rhetorico

Yufuko · @rhetorico

11th Mar 2013 from Twitlonger

「学振SPDに通った話」

私は、引っ越しをする。
今までの自分と別れるために、そして、新しい研究を始めるために。

はなしは、去年の10月中旬にさかのぼる。憂鬱な季節がやってきた。5月に出した日本学術振興会の特別研究員の審査結果が開示されたのだ。

それまで落ちること3回。D2でDC2を取ったときも、なんだかしんどかったけれど、PDに関して言えば、D3のときからOD1、OD2と出しては落ちていたので、今回もどうせだめだろう、さてどこに行ったら研究をさせてもらえるのか、と悩める季節だった。

だから、ネットでの結果発表をみたときは、おそろしくびっくりした。博論も書き進まない頃のはなし。「もうだめだ」と全力で自己肯定感が0どころかマイナスに突入していたので、ここで「落ちるときの心の準備」を入念に行ってからクリックしたので、結果が「PD内定、SPD候補」になっていたのは、心臓に悪かった。「受かる心の準備」なんかぜんぜんしていなかったのに、それを超えた結果がやってきたのだから。とりあえずお世話になっている方へ連絡したりTwitterでつぶやいたりして、なんとか心の平静をとりもどそうとしたけれど、すでに頭の中は面接のことで頭がいっぱいになってしまった。

というのも、博士論文提出日(11月末頃)の直後、12月の上旬に、面接に来いという。SPD面接。人生で経験することをひとかけらも想定していなかったものに臨むことになってしまった。

そもそも「落ちる心の準備」というのは、かなり冷静なものだった。
学振PDというのでさえ、業績的にとれるか絶対的なものをもっていなかった。国際誌論文もないし、そもそも査読論文がない。公募も落ちてるし、自分の研究が評価されるかという部分に関してまだ自信がない。まわりのPDホルダーだって自分から見れば優秀すぎる人が多くて、「戦えない」と思っていた。申請者の17%が採用だから、5人に1人弱はとおるはずだけど、3回落ちてるわけだから…などと考えるともはや「まぐれあたり」は無理かなという気分だった。だいたい、学振PDに出さないポスドクもいるわけだし、自分が優秀だと思ってる人が提出してるのかもしれない。そのなかでも17%しか通らないのだ。いろいろな意味でささくれた気分になっていたりして、落ちる心の準備は完璧であった。PDでさえそうなのに、SPDなんて、その中で全部で15人程度。夢のまた夢だと思っていた。

さて、そんなわけで「落ちる」と思っていた書類は、机の奥底に眠らせてあって、面接の日が近づいてもあんまり見たいものではなかった。浮き足立って博論執筆に影響が出てもまずいし、とりあえず「SPDに落ちる心の準備」をはじめていた。どこまでもネガティブな私なのだった…。

面接の前日、ようやく、重い腰を上げることにした。
博論を提出して、面接まで1週間しか猶予がなかったが、提出した直後は、鶏ガラのだしを出し切った骨みたいな気分だった。私に熱を加えようがなにをしようが、もう、なにも出ません、そんなかんじ。準備をしているフリをして、お風呂でびびっている自分と向き合うくらいしかしていなかった。どうもTwitterでも「サハリンに行きたい」とか「能登半島」とか、旅に出る話ばかりしている……。たぶん授業をしたりもしてるので、相当余裕はなかった。

面接の前日に考えたことと言えば、「8分しかない」いやもう「8分でいい」そんなかんじ。たしかにSPDがとれたら「かっこいい」し手話の研究にとっても追い風になるだろう。けれど、もう自分としては「なにが評価されたかもわからない」し、「どうせ落ちるのに時間を取って労力をさいて、期待したらばかをみる」みたいな気分。なんて後ろ向きなの!と思うけれどそんな具合であった。あとは、私を推した言語学分野の審査員を信じればいいやと思った。研究自体に価値があると判断されたのだろうし、それならば、それについていくまでのこと。

スライドをつくるのに、なぜか「プレゼン本」を引っ張り出してきて、読んだりした。昔、はじめて学会発表をしたときの「プレゼン技術」のメモ書きを見たら「メッセージはひとつ」「完結に」「いいたいことは1つ伝わればいいほう」みたいな文言が目に入った。「これだ!」と思った。

夜中に、机の前で「8分使ってなにをわからせたいか、他分野の先生方にも持ち帰ってもらうべき唯一のメッセージとはなにか」ということを考えていた。応募書類を読めばだいたいのことは書いてあるのだが、とてもじゃないが8分ですべては説明できない。

