オリバー・ストーン、ピーター・カズニック 外国特派員協会会見@東京 2013年8月12日(講演部分)

https://www.youtube.com/watch?v=FoZsERPRqII
https://www.youtube.com/watch?v=USoFSvYuG2E


司会:
本日はすばらしいゲストのお二人をお迎えできて幸いです。お二人は現在進行形の形で存在する歴史、くりかえしくりかえし現れる歴史について、異なった視点を提供して来られました。

オリバー・ストーン氏はご存知の通り映画監督で、数ある監督の中でも過去25年間にわたり、常に非常に多く発言して来られ、いくつかの文化的な一里塚を作って来られました。一部で賞賛をあび、また一部で批判されるなど、社会に議論を呼び起こしてきました。

監督の最初の作品『サルバドール』は、多くの人はご存じない映画だと思いますが、すばらしい映画でした、また『プラトゥーン』はアメリカの外交政策に対する怒りの告発でした。『ウォール・ストリート』ではレーガノミクス時代のアメリカの時代思潮を表現しました。このような作品を作る監督は他に例を見ません。1994年の作品『ナチュラル・ボーン・キラーズ』は、映画暴力についての議論を呼び起こしました。

監督の長年の盟友、ピーター・カズニック氏は、ワシントンDCにあるアメリカン大学の原子力研究所所長で、歴史学の教授をしておられます。

教授として、学生だけでなく社会人に対して、アメリカの核の歴史、核の文化におけるキーポイントについて、また核兵器使用が正しい事であったかについて教育して来られました。広島長崎における原爆投下とその政治利用についても発言して来られました。

カズニック氏は、アメリカ帝国のルーツ、秘密国家の拡大に関する研究、また、アメリカだけは違うのだという「アメリカ例外主義」についての研究もしてして来られました。

日本では、出版された著書と同名ののオリバー・ストーン監督のドキュメンタリーシリーズ『もうひとつのアメリカ史』のプロモーションを行ないました。これはアメリカの衛星放送「ショータイム」で昨年放映され、日本でも間もなく放映される予定のものです。

では、お二人に10分ずつお話しいただきます。この模様は、日本外国特派員協会のサイトで配信されます。

では、オリバー監督からどうぞ。


オリバー・ストーン:
お招きいただきありがとうございます。まず、どうしてわれわれがこういうことを始めたか、全体的なことについてお話しして、あとでご質問にお答えしたいと思う。

私が生まれたのは1946年、広島と長崎に原爆が落とされた翌年の事だった。青年時代は保守的な人間だった。父は共和党員で、株のブローカーで、かつ第二次大戦中はアイゼンハワーのスタッフだった。

私が生まれたのはニューヨーク市で、私は戦後のニューヨークの目を通して世界を見ていた。いい学校に通わせてもらい、1967年、68年はベトナム戦争に従軍した。その前年1965年には教師として東京に来たことがある。だから、ベトナム従軍時代にも東京の知り合いに連絡をとったりしていた。

当時、アジアではだれもが、共産主義の脅威を心配していた。ベトナムだけでなく、共産主義の波は東京にも向かって来ていた。東京はドミノ倒しの最後のコマだと思われていた。もしベトナムが倒れれば次はタイで…というようなことが次々に起って、そしてフィリピンで、最後は東京に来るから日本を持ちこたえさせなければ、という感じだった。

私は戦争で戦った。今でこそ映画作家としてドキュメンタリーなどを作っているが、帰還した時はベトナムで生き残った一人の兵士だった。呆然として自失状態で、社会からは異星人のように見られ、アメリカに帰ってからも社会復帰するまでに時間がかかった。

しかし、いいタイミングで映画学校に行ったおかげで、映画作りをおぼえ、もだえながらも70年代を生き抜くことができた。その70年代を通して私は成長することができた。というのは、みんなが私にいろいろなこと、たとえば彼らの経験したことや読んだ事をどんどん教えてくれたからだ。

