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6th Apr 2013 from TwitLonger

アントニオ・ネグリ 基調講演『マルチチュードと権力:3.11以降の世界』(2013年4月6日)ザックリ文字起こし

3.11後に共同通信のインタビューで「地震、津波、原発事故が引き起こした悲劇は、日本だけでなく文明全体を重要な問いの前に立たせたのでは?」と問われた。これは我々の文明が深い反省と自己批判すべきでは?という問いであり、自然と共存する新たな方法が必要ではという認識を迫るもの。

10年以上前からグローバリゼーションの理論家達は「資本主義の発達は様々な変革を経て、我々をアメリカ的な幸福へと導いた」と楽観的な見解を発信してきた。しかし我々はこの予言に反し、2001年の911、イラク戦争、2008年の金融危機を経て、2011年の3.11を迎えてしまった。これらの出来事は我々を「文明の完成」どころか「文明の限界」の前に立たせた。

数週間前、日本の建築家伊東豊雄は、プリツカー建築賞を受賞した。その時期にこの講演原稿を書き始めた。昨年、伊東は「ここに建築は可能か?」をテーマに、「みんなの家(HOME FOR ALL)」を展示し、ヴェネツア・ビエンナーレ国際建築展の金獅子賞を受賞した。津波で押し流された仙台の被災者達と対話を重ね、共同住居のプロジェクトを立ち上げた。震災後回収可能な資材を使い、共同生活を再開できるような住まいの構想モデルを、ヴェネツィアに作り上げた。木のピロティーの上に住居が建てられ、住まいの内部と外部の繋がりを維持する伝統的な日本の住居コンセプトが活かされている。この「みんなの家」プロジェクトは、伝統的な材料の再利用を通して、「共通の習慣と使用法」と「コモン=共同性」を住居モデルの中で結びつけようとするもの。このプロジェクトは「我々の文明を再建しうるコモン・グラウンドは如何なるものでありうるか」というビエンナーレの問いに答えるものだった。この作品には、破局の恐怖に立ち向かうだけの希望の息吹が通っていた。市民達が共同で新しい生活を立ち上げようとする希望の息吹が。

どんな問題が我々の前に立ち上がっているのか?21世紀の初めから、常により切迫した状態で提起されてきた問題を前に、どうやって「共同の生活=コモン・ライフ」の形を建設していくのか?どうやって「共同の生活=コモン・ライフ」のコンシステンシー(=性質)を保証するのか。どうやって「共同の生活=コモン・ライフ」を貧困と恐怖から守るのか。どうやって「共同=コモン」の構築に万人を組織するのか。

実際問いかけは具体的な形で現れた。2001年のテロとファナティズム(=狂信主義)は、アフガン、イラクなど多くの戦争を引き起こした。そして2008年には金融危機が生活の安寧を覆し、2011年には遂に原子力国家に対する自然の復讐が過酷な形で日本を襲った。ここに我々の文明への根源的な問いかけがあるはず。誰かこの状況を予想していたか?グローバリゼーションが文化間協力と地球を支える安定した技術的構造の新しい世紀を生むというバラ色の幻想に浸り切ってきた我々が、どうやって身を守ることが出来るだろうか?

そして次のような疑問が我々を捉える。「こうした状況からポジティブなやり方で脱出する方法をどう創造するか?」この問いかけを聞くのは我々のとって辛いものだ。起こった出来事のドラマティックな性格の前で、「カテコン」(ギリシア語で「世界の終わりを遅らせるネガティブな力」)を主張するだけでは充分ではない。「カテコン」とは我々を待ち受ける災厄にブレーキをかける制度や実践の総体であり、デクライン(=衰退)の波を食い止め、そこを超えれば一切が失われてしまう「臨界」の前に、我々を引き止めることである。しかし我々は、もう聖パウロの神学にも「カテコン」という概念に注目したカール・シュミットの神学の中にも生きていない。むしろ、より真剣に、より大きな勇気を持って取り組むべき課題は、戦争と経済エゴイズムと自然の無分別な搾取を超えた新しい世界を創造することであるはずだ。

