景色だっただろう。
「マリーン、これ! わたしが、つくった! おねがい、食べてほしい!!」彼女は躊躇をせず、それを払いのけた。簡単に折っただけの袋の口から、ざらざらとクッキーは零れて、土の上に広がった。「今更、十枚くらいのクッキーがなんになるというんだろう」目を閉じて、彼女は何かに耐えるようにして言った。細やかな乾いた地のような皺が、その周り、顔中にくっきりと刻まれていた。ミルククリームが一際大きなうなり声を上げた。
 いつの間にか周りをすっかり囲まれていた。蠕動するチョコレート色のそれは昔鉱山の奥で見つかったといわれる先史時代の化け物だろうか、それともチョコレート星雲から連れてこられた異星の怪獣だろうか。わたしはもうお仕舞だと思って目を閉じた。ミルククリームの大きな悲鳴が聞こえた。
 わたしは死を覚悟したが、あいにくと捕まっただけだった。以前閉じ込められた部屋とよく似た、ただもう一段小さな部屋をあてがわれ、そこからはもう二度と出れない、と言われた。キッチンは付いており新しい味を開発する仕事は続けるよう言われた。
 その部屋へは新しい材料が次から次へ届けられた。曰く、特殊なチョコチップ。曰く、"デザインされた"カカオ豆。それらはきっとおいしいのだろうし、また生産効率なども非常に良いのだろう。ただ、わたしが古い家で焼いてきたあのクッキーよりは、皆つまらない味がするような気がした。マリーンはわたしのもとを度々訪れ、新しいオーブンが完成しただのクッキーを作れる効率が何パーセント上がるだのという話をしていた。彼女はとても疲れているように見えた。顔色は白を通り越して暗くなっている。しかし目の輝きだけはひどく増していく、鉛の入ったガラスのようなきらめきが黄色がかった白目に宿り、瞳は光を吸っているかのようにさらに黒く見えた。彼女はそのクッキーを作る効率とやらに非常に腐心していた。そして、いま行われている研究はすごいものだ、全てが変わるだろう、と熱に浮かされたように呟くのだった。やがてその日はやってきた。
 その研究のことは詳しくは知らないが、それは”一つの意思計画”、と呼ばれていた。その日からしばらく、マリーンはやってこなかったが、後にナッツだけが届けられた。エキゾチックナッツ、とタグに書かれたそれを味見してみると、不思議な味わいを持っていた。美味しいことは美味しいのだが何故かとても不安を掻き立てられる味とでもいうのか、まるで自分がここにいないかのような、髪が逆立つような、そんな味わいだった。噛みしめるたびにある種の香料に似た香りがして、それが名の由来のように思われた。またしばらく後、隔離されていても分かるほど俄かに外が騒がしくなった。頭脳共有、という単語が聞こえたような気もする。窓の外が雨降る夜にも関わらず深紅に染まることもあった。偶に運び込まれる外界のニュースでは、老婦人が溶け出したなどの荒唐無稽なことが書かれており、いったい世界全体がどうなってしまったのか、不安で仕方が仕方がなかった。マリーンは全く現れなくなった。
 次に届けられたものは名前すら付けられていなかった。白い砂糖に見えた。口に含むとあの不安が背筋を続々と這い上がってくる
。これに一番似ているものは猫の断末魔だ。可愛そうなあのミルククリームの。どうっと音を立てて部屋全体が揺れた。
 ああ、とうとう終わりの時がやってきたのた。わたしは驚きもせず、そう思った。割れないはずの窓にひびが入り、室内にしずしずとなだれ込んできたのはクッキー生地だ。いたるところに蕩けかけたグランマの顔や腕や乳房も見えるが。心臓の鼓動のような音が地面のそこから響いてくる。クッキー生地はどんどん流れ込んでくる。甘い匂いが周囲を包む。エキゾチックナッツの薫り。白檀と龍涎香と炭にされた動物の骨の薫り。あのよからぬ砂糖の薫り。死臭。
 そしてその流れの中心に、気怠そうに座っているのはマリーンだ。魔女の娘は、今や真の魔女となり、疲れは老いとなり、ほとんど老婆のそれであった。椅子がクッキー生地に飲み込まれたのか、クッキー生地が椅子だったのか。もはや判別のできないそれに身を委ね、ワンピースのような単純な黒衣も重そうで身動き一つしない。
 私はこれを知っていた。と遠くで彼女が呟いた声が、どうしてか耳元でそうされたかのように響いた。これを知って、このようになればよいと、思った。そのように、なった。私は満足である。まるで、わたしが一生懸命話すときのような切れ切れの言葉は彼女の叡智を剥ぎ取りより一層哀れに聞こえた。ああ、どうしてこんなことになってしまったんだろう。彼女は父のクッキーすらを取り戻したのに。彼の手からではなかったものの。わたしたちはどうして彼女を止めることができなかったのだろう。足元に寄せては返しながら着実に進んでくるクッキー生地は波のよう。わたしは膝から崩れ、そして祈るような姿で地に伏した。視界に広がるクッキー生地の端に、いつか見たようなあの黄色い古い布が見えた。古い古い布だ。異界からわたしのクッキーを取りに来た「あれ」……。マリーンの座っていたクッキー生地はもはやぼろぼろと崩れ、彼女自身の姿もその波の中に消えていった。
 そうかマリーンはこの結末を「あれ」に聞いていたのか。わたしは何となくそう思った。クッキー生地たちと一緒に、世界が崩壊していく音が聞こえた。伏せて地を見る私の前に翼の柄が刻まれた青いチップが落ちてきた。わたしはこれを持ってやり直さなければならない。もう一度上手くやるために。これがあれば今度はきっとうまくいく。何度でもやり直す。
 次はマリーンをうまく止めれるだろうか。世界が壊れていくのを見ながら、わたしは父にクッキーを彼女にも渡すようにきっと言おうと心に決めた。

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