そんな中には、もちろんウォーターゲート事件もあったし、有名な1975年のチャーチ委員会(=情報活動調査特別委員会がCIAの非合法活動を明らかにした件)などもあって、そういったものに深く影響を受けた。アメリカ政府がずっと国民をだまし続けていることを知って、私は怒りがこみあげてきた。

それらはほんの氷山の一角だったが、そういう知識を得た事は私にとっては大きかった。そのときにはわからかったようなどんなに小さなできごとでも、後に隠された秘密をとくカギになったからだ。

ほかに思い出すのは、1977年に議会を通過したFISA(Foreign Intelligence Surveillance Act)法案のことで、あれは外国での諜報活動を制限するはずの法案だった。あれは、汚い手を使って秘密裏に他国に介入するようなCIAの活動を規制するように、システムを正すはずのものだった。

それでも1980年に至るまでは、私には、アメリカがこんなにダメな国だという確信はなかった。

だが、私が紛争の絶えない中央アメリカを訪ねて、そこでニカラグア、グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラスを実際にこの目で見たとき、いろんな場所にアメリカの部隊が入っているという事実、CIAの影響があることなどを見て、これは、ベトナムの焼き直しではないかと思った。ベトナムと同じ事をまたしようとしているじゃないかと。

レーガンは立ち上がってニカラグアで戦争しようとあれこれ計画を練っていたし、共産主義者が(アメリカメキシコ国境の)リオグランデ川を越えるのを止めようとしていた。

それで『サルバドール』を撮ったのが1985、86年だったが、それが私にひとつの新しい境地を開いた。『サルバドール』は、ある事実をを指摘する、それまでとは違った進歩主義的な手法の映画になった。

ヨーロッパから来た映画監督がベトナムを批判したことはあったが、アメリカ人でそうした手法をとる監督はそれまでいなかった。…まあ、少しはいたかと思うが、それでは全然足りなかった。

『サルバドール』は興行的には失敗だった。だが、幸いなことに『プラトゥーン』が大成功を納めた。それ以降私は進歩主義的な映画を撮り続けている。それらの映画は物議を醸したわけだが、それはアメリカが自分をどう見ているか、メディアがアメリカをどう見ているかということのあらわれだった。

2008年、私が61歳のとき、8年間のジョージ・ブッシュ政権が終わった。ブッシュ政権下の気が狂ったとしか思えないような米国の社会状況を見て、私はもう人物を主人公にした映画を撮るのはやめようと思った。そこで私はピーター(カズニック)を訪ねた。

私はピーターを1995年から知っていた。私をアメリカン大学に講義に招いてくれた人がいたのだが、そのときその大学で授業に私の映画を使って教えていたのが彼だった。それで、2008年に私は彼のところに行って、この今起きている出来事について何か作らなければ、たとえばドキュメンタリー映画はどうだろうと提案した。

私は、少なくとも原爆のことについて、アメリカがどうしてそんなものを作ったか、それがアメリカにとってどういう意味を持ったのかについてのドキュメンタリーを作りたかった。

最初は1時間半もののドキュメンタリーを作ろうと思っていたのだが、そのときは、そこから5年もかけて10巻もの大きな作品を作ることになるとは思っていなかった。大きなエネルギーを要する大変な作品だった。2012年に公開し、ショータイムというテレビ局を通してそれを放映した。

最初の3本は第二次大戦のこと、日本に投下された原爆の事で占められている。原爆に関しては、われわれは今、すべてアメリカが間違っていたと思っている。そこにはウソがあり、公式な否定があり、検閲があった。

みなさんは私に同意しないかもしれないが、「アメリカは戦争に勝つために原爆を落とさなければならなかった」という「神話」がずっと支配的だった。沖縄や硫黄島を見ても日本人はしつこく立ち直りも早い連中だから、結果として原爆が何十万人もの米国軍人を救ったのだと信じられている。

しかし、これらはみんなウソだった。わたしたちはドキュメンタリーシリーズとこの本でこのことを深く掘り下げてそのウソを明らかにしている。もしまだ読んでいない方がいれば、ぜひ読んでほしい。