こうした問題を前にして、我々が創造できる再生の可能性、つまり様々な生の形が、新しく脆弱な生の形が姿を現している。しかしそうした新しい生の形は、素描されるや否や、きわめて激しく、時には乗り越えがたい抵抗に直面する。グローバリゼーションの進行とともに、我々は「マルチチュード」と呼ばれる新しい「生産的主体化」の形の誕生に立ち会っている。「マルチチュード」について、我々は個々の労働者の「生産的特異性=シンギュラリティ」を主張し、政治制度の共同的次元を構築することによって、「マルチチュード」こそ「持てる者の個人主義」に対立しうると主張してきた。「マルチチュード」とは、下からのラジカルなデモクラシーを構築できる「特異性=シンギュラリティ」の集合体である。ネットワークによる共同作業、したがって潜在的に共同的な作業をベースにして豊かな社会の可能性を生み出す「特異性=シンギュラリティ」の集合体たる「マルチチュード」には、いささかのユートピア性もない(夢物語ってわけではない?)。

「マルチチュード」とは、産業的近代の危機の後に生まれる生産様式であり、産業的近代はこの新しいモデル「マルチチュード」を先取りしていた。しかも「マルチチュード」の観念は、単に「構成的=コンシチュアント」であることは出来ず、脱・構成的でなければならない。強い観念であるためには「マルチチュード」は敵を知らなければならない。

だがその敵はどこにいるのか?「マルチチュード」批判する人々は「マルチチュードの中に敵がいる」という。「マルチチュード」は、群衆として現れ「群衆を突き動かす恐怖」や「群衆が他者のうちに引き起こす恐怖」を内包している、と。また別な批判者は(この批判は拒否するが)共同的、コミュニケーション的、知識的、認知的労働という新しい生のスタイルに依拠するにも関わらず、「マルチチュード」は、善玉「マルチチュード」と悪玉「マルチチュード」に分裂するはずだという。「マルチチュード」は、現実には和解しがたい両義性を抱えているのだ、と。社会連帯が持つ攻撃性が勝つか、逆に攻撃性に対する特徴が勝つか、絶えざる逆転がありループするはずだと批判者達は言う。まさにこの領域において「マルチチュード」の特別な限定を定式化するべきであり、真のデモクラシーを打ち立てる「マルチチュード」が持っているポテンシャルを再定義するべきであり、先ほど言及した「カテコン」の展望に立ち戻ることになる。

実際にはこれらの反論は根本的だとは思ってない。確かに理に叶ってるように見えるが、政治形態の両義性に関する、ありふれた観念を明るみに出しているに過ぎない。政治形態の両義性は近年ますます明らかに、ますます複雑化しているが、個々の「特異性=シンギュラリティ」の生が、「孤独=ソリチュード」を抜け出し、「政治=ポリス」の空間を形作っている今、両義性は克服できるはずだ。反論は確かに強力だが、「マルチチュード」というコンセプト、また現実における「マルチチュード」の力を削ぐことは出来ない。以下でそのことを論証し、その後で「マルチチュード」の真の困難、すなわち3.11に話を進めていく。

まず「マルチチュード」に対する第一の反論「マルチチュードはコントロール不能の狂気の群衆を生み出す」に対する反論。このような反論は、前世紀において国家の理論と統治の実践が発展した過程を考えれば充分退けることが出来る。全盛期、近代性からポスト近代性の移行が果たされ、ガバメント(上からの圧力で統治)からガバナンス(集団が自ら統治)への前進的な移行が既に起こっている。すなわち「公」と「私」を区別し、国家を「個人の私的幸福の保証という意味での、公共の安全の唯一排他的な担い手」とする考え方。この考え方はネオ・リベラリズムにより極端な形まで押し進められ、称揚された考え方だが、この近代国家の「公」と「私」の区別は、ゆっくりと消滅した時に、近代性からポスト近代性の移行が起きた。