「キーワードを2つ決めて、最初にメッセージをどーん」という作戦にすることにした。私は最初の出だしを「この時代に言語学をやっていて幸せだ」というきざな台詞で始めることにした。頭の中にあったのは「アクサ」という保険会社の「保険をくるりと変える」というコピー。「視点の変換(パラダイムシフト)」をメッセージとして伝えることにしたのだ。

それさえ伝えられれば満足だというメッセージが見つかれば、あとの部分はなんとでもなる。「未来へ」というメッセージを込めて、スライドのデザインはテンプレートではなく、矢印を多用した。色はポップに、文字は大きく、少なく。

8分のプレゼンに20枚ほどのスライドができあがり、少し不安になったが、一応一度練習してみると、スライド1枚1枚の情報量が少ないので紙芝居的に流せば何とかなるとおもえた。

終わったのは明け方で、お風呂に入った。お風呂でもう一度練習したら、インクジェットで印刷したスライドの色が散ってみすぼらしくなって、「どうせ落ちる」というネガティブモードを再発したのはいうまでもない。

面接は午後だったので、少し寝ることにした。

寝て起きて、ぎりぎりの時間に、スーツを着て、お化粧をかなり念入りにして、家を出た。こういう日は、鏡に向かって気合いを入れるために、塗り込むことができる女でよかったとおもうのだ。顔面は寝不足で蒼白だし、濃いめにチークを乗せたら、自然と口がほころんだ。滅多にちゃんと塗らない口紅を塗って、一度ティッシュオフして、もう一度塗る。ヒールの高い靴を履いて、姿勢をよくして、電車に乗った。乗ったら気合いが抜けて気を失って寝ていたけれど。

面接会場に着くと、普通の面接の人(ポスターを持っている)と、SPD面接の人ははっきり違うのであった。なにしろ、ポスターを持っていない(それだけか!)。まあでも、光っている人とかはいなかったので、自分も光ろうとする必要がないことに気づいてほっとした。

面接時間がくりあがったとかで、少し早めに面接になったけれど、完璧なメイクのおかげで、まあなんとか正気を保っている私だ。呼ばれる直前にトイレで入念に口紅を塗り直し(そんなこと意中の相手の前でもしない…)姿勢を前からと横からチェックして、スーツのしわをなおし、気合いを入れたら、別人のようにポジティブになれた。

面接会場のドアの前で待たされているとき、隣に座った人が落ち着かない感じで、「資料を渡すタイミングは」とか係の人に質問しているので、なんだか自分の緊張をその人に預けた気持ちになった。

化粧濃いめの私は、呼ばれたとき、「足をそろえて座った状態から、体重を自然に移動して立つ」という礼儀作法本通りの立ち方ができたかんじだったことを覚えている。化粧の力はすごいと感心したくらい余裕があった。

そこから先は、覚えたとおりの台詞を覚えたとおりのテンポでたぶんプレゼンができた。珍しく、一言一句覚えていた。すごい集中力だ。台詞は書いたのではなく、スライドをつくりながら作ったもので、2度ほど練習しただけで覚えた。

面接官は15人(たぶん、係の人が3人くらいいたので実質10~12人)。人文領域の各分野の代表の先生と行ったところか。みなさん顔が賢そうすぎる。プレゼンの時は、手話で学んだ「アイコンタクト」を駆使して、ひとりひとりをじっと見ながらしゃべったとおもう。ただ、結構下を向いて書類を見ている人も多かったので、目が合うかというとなかなかむずかしかった。「審査委員長」の札を掲げている人は私を見ながらうなずいてくれたので、それが大変ありがたかった。

質疑は、12分。どうも見覚えのある言語学の先生と、審査委員長の先生だけに質問された。どちらも本質を突く質問だったけれど、ひとつの質問は直接関係なかったうえに、説明が煩雑になってそれだけで4分はかかるとふんで、正確ではない違うほうの説明をしてしまった。それでだめならままよ。と自分の議論になんとか近づける努力をした。指導教官のY先生が「二枚舌を使え」といったことを思い出す。わかっている人にもわかっているなと思わせつつ、わかっていない人にもわかりやすく。

