原発とは結局なんだったのかより
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放射能被害に敏感なことと、原発を批判することとが、感覚的に表裏一体になる事情はよく理解できる。放射能など危険でも何でもないという見方からは「反原発」は論理的に出てこない。

しかし現実に生じてしまった放射能災害をどう評価しどう対処するかは、理論の問題ではなく、生活の問題である。
汚染地域から住民を移住させ、土地も家屋も仕事もまるごと面倒をみた旧ソ連とは事情が違う。

福島から出ろと主張する人が、福島から出た人の面倒をみてくれるかといえばそうではあるまい。
100万人の移住費用をすべて税金や電気料金に転換することに、そういった人達は賛成なのだろうか。

たとえ福島の「汚染地域」から住民が逃れたとしても、被曝の問題はそれで解決するわけではない。

すでに浴びてしまった放射線の問題がある。

事故の放射能で数十万人がガンになるとか、先天異常の子どもが生まれるとかいった物言いは、現に被災した住民の耳には脅迫的響きを持って聞こえる。


あえてどぎつい表現をすれば「呪いをかけられたような」気持ちになる。



あなたの体には時限爆弾が仕掛けられたのだよ、と言われれば誰だって動揺する。それは十分に吟味されなければならないことだ。

私が問題にしたいのは、そうした危険性を口にする人々の

「想像力」がどの方向に向いているかだ


「みえないばくだん」という絵本が出版されている。

原発事故で被曝した子どもが大きくなって結婚して「おててのかたちがかわっているあかちゃん」が生まれる話しだ。
平仮名ばかりの絵本だから、作者は子どもにも読ませるつもりで書いたのだろう。


そして、原発がどんなに危険なものかということを、社会に向かって叫びたいのだろう。

しかし「福島の子ども」がこの本を読んでどういう気持ちになるか、それは作者の想像力の外にあるのではないかと思わざるを得ない。

仮に本当に爆弾が仕掛けられてしまったとして、決して取り除くことのできないその爆弾を抱えた子どもに向かって、作者は何と言っているつもりなのだろう。
「爆弾を仕掛けられた人」というステグマ(烙印)を背負って、差別と闘いながら頑張って生きて行きなさいと激励しているつもりなのだろうか。

思うに結局、この絵本は「外の目」でしか作られていないのだ。

作者の善意は疑いもないが、善意が人を苦しめることだっていくらもあるのである。
福島の子どもや母親に向かって「そんなに心配することはない、大丈夫だ」という学者は、反原発サイドからは御用学者だと指弾される。


そう批判するのが正義だと観念されている。



しかし、そこで生活している住民にとってみれば、専門家のそうした言葉は日常のやりきれないストレスを多少とも減じてくれる。
福島に住んでいるものが、そこに住むという自分の選択が間違っていないことを裏づけてくれる専門家の意見を信用したいと思うのは自然なことだ。
これは確かに情報受容のバイアス(偏り)には違いないが、この被災者心理を知らずに無神経に外から「善意」を押し付ける者(どぎつい見出しで売り上げを伸ばそうとする一部週刊誌は論外)への反発があることを知って欲しいと思う。
放射線との確たる因果関係が実証されてないにもかかわらず、先天異常の写真を講演会場でスクリーンに映し出すようなことをやってのける無神経さは許されるものではない。


放射能災害の被害者である福島県民がそのことを一生隠し続けて生きなければならないような社会状況を作ることが、脱原発を実現するための必要条件であるかのように反原発論者が考えているとすれば、それは明らかに間違っている。



少なくとも被害者の心情からはかけ離れている。
広島や長崎の被曝者の中には、被曝したことを隠しながら生きた人も少なくない。
水俣病も同じようなことがあっただろう。

私たちは、今度の原発災害に遭遇することによって過去最大級の「差別の社会問題」を抱えこむことになったと言っていい。

今度の災害が地域社会に何をもたらしたかをリアルに見れば、この狭い国土で原子力発電を継続するリスクがいかに巨大であるかは一目瞭然である。脱原発が必須の課題であることは十分すぎるほど証明された。


そのことを国民が認識するために、福島の子どもが一人たりとも犠牲になる必要はない。見えない爆弾を隠しながら生きねばならなぬいわれも毛頭ない。

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