大きな経済危機が「社会生活の法則を決めるのは市場ではない」ということを白日の下に晒した。経済の需要と供給の間に新しい均衡を作り出し、階級対立をよりバランスのとれた物にする新しい社会政策を要求するのは労働者階級の戦いである。労働の「認知的変容」つまり知識労働化と、社会的生産の共同ネットワークの出現が、社会の政治的な組織を変えつつある。まさにこの水準において「マルチチュード」が無分別な群衆として現れることはあり得ない。

我々、個人の孤独は変容を被っている。近代において、個人のエネルギーと企業人のヒロイズムが見られた場所には、今日では社会規範に従属した個人の悲しい情熱しか残っていない。所有者の個人主義は、もう終わった。個人主義は今や存在論的に不可能になっている。なぜなら我々はランゲージとコミュニケーションのただ中に生きており、表現的で拡大的な「特異性=シンギュラリティ」は、影のある非生産的な個人の内面性という古い形に対して絶対的優位性を獲得しているからだ。ゆえに閉ざされた個人ではなく、ネットワーク化された「特異性=シンギュラリティ」の時代が到来している。「統治=ガバメント』の諸科学は、最初は個人は「人口=ポピュレーション」として構成する時、より容易に統治できることを学んだ。次いで個人からなる「人口=ポピュレーション」は、彼らの環主観的(?)な関係に働きかけるとき、初めて指導し誘導できることを学んだ。さらに良いのは、遂に民主主義的なやり方で、諸々の「特異性」の経済的ニーズと政治的意志を、規定部分で捉え、規範的なやり方で表現することだろう。

「マルチチュード」に対する第二の反論は、より洗練されたもの。「マルチチュードが狂気の群衆に変わる可能性は否定するが、個々の特異性の間の関係が、常に断たれたり塞がれたりする可能性があり、コミュニケーションの流れが阻害され、集団的政治事件が引き起こされかねない」というもの。善と悪は、周知の通り、個々の「特異性=シンギュラリティ」の欲望が作り出します。スピノザが言ったように「人が何かを欲し、それを獲得するために戦う時、善と悪が生まれる」或は逆に「人が何かを欲せず、逆に欲するものと戦う時に善と悪が生まれる」。「ここにこそ、マルチチュードの懐の中にこそ結び目がある」と批判者達は言う。

この困難は確かに除きがたい。有益か無益かの定義を支配する攻撃性の問題があるからだ。しかし私には支配者達は大事な点を忘れているように思う。「マルチチュード」は「コモン」という、もうひとつのコンセプトと分ちがたく結びついている。「コモン」とは、まず何より我々がその内部で生きており、その産物であるところの生産的全体の意識下にある。「コモン」とは、我々はその中に投げ込まれており、それによって我々は生産的全体の意識下にある。「コモン」とは、無数の「特異性=シンギュラリティ」の交差が、主観性の生産の集団的プロセスの中に書き込まれたもの。もちろん特異性の間の出会い、コモンを形成すべき特異性の出会いが実現する織物は生まれないかもしれない。得意な情熱の間の架け橋を造ることは失敗に終わるかもしれないし、共同の生は作り物のアイデンティティやイデオロギー的な「フェティッシュ=物神」の形で、時間と空間の中に断片化され、分散されるかもしれない。しかしこの「コモン」の流れは止まらない。確かに始めは、激しく荒々しい流れとなって、しかし平野に出れば、水は広がり流れは和らいで「コモン」の相貌を獲得するに至るだろう。そこにたれば、連帯性が支配的になり、通底性が生まれます。こうした現象と認める上で、ペシミストとオプティミストに別れる必要はない。むしろ「コモン」の構築は、まず二者択一の代替案から始まる。そして、それが存在論的に堅固なものになり、再び葛藤と再生のプロセスに身を開く。そのプロセスを観察した方が良い。そこには様々な時間性を区別すべき一つの運動がある。