質疑もなんとか終わって、お辞儀をして「ありがとうございました」とうわずった声で言って、部屋を出た。感触は、悪くない。たぶん、その瞬間に感じたのは「悪くない」だった。なんとなくポジティブな気持ちで部屋をあとにした。なんとなく楽しかった。しかし心臓に悪すぎたとおもったので、散歩にでかけた。東京の真ん中も、わるくない。コンクリートジャングルに吹き荒れる12月の風は、冷たかったけれど、私の心は割と元気であった。

研究をするぞ

という気持ちになった。もちろん「落ちる準備」だけしはじめていたけれど。「どうせ落ちてPDになるんだから、最初からPDでよかったじゃない」と思った。全国の大学院進学者の上位10番に入るって言う意味だのような…と思って「それはないない」と思うわけであった。(もちろんもっと優秀でポスドクを経ないで大学のスタッフになってる人もいるから一概にそうだとは全然言えないんだけど)

なにより、自分と分野の違う一流の先生方にむかってプレゼンをする機会というのは、そうそうもらえるものではない。それができただけで私にとっては十二分に光栄な機会だったじゃないか、と。

たどり着いた神楽坂でぼーっとして、帰路についた。

そこから、博論のリバイズをしたり、公聴会の準備をしたり、お正月を楽しんだりして、努めて面接のことを忘れようと思った。例年12月末頃に発表のはずが、政権交代のせいで発表が遅れたりしていたので、なおさらだ。なんとなく感触がよかったと思ったアレはたぶん、自分が研究者として嬉しい経験をしたからで…と。

その日は、1月も末であった。なんとなくいろいろ心がざわざわして、本をたくさん読んでいた。SPDに落ちる心の準備はもう何年も前から万端よ!と思っていた。

そのくせ、外出先で「結果を開示しました」というメールを受け取ったとき、帰りたいような帰りたくないような焦りを感じて、家に帰って、「期待してませんっ」といいながらPCをつけて、焦ってIDを書いた紙をさがして、入力した。

通ってた。

どうしたらいいかわからなくなった。人生がひっくりかえったような気分とでもいうべきだろうか。
どうしようもない気分になったので、とりあえず壁に頭をぶつけてみたことをおぼえている。なにをやってるんだか。そしてメールをしたりTwitterに書き込んだり、そんなことをして気分を落ち着けようと試みたけれど結局おちつかなくて、夕飯を作ろうと思って買ってきた食材を冷蔵庫に詰めたけれど、料理はとてもできる気がしなくて、机の前で呆然としていた。これではいかんとおもって、親に電話してみた。親にそのすごさを説明するのもなんだか変な気分で、自分でも説明すればするほどテンションがおかしくなっていき、結局落ち着くどころかなにも食べられなくなってしまった。

なんだかな。
受かる心の準備が0だったので不意打ちでどうしたらいいかわからなかった。そこから、今まで変な不調で、実は博士論文の公聴会のストレスもそうだったのだが、これのせいなんじゃないかという説もあるくらいの不調であった。この日から、ご飯がうまく喉を通らず、朝ご飯はしっかりたべているのだが(惰性だ)、あとのご飯がいつもと全く違う少量になってしまい、つとめて外で食べたりしていた。

そのおかげでかなり痩せた。ただしゆるボディ(おい)。←しまってないという意味

そのあと、元SPDの方と会ってすこし解してもらったけれど、なんだかんだで、自分がびびっているのにはきづいていたけど、真正面からそれにぶつかる余裕がないのだった。

気負いとか、そういったもの。それとむきあわなきゃいけなかったんだ、と昨日、気づいた。
「落ちる心の準備」ではなくて「受かったあとの心の準備」が必要だった。なにをどうするかじゃなくて。

引っ越しの荷物を詰める作業を、機械的にやっていたらすこし、爽快な気分になった。肩胛骨を動かしながら、本を取っては箱に詰めていると、なんだか、心が安まるのだ。散歩にでも行けばよかったのだが、外はあいにくの砂嵐。
そうだ、私は一人、身軽に生きている。これまでため込んだ資料はそのまま持って行く。やりたいことを認めてもらって、お金がもらえて、生活ができるなんて、なんてすばらしいんだろう。

私は小さいながら自分の器できちんとそれを受け止めていかないといけないな、と思ったのだった。すくなくとも、望んでも誰でもが得られる立場ではないのだから、それに責任感を感じながら、でも気負いすぎず。

なんだか今日、その準備が整ったようで、ひとりでもご飯が普通に食べられるようになった。
きのう、話を聞いてくれた人が、懐かしい感じがしたからかもしれない。

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