shinimai

*死に舞 · @shinimai

4th Dec 2012 from Twitlonger

On Authenticity 正統性について【修士論文から】


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これらの音楽演奏の正統性の論争に、見出すことができる二つの誤解を、デイヴィスは的確に指摘している。第一に、多くの論争の混乱は、正統性を唯一の尺度で測りうる性質と誤解していることである。実際に正統性とは、異なった尺度で測られる関係性質であると理解するのが正しいのである。
デイヴィスはクラシックからロック、ジャズ、民俗音楽にまたがる広い視野から、正統性には大きく分けて、三つの非常に異なった尺度があると指摘する。

それらは、あるパフォーマンスがそのトピックである作品を例化するときの正統性、作品とプレイング・スタイルが、彼らが属している文化の演奏伝統と音楽の理念を再現=表象するときの正統性、そして、録音物がシミュレートするライブ・パフォーマンスを再現=表象するときの正統性である。[Davies2001: 201]

最初のものは、主に西洋クラシック音楽において論争される正統性であり、「演奏と作品の間にある正統性」とでも呼べるものである。二番目のものは、非西洋の音楽文化において論争される正統性であり、「音楽と文化の間にある正統性」と呼ぶことができるものだ。三番目のものは、スタジオなどでのレコーディングがその録音物との間に持つ正統性であり、「録音物の正統性」と呼ぶことができるだろう。ここでは、それらの一つ一つを詳しく説明することはしないが、基本的にこのデイヴィスの正統性の尺度の分類は、有用なために今後も言及することにする。 
 デイヴィスが正統性の論争における二つ目の誤解として指摘することは、正統性を本質的に評価的に良いものであると想定することだ。必ずしも「正統性」という概念が、価値を含んでいるわけではないのである。例えば、「正統的な殺人」とは「意図的な殺し」であり、「事故によって人を死に至らせる」ことではない。このような正統性の関係的性質の側面を正しくつかむために、デイヴィスは以下のように規定する。

「X」が、ものごとのタイプや種やクラスを名づける(そして、例えば、固有名ではない)場合、正統なXとは、あるXである。他の言葉で言えば、何かが正統なXであるのは、それがXの例化物であったり、クラスのメンバーであったりするときである。正統性への興味は正確な分類への関心を反映している。この見方からは、あるハンバーガーが正統なマクドナルドのハンバーガーであるのは、それがマクドナルドによって作られており、それらの産物を識別する諸性質を示しているときである。いかなる個物も、異なったタイプを例化していると理解されるだろう――ハンバーガー、栄養のある食べ物、合衆国の帝国主義の道具――そして、その正統性にとって、個物はこれらの様々なカテゴリーに対して考えられる。[Davies2001: 203]

 正統性に関わる論争が価値的なニュアンスを含むことが、このような正統性の中立的理解からも明らかになる。そしてその価値の基準は、正統性の尺度によって様々に異なりうる。正統性に関わる論争が往々にして混乱したものになりがちなのは、これら二つの誤解が複雑に絡まっているからだと思われる。
 よって、以上の二点において「正統性」という概念を正しくつかみとることができたであろう。もう一度確認すると、デイヴィスによれば音楽作品における正統性の尺度は、大きく三つあり、それぞれの文脈において価値として考えられているが、本質的に価値的ではないと考えられる。そして基本的に、正統性はあるカテゴリーとそれに属する個物の間の関係的な性質である。しばしば、カテゴリー自体が曖昧であるとき、正統性は全か無かで評価されるわけではなく、程度を持った尺度にもなる。
 この点で、西洋クラシック音楽における作品の正統性の基準は、大まかにいって形式主義 (Formalism)と文脈主義 (Contextualizm)の間に分布するものと考えられる 。以下、正統性基準に関する主な発想を箇条書き的に挙げてみよう。

・ 純粋音響主義者Pure Sonicists:演奏の正統性の基準は、その作品の正しいピッチと正しいシークエンスを遵守すれば十分である。(例えばKivy 1988a)
・ 音質音響主義者Timbral Sonicists:演奏の正統性の基準は、正しいピッチと正しいシークエンスに加え、作曲家の楽器編成を反映する必要がある。(例えばDodd2007, 201-39)
・ 楽器主義者Instrumentalists:演奏の正統性の基準は、正しいピッチと正しいシークエンスに加え、スコアに特定された楽器の種類を遵守する必要がある。(例えばLevinson1990b)

形式主義はハンスリック的伝統に立ち、音楽作品を純粋な音の構造として同定する。一方、作品の文脈的事柄を重視すればするほど、その作品の同定に関する基準は細かくなる。音質音響主義と楽器主義の違いは、音質音響主義はスコアで指示された楽器ではなく、作曲家の想定した音質を再現する必要があると考えるのに対して、楽器主義においてはたとえシンセサイザーによって他の楽器の音質を完全にシミュレートできたとしても、スコアで指示された楽器を使用する必要があることである。楽器主義に立てば、上述の例であげたチャイコフスキーの序曲『1812年』におけるシンセサイザーの使用は正統な演奏の基準を満たしていないことになる。付け加えると、レヴィンソンは作品の正当性に作曲家の同一性の基準を要求する。つまり、同じ音楽史的環境を共有する、二人の作曲家がまったく同じ音構造を指示するとしても、もし彼らが独立して作るならば、それらは異なった二つの作品である。
 この点でリディア・ゲーアはThe imaginary museum of musical works: an essay in the  philosophy of musicにおいて、音楽作品に関する分析的な議論を批判して、より歴史的文脈理解をすべきだと説得的に主張する(1992)。そして彼女は音楽作品の同一性にレレバントな要素は、社会歴史的側面において変化してきたことを主張する。しかしながら、ゲーアはこの観点からやや極端な帰結に至ることになる。彼女が言うには、現在の「作品」概念が成立した1800年ころより以前には、いかなる音楽作品も存在しなかったという。我々がバッハの作品について話すとき、我々の使用法は、時代錯誤的であり、バッハはそのような作品を意図して作曲を行っていない。そして、彼女は音楽作品の同一性に関して、19世紀の作曲家によって作品として規定されたすべての要素をその正統性の基準として主張する。彼らは、決定的なバージョンにおいて作品を創作しており、作品を演奏よりも重視していた。それ以前の作曲家は、それほどまでに作品を規定していないのである。

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