「マルチチュード」に対する第三の反論について。この反論は「生政治=バイオ・ポリティックス」を根拠にしている。特異性は思考と行動のみで成り立っているのではなく身体と生命でもあるので、主体性は肉の中に物質的な形で作り出される。「コモン」の中に「マルチチュード」を構築するとは、政治概念や統治機構を定義するにとどまらない。それはまた、教育し、労働を組織し、人を愛し、富を配分することでもある。限界や分派が出現するのは、その時であり場合によっては癒着や重なり合いも作用する。つまり唯物論が突如として、歴史の存在論と出会うことになる。

「マルチチュード」は、いかにして自らを構成している主体性の自立性を損なうことなく自己を組織化できるのか?いかにして特異性の肉体を「マルチチュード」の身体の中に構築できるのか。このような問題に取り組むに先立って我々の敵はどうなったのか。現在どのような形で現れているかについて考えてみる。その際、3.11を21世紀が始まって以来経験した危機の最高点と考えたい。つまり、あの原発事故はあらゆる不均衡の全体、政治的主権の危機、そして勝ち誇るネオ・リべラリズムによる経済的支配の危機、それら全てのパラダイム的要約なのだと考える。

そこで、原子力国家の本性とは何だろうか。私が原子力国家と呼ぶのは、エネルギー政策だけでなく、????(聞き取れず)が前提となる巨大で、階層を成す金銭的均衡の上に据えている、そのような国家のことを言っている。さて、このような原子力国家の本性は幻想である。主権的例外(=エクセプション)を、物理的博物的次元で押し付けることが可能であるという幻想、国家という領域の政治的自立性をこの抑制不可能な技術の形態の内部に再編成できるという幻想、そしてこのような権力の形態を通して資本主義の優位を確保できるという幻想。ここで我々は近代の主権が、ポストモダンの「生権力」に決定的に変化するのを目の当たりにしている。権力は今や主体の身体に刻印するにあたって、労働の産業的搾取の時のように、仕事のキツさや個人の能力をもとに分類するのではなく、二者択一の選択を迫る形で刻印しようとしている。「服従して生きるのか、そもそも生きないのか」「危険か死か」。原子力国家では戦時の死のリスクが生の存在論の中に直に持ち込まれる。したがって原子力発電が絶えず執拗に提案されるのと並行して、グローバルな次元で主権国家の権力の危機が意識されているのは偶然ではない。中東で仕掛けた戦争からわずかに抜け出しつつある米国でそうであり、今まさに西太平洋によるバランス・オブ・パワーを回復しようとしている日本でもそうであり、さらにいうなら米国の金融危機や日本の長期にわたるマイナス成長など、低成長下にある経済的権力が不安に怯えながらも常に自らを新たに主張しようとしている。そしてこの権力は自律性を大幅に失っているにも関わらず、まだ自律性を維持しているとヒステリックに主張する。だからこそ、この権力は、「マルチチュード」に対して下からのデモクラシーを作り出している特異性の全体に対して、政治的再構築の中心的位置を譲るのを絶対に拒んでいる。こうして危機は延々と続く。つまり原子力国家の社会では、明らかに「マルチチュード」は、そのパワーを充分そのパワーを発揮できない。

それでは原子力国家でない社会ならば、「マルチチュード」はそのパワーを発揮できるのか。ドイツやイタリアでは両国のデモクラシーの重要な要素となった国民投票によって、原発の新設を阻止することが出来た。しかし「原理力リヴァイアサン」に勝利したからと言って、民主主義的な「マルチチュード」の権力確立への扉が全て開かれたというわけではない。非常に多くの問題が、そこで提起されている。特に西欧デモクラシーが経験しつつある産みの苦しみについての根本的な問題、それらの問題が強めつつある「マルチチュード」の存在論にとって根本的な問題など。それらの問題は四つの人間像により具体的に表現される。というのも新たな「生政治」的統治性は、より協力的で、より「マルチチュード」的未来に近付いている特異性を、この四つの人間像を起点として管理運営しようとしているからだ。四つの人間像とは、債務を抱える人間、メディアに媒介される人間、安心を保証された人間、そして代表される人間。最近マイケル・ハートとの共著の論文で分析したこれらの人間像は、四つの角度から現在進行中の社会的危機のパラダイムを表現している。