実際は、日本は、あのとき、八方手を尽くして降伏する道を探していたと言っていい。(不可侵条約を結んでいた)ソ連を通じて外交的にコンタクトを取ろうとしていた。だから、8月9日にソ連が侵攻してきたとき、それは、外交的な日本の生命線を断ち切る行為だったから、日本は本当に愕然としたのだった。あれは真にソ連の「侵略」だった。

日本の原爆生存者、被爆者らの証言を聞いたが、彼らは原爆が落ちた当時はそれが原爆だともなんだともまったく知らされなかった。それ以前、その年の春からもう日本は疲弊し、飢えに苦しみ、経済もどんどん破綻して行っていた。

そのとき彼らが聞いたニュースは、ソ連の満州への侵攻だった。東京も焼夷弾攻撃で焼け野原だったし、彼らにとって、原爆はすでにたくさん落ちていた爆弾のひとつに過ぎなかった。

このソ連の日本への侵攻は、大変重要な問題を含んでいる。アメリカの歴史書を見ても、極簡単にまとめて書いてあるだけで、それだけでは何だか意味がわからない。そのときポツダムで何が起っていたか、トルーマンが何を考えていたか、彼がソ連の侵攻について何を知っていたかが分からなければ、ソ連侵攻がどういう意味を持っていたかはわからない。

トルーマンがポツダムに向かったとき、トルーマンはソ連の日本侵攻を望んでいた。ルーズベルトはもちろん賛成だった。それで原爆無しで戦争が終わるだろうと思ったからだ。それはそうだ。実際、ソ連軍は100万いた満州の関東軍をほんの数日で一掃してしまった。関東軍は日本に残された最後の最強の軍隊だったのにだ。ソ連軍がこのまま侵攻すればあっという間に北海道も制圧してしまう勢いだった。

当時の日本の戦時内閣はそのことを一番心配していた。彼らは、だからソ連軍の侵攻に驚愕した。ご存知の通りその数日後に天皇は降伏を決断し、日本に基地を持ちたいというソ連の野望はくじかれ、その代わりに米国が日本に基地を持つことになったわけだ。ソ連は極東における権益を失い、アメリカが日本を完全に支配するに至ったということだ。それが原爆の意味だ。

その後アメリカはどんどん「汚く」なっていき、日本を極東での共産主義の防波堤に利用した。そのことは私がベトナムで従軍していたときには理解できなかったことだ。そして今2013年この日本で、同じ話が繰り返されようとしている。

私は日本のメディアに、記者たちの顔をのぞきこんで「あなたがたは、アメリカ人たちと同じだ。アメリカ人と同じく、自分自身の歴史を知らないようだ」と言ったことがある。その「歴史」は語られて来なかった歴史だ。知られる事のなかった歴史だ。

そのへんがドイツと違う。ドイツ国民は第二次世界大戦を経験しておそらくきちんと再教育を受けている。ドイツ人たちはヒトラーの時代に何が起ったのかしっかり理解している。そういうことは、ここ日本では起らなかった。もちろん、一部のよく教育を受けている人達や自由主義的な人達を除いてだけれども、私は、日本人に全然知識がないことに愕然とした。

しかし、アメリカに帰って自分たちを振り返ってみると、たとえば、私の17歳の娘はロサンゼルスでいい学校に通っているのに、第二次大戦で何が起きたのか本当に知らない。

「神話」では「アメリカが原爆で世界大戦を終らせた」ことになっているが、真実は、第二次大戦で米ソ両側で犠牲になった人たちすべての記憶を一発でごみ箱に放り込んだのがあの汚い原爆なのだ。原爆は世界に誤ったメッセージを送った。恐怖のメッセージだ。終戦は本当は戦争で犠牲になったたくさんの男女の勝利でこそあったのに……。

私はこのことに、戦争の不正義を感じる。それは私を驚かせ、映画作りの原動力となり、66歳の今日まで私を怒らせ続けている。日米両国がいかに間違った歴史を子供たちに教えているかということに対して、私はまだ怒っている。