まず「負債を抱える人間」は、賃金が個々の人間の搾取の対価で無くなった後に金融が社会を支配するようになったことの産物。「メディアに媒介される人間」は、メディア権力による阻害に基づく。メディア権力が主体性に対して、その頭脳と知識と実践と社会関係と協力により価値を作り出させた後、倫理の歪曲と欺瞞の世界秩序に服従せざるを得なくする時に現れる阻害。「安心を保証された人間」は、作り出され再生産される治安の悪さに怯える人々を体現する。皆が恐怖の中で生活し「人間は互いに敵である」という妄想を振り回す国家に、より多くの統治と保護を求めるように仕向けるため、治安の悪さが作られている。治安対策の名の下に人間達をさらに服従させるために利用する恒常的な治安の悪さという脅しと妄想はまったく馬鹿げたもの。というのも、今や生の世界における生産が人間同士の結びつきのパワーに依存するようになり、つまり共通の活動に依存するようになっているから。「代表される人間」は制度構築の「偽りの規範」に基づく。この「偽りの規範」の中で代表制の概念は、資本主義権力に奉仕する官僚的且つ象徴的な機能にのみ依存している。この「代表される人間」像こそが、権力の中枢と「生資本主義」の骨格を貫く矛盾の総体を最も良く総括している。

債務と恐怖は、我々一人一人の生の内部、特異性の肉体の内部に持ち込まれた災いを示す二重の顔だが、この2つが真理に対するあらゆる関係と規律の遵守に対するあらゆる理由を奪い去っている。「規律の遵守」は、もはや1つの知ではなく愉快な感情でもなく絶望を伴う悲しい情熱になってしまった。したがって我々はリヴァイアサン国家に対抗する場合も含めて、マルチチュードのパワーを獲得するためには、真のデモクラシー、「コモン」のデモクラシーを必要としている。

この「コモン」の感情は、今やほとんど自然法の新たな表現であるかのように一般化されているが、我々は現在経験しつつある大きな危機の様々な要素の背後にそれをいつも感じている。3.11のような破滅的な出来事の背後には、さらにそれを強く感じている。その影響があまりに広範囲に渡るため、この出来事はまるで「神の箒のひと払い」のようだ。つまりそれが引き起こした悲劇により、歴史の長い期間と古くなった概念が消し去られ、我々は途方にくれている。深刻な不確実性と方向感覚の喪失の中にいる。しかし同時に、この深刻な不確実性は逆説的な形で非常に大きな期待の時でもある。もちろんこの期待は様々な疑いを孕むものだ。というのも、この期待は我々を生と文化の経験の極限に横たわる謎の前に立たせるからだ。「これから一体何が起こるのか」という謎の前に。

このような経験の中でこそコモンの概念は現在の危機から倫理的かつ政治的な出口を見出すために我々が非常に慎重に議論し、何かを企てるのを助けてくれる。ここでコモンの概念に実践的定義を与えることが出来る。コモンは、我々の自由を奪っている法律や構造(その第一が資本の必要とするテクノロジー的構造)変更するために、我々が共に遂行している戦い、そういうものとして理解できる。

そのことを理解するためには、財産という法的形態をとって存在するテクノロジーを考えれば良い。大企業の私有財産の場合もあれば、公的組織や国が直接所有する財産もある。3.11のような危機の中で我々は民間企業にしても政府系企業にしてもその無責任な活動のありように、気力を失ってしまう。そしてコモンの構築への市民の直接参加も、それだけではこれらの問題解決を助けられないだろう。