おっと、私の持ち時間は終わりですね。ではピーターにバトンを渡します。



ピーター・カズニック:
オリバーと私は、歴史の重要性に対する情熱と、懸念を共有している。オーウェルやその他の人々が言っているように、過去を支配する者が現在を支配し、現在を支配する者が未来を支配する。わたしたちは、過去に対する理解こそ今私たちが戦って勝ち取るべきものだと思っている。

だれでもみんな歴史についてそれぞれ違う解釈を持っている。歴史に感心のある人もいるし、そうでもない人もいる。だが、みんなそれぞれ自分の歴史理解に基づいて社会の中で行動している。

不幸な事に、歴史認識はしばしば混乱し、間違った歴史認識が定着してしまうことがある。アメリカでは2011年に「アメリカの通信簿」というものを発表した。それによると、アメリカの高校生の歴史の成績は最低だった。アメリカの高校生の数学や理科の出来が悪いことは知られているが、歴史の成績はそれよりさらに悪かった。

調査によると歴史教科で「出来る」と評価された生徒はわずか12%で、そのうちのさらに2%しか(人種分離政策を違法とし、米国公民権運動の礎となった)ブラウン判決のことを書いた文章がどれかを答える事ができなかった。設問自体がはっきりそれと分かるように書いてなかったということはあったとしてもだ。

このことはふたつの問題点を指摘している。ひとつはアメリカ人の歴史に関する知識の欠如、もうひとつは歴史を知っている学生も、歴史をまちがってとらえていることだ。

わたしたちはドキュメンタリーシリーズを第二次大戦からスタートした。それは戦後の社会を主導する「神話」の基礎をなす部分が第二次大戦そのものの理解に根ざしているからだ。本とドキュメンタリーでは戦前のことにも触れはしたが、我々の関心の中心は第二次大戦だった。

第二次大戦から出てきたのはアメリカに関する三つの原理的な「神話」だった。

第一の「神話」は、「アメリカがヨーロッパ戦線で勝利したという神話」だ。歴史を研究した人には常識だが、現実にヨーロッパで勝利したのはソ連だった。戦争のほとんどの期間を通して、米英軍は両軍合わせてドイツの10個師団と向き合っていたにすぎなかったのに、ソ連軍はドイツの200個師団と向き合っていた。チャーチルもソ連軍のガッツを認めていた。ソ連は大戦で2700万人が死亡している。それに対して米英の死者は30万人にすぎない。

1942年の中ごろルーズベルトは、その年の終わりまでに第二戦線を開いてソ連を援護することをはっきり約束した。ルーズベルトは本当にそうしたいと考え、マーシャルもアイゼンハワーも賛成した。しかしチャーチルがそれを拒否した。それで、結局アメリカはイギリスに協力して大英帝国の北アフリカと地中海沿岸の権益拡大に走ったのだった。その間、ソ連軍兵士はどんどん死んでいった。

本当に戦争に勝ったのはソ連なのだ。以上が第一の「神話」だ。

第二の「神話」は、さっきオリバーが言った「原爆の神話」だ。アメリカの生徒たちは原爆投下は戦争を終わらせるため、日本に侵攻する50万人の米軍の生命を守るために必要な、英雄的で正しい行為だったと習っている。そこにひとつの真実もないことはあきらかだ。しかし、アメリカ人はほとんどそれがウソだということを知らない。

原爆投下直後、アメリカ人の85%が原爆投下は正しい事だったと答えている。そして、日本が降伏せずにもっとねばってくれれば、もっとたくさんの原爆を日本に落とす事ができたのにと答えた人が23%もいた。日本に対するそれほどの憎悪がそこにはあった。

真実は隠され、「公式見解」が真実に取って代わった。しかし現実は、原爆投下前、すでにアメリカ軍は100以上の日本の都市を焼夷弾で攻撃していた。そのときの日本の指導者たちが米軍は日本全土を焼け野原にしてしまうだろうと考えていた証拠もある。

たとえば富山市は、その99.5%が焼夷弾で焼き尽くされた。その悲惨さは、当時戦争担当長官だったヘンリー・スティンプソンがトルーマン大統領に「米国が焼夷弾を使ってヒトラー以上に残虐なことをしたと言われるのはまずい」と進言したくらいだ。原爆を使う必要はなかったのだ。それを変えたのは、ソ連軍の満州侵攻だった。

オリバーも言ったように、ソ連軍の侵攻が日本の外交戦略を破綻させ、軍事戦略を破綻させた。日本はそれで万策尽きてしまった。そして戦争は終った。それが真実だ。しかし、米国は「神話」を流布してその真実を隠した。

ひとつ想像してみよう。もし、ドイツ側が原爆を落としていたら現在のわれわれの核兵器に対する見方はどうだっただろうか。もし、アメリカではなくドイツが最初の原爆を落としていたら、世界はナチが落とした原爆の、都市を消し去ってしまうほどの非道な残忍さに恐れおののいただろう。

しかし、現実に原爆を落としたのはアメリカで、戦勝国となったアメリカは、建国以来の基本政策である「アメリカ例外主義」という原理的神話をかくれみのにした。

「アメリカ例外主義」は、(清教徒で後に最初のマサチューセッツ知事になる)ジョナサン・ウインスロップスがアーベラ号の船上で作ったものだが、1630年に彼は、アメリカは「丘の上の町」のようにみんなが見上げる模範として世界を主導するのだと宣言した。

「アメリカが世界に善を施すのだ」という考えはは第二次大戦後により顕著になった。
「アメリカ例外主義」とは、他の国はみんな自国の利益追及に走る欲張りで独善的で領土拡張に熱心な存在だが、アメリカだけは違うという考え方だ。アメリカは慈善国家で利他的で親切で自由と民主主義を世界に広めたいとのみ考えている国家であると。……もう明らかにお分かりだと思うが、何と言う(ウソっぽい)「神話」であることか。

アメリカの冷戦政策、封じ込め政策…今まさにそれを中国に対してやっているわけだが、それを作ったジョージ・キャノンは1948年に「世界の6.3%の人口を占める米国が、今世界の富の50%を支配している。将来的な目標は、この不均衡を維持する方向で作られるべきである」と言っている。

つまりこういうことだ。「自由と人権」のようなセンチメンタルな言葉も、「冨の不均衡」の中でアメリカが影響力を維持するために使われてきたわけだ。実際アメリカはどんどんそういう方向に行っている。

さて、第三の「神話」は、冷戦を形作った神話だ。米国では「好戦的なソ連にアメリカが対抗する形で冷戦状態になった」と教えてきた。ソ連は(凍らない)港が欲しいからヨーロッパに領土を拡張したがっているのだと。『もうひとつのアメリカ史』でわれわれは、それがウソだったことを示した。

フランクリン・ルーズベルト大統領は第二次大戦後の世界について、あるビジョンを持っていた。トルーマンが大統領になる前に副大統領だったヘンリー・ウォレスが持っていた戦後世界のビジョンは最高のものだった。それは、帝国主義と植民地主義を終らせ、搾取を終らせ、米ソが協力して、強調と友好の世界を築こうという、それまでと全然違ったメッセージを世界に発信しようというものだった。

そこへ、トルーマンが大統領として入ってきた。トルーマンはそれ以前の1941年にこんなことを言っていた。「ドイツが勝てばソ連を、ソ連が勝てばドイツを抹殺できる。できるだけたくさん殺し合わせればいいじゃないか」。

トルーマンはそのままの考え方で大統領になった。彼は(1945年)4月12日に大統領に就任した。そして、その2週間後の4月23日にソ連外相モロトフと(ホワイトハウスで)会談するまでには、米国の方針はこれまでとは180°転換していた。