ここで憲法にかかる重大な問題が出てくる。近代以降の中の憲法の中には、コモンが存在していない。有ったのは私的なものと、それを保護する公的なものだけ。これからは、次のように考えなければならない。コモンの憲法においては、財産は様々な制度を貫通し、あるいは形成するものにとどまらず、むしろ生産と富の利用及び管理に関する共通の最終目的に従属すべき何かである、と。そのように定義しなければならない。そのときコモンの問題は、より一層複雑なものとなる。なぜなら一部の人は「科学と専門的能力はコモンの実践を超越する可能性がある」と主張しているから。私はもちろんそうは考えていない。逆に最近のマルチチュードによる直接デモクラシーの経験、マイケル・ハートと私が「宣言」と題した諸著において描写した、直接デモクラシーの経験は「知をふたたび自らの手を取り戻したい」という要求を、節度と英知を持って定式したものと考えている。マルチチュードが生産において、知の行使を実践するやり方の帰結として定式化したと考えている。

最後にもう一歩前に進んでみる。今日の状況において、ある可能性が次第に明白な形で開かれており、それによって先ほど指摘した閉塞状態を克服できそうに思われる。この可能性が示しているのは、不変資本(金融、機械、テクノロジー、権威への服従などを通して資本家及び国家が持つ資金命令の能力)と可変資本(社会的労働力)の間の区分が、現在の危機状況の中で、どんどん弱まる傾向にあること。しかももっぱら可変資本に有利な形でその区別が弱まっている。可変資本は認知的労働力として、今まで自らに行使されてきた指揮命令に対して、より自立的になり独立しつつある。というのも、「認知的生産」は言語と交流と知識に基づいているため、生産力の大きな部分が、今や労働者の手と頭脳のなかにある。固定資本とは、資本関係における機械の占める部分であり、フェリックス・ガタリが明らかにしたように、それが作業者と生産手段の組み合わせを決定しているわけだが、今日その固定資本は製品を組み立て労働力を服従させる、あの物理的装置ではなくなってきている。むしろ部分的にではあるが、効果的な形で生きた労働の手に取り戻された使用される財、道具、つまり特異性の義肢のような存在に固定資本は好転しうる。ここでテクノロジー的構造の問題が深刻な形で突きつけられているのは明白だ。テクノロジーは労働者の身体の内部で、どこまで再構成されうるのか。現実構築でどこまで労働者の延長となりうるのか。また逆にテクノロジーは、どこまで経営者(多国籍の金融資本主義)の手に握られた資金、命令の手段であり続けるのか。世界権力にいよいよ服従し、労働と富とコモンの新たな尺度を構築する能力失いつつある国家の手に握られた手段であり続けるのか。そのように言い換えても良い。以上、「コモン」の概念によって開かれた問題群を紹介した。

「コモンの通貨」という物があるが、それは労働力の持つ協力にかかる価値を強調し、その価値を労働の新たな社会的分業と比較照合し、労働のコモンの次元を表現する新しい通貨的尺度のこと。この「コモンの通貨」というテーマが、資本の世界を乗り越えるためのプログラム構築を目指す全ての人々の間で議論の中心となっているのは偶然ではない。そのとき我々は、この公演の始めるにあたって紹介した「コモン・グラウンド」の想像力に立ち戻ることが出来る。伊東 豊雄が「みんなの家」プロジェクトにおいて、かくも強い力を込めて表現した「コモン・グラウンド」である。彼の頭に浮かんだこの想像力は、未来のユートピアではなく可能なテクノロジーの絡まり合った結び目に切り込みを入れるカミソリの刃である。なぜならこの想像力は、テクノロジーの絡まりを切り開き、共通の生を発展させうるものと、脅かすものを区別することにより、物理的生産と生の様々な形の構築の目的として、開発を目指すのではなく「コモン」を目指す物であるからだ。ご清聴ありがとう。

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