ソ連はその時点からアメリカの「敵」と見られることになった。ソ連は協定を勝手に破った悪者ということになった。ソ連のしたことの正しい認識はなされなかった。

その後米ソの信頼関係は失われ、そして原爆投下がそこに恐怖のくさびをうちこんだ。ソ連は、(満州侵攻前に)日本から降伏条件の打診をうけていたから、ほかのだれよりも日本がどんなにひどい状態にあったか知っていた。そこへ、広島長崎への原爆投下だ。ソ連はそれがどういう意味を持つか即座に理解した。原爆はソ連に向けて落とされたのだと。日本はすでに負けていたのだから、原爆の本当の投下目標はソ連だと。

そう理解したソ連は正しかった。マンハッタン計画の主査だったレズリー・グローヴスは「私がこのプロジェクトを引き継ぐときまでに、私にはプロジェクトの本当の目的がロシアであることははっきり分かっていた」と言っている。

私たちはそこに焦点をあてた。そこに、ある「パターン」が存在する事を見せたかった。このパターンはその時々の社会情勢や目的に応じて見え隠れしながらくりかえし現れる。

1953年3月5日にスターリンが死ぬと、ソ連の指導者は冷戦を終わらせようと和解の手を差し伸べてきた。そのとき米国はその申し出を突っぱね、そして核兵器を増強して、世界中に基地を作った。

1962年に別の機会があった。キューバ危機からケネディーは一つの事を学んでいた。そこでケネディーはフルシチョフと手を取り合って世界を変えようとした。両者とも冷戦の終結を望んでいた。もうキューバミサイル危機のような衝突が二度とおきないように世界から紛争を無くそうということで協力し合おうとしていた。

ケネディーが暗殺されたのはそんなときだった。オリバー・ストーン監督はその話を偉大な映画作品に作り上げたが、それはわれわれに考えるべき多くの課題を突き付けた。

1946年にウォレス案が葬られ、1962年にケネディーが殺され、そのあと、何度も、カーターの選挙の時も、冷戦を終わらせる機会があったができなかった。

私は、1991年にヨーロッパに軍隊を送り込まず冷戦を終わらせたゴルバチョフの行動を讃えたい。それにひきかえアメリカはパナマに侵攻し、クゥエートに侵攻し、帝国を拡大し、ソ連経済を弱体化した。

冷戦終結後、ロシアにはアメリカの(経済)助言者が入って行ったのだが、数年もしないうちに、ロシアの生活水準は90%も低下した。アメリカがロシアに施した「ショック療法」のせいだった。

オバマの選挙のときに、私はもう一度期待した。しかし、ご覧のようなありさまで、もう本当にがっかりした。あとで質問の時間にもう一度この話をしたいが、オバマのアジア回帰もまた同じ根っこを持つ誤った政策だ。

ともあれ、わたしたちが見せたかったのはこの「パターン」だ。同じパターンが1980年代を通じて、また第二次大戦から戦後、そして現在にいたるまでのあいだくりかえし現れる。

広い目で眺めると、オバマがどうして間違った方向に行ってしまったかということも結局同じパターンに沿っていることがわかる。ブッシュ政権が沿っていたのとまったく同じパターンだ。ブッシュ政権のホワイトハウス報道官だった(ローレンス・)アリ・フレイシャーが最近語ったのだが、これは「第4期ブッシュ政権」であると。

今、私たちが見る限り、オバマは(アメリカ)帝国に歯向かおうなどとはしていない。むしろオバマは、帝国をより効率的に経営している。オバマは、ブッシュとチェイニーが持ち込んだ政策を自分の政策に組み込み、組織化したのだ。それは許しがたい行為だと私たちは思っている。

オバマを下から動かしている(邪悪な)ものは、オバマに人間の顔を与え、ことあるごとに知的な説明をさせ、組織化した。ある意味それは、ブッシュのクレイジーでカウボーイ的な政策よりもさらに危険なものだ。

今日はお集まりいただきありがとうございました。これからみなさんの質問に答えたいと思う。



以上、講演部分全訳

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