matsuikoji

松井孝治 · @matsuikoji

18th Nov 2012 from Twitlonger

大切な友人から、最近思うことを、日曜日の夜までにメモにしてくれと頼まれたので、上京する車中でつらつら書いたものを備忘録として(多少削除訂正して)ここに記録しておきます。


○○、○○両大兄

上京中の新幹線の中でつらつら書きますのでとりとめがなく未整理であることをお許しください。

メールに添付して送った鳩山演説案も参照ください。
皆さん、読んでいるようで読んでないので、結構、興味深い表現もあると思います。もちろん各省(大臣)が要望された常套的文言も取り入れていますが。


・「生活者」「納税者」「消費者」の立場
・「市場万能主義」と「福祉至上主義」の対立概念を乗り越える
・持続可能な成長と豊かさの実現
・共助の考えを中心に自立した個人が共生する社会
・透明・公平・公正なルール
・あらゆる人々に安心・安全と機会の均等を保障し、国民一人一人に「居場所と出番」を実現
・現実を踏まえ、行き過ぎず、偏らず、着実に改革を行う「民主中道」
・「現実的平和主義」や「平和と国益の両立」あるいは「開かれた国益」
といったキーワードやキーフレーズは、一部私が多用したものも含まれていますが、その一部を除きこの際逐一触れないでおきましょう。


私個人として、これからの政治を担う方々に大切にしていただきたい政策理念についての意見は下記のとおりです。


1.「美しい」「国家」も大切だけれど、「あったかい」「社会」を作るという視点

社会というのは、個人、家族、友人、隣人、地域、主権国家(中央政府)、国際社会・・と続く多層的存在だと思います。

「自助」「共助」「公助」という言葉がありますが、「個人主義・イエ中心主義」と「国家主義」の両ウィングで、「自助」と狭い意味での「公助」(官助=例えば国土強靭化)中心の両端を軸に、国家と個人を語る政党があるとしたら、

隣人や友人などから構成される「共助」に厚みを持たせた上で、地域が主体となる緩やかな「公助」(≠官助)で支え合うという政党も必要ではないでしょうか。

2.政策制度よりも価値観のシフトを前面に出すこと。

○「コンクリートから人へ」というのは単に公共事業を削って教育や福祉に予算を振り向けるという意味ではありません。「人間のための経済」という意味です。

また、ここで「人間」というのは「個人」とか「エゴ」に奉仕する経済という意味ではもちろんなく、地球上で人間が生まれてきて今日の文明を築き上げてきた歴史を俯瞰して、われわれの存在を尊厳あらしめるための経済でなければならないという意味です。成長が自己目的となった経済ではないのだという意味です。

身体中に新鮮な血流を送るという意味での心臓の機能を大切にしなければならないことは言うまでもなく、また人間の神経系に交感神経系と副交感神経系があって人間が健康に暮らしていけるように、私も成長を肯定し必要だと思いますが、ここではもうひとつの輪っか、副交感系を中心に申し上げたいと思います。

○「競争」から「連帯」へ
○「成長」から「成熟」へ
○ 幸福論と「新しい公共」


「競争」も必要だけど、何のために「競争」するのか。
「成長」のためでしょうか?では何のために「成長」するのか?

成人の身長や体重が増加し続けることが「成長」なのか、知的洞察に優れ、周囲を愉快にさせ、思いやりや愛情深い人間になることが「成長」なのか。そもそも何のための経済なのか。
経済は人の生活を支え、幸福の基盤をなすものでしょう。
ではその幸福とは何なのか。

鳩山第一演説(所信)で引用した、チョーク工場の社長さんに語りかける住職の言葉は

『人間の究極の幸せは四つです
愛されること、ほめられること、役に立つこと、必要とされること。
働くことによって愛以外の三つの幸せが得られるのです』

というものでした。

鳩山演説第二弾(施政方針)では

『「人を支えること、人の役に立つことは、それ自体が歓びとなり、生きがいともなります。こうした人々の力を、私たちは「新しい公共」と呼び、この力を支援することによって、自立と共生を基本とする人間らしい社会を築き、地域の絆を再生するとともに、肥大化した「官」をスリムにすることにつなげていきたいと考えます。』

と語りました。

人の役に立つこと、人に歓ばれることが自らの歓びにもなるのですから、それを「官」の独占物にせず、「民」で共有することが、社会の幸せのためになることではないのか、というのが「新しい公共」の出発点です。
官への負担(納税)だけでなく、官の人たちが感じている、社会の役に立っているという「やりがい」も共有しませんかということですね。

同じことをもう少し統治論的に申し上げれば
「近代国家形成の過程で中央の「官」が吸い上げ、独占してきた「公共」の空間を、地域の人々に「奉還」し、中央と地方の政府のみならず、学校やNPOや各種団体、さらには個人に至るまで多様な主体が連携して担うような社会のありようを作る」
ということであります。少々堅い表現ですみません。


今、人類は、物質文明や資本主義の転換点に立っていると思います。
人類史上最大規模の戦争の世紀を終えてなお、人類は紛争の種を探し続けています。それを現実的な力の均衡で抑制することは当然必要でしょう。

戦争や無際限の欲望の膨張をいかに自制するか、
加えて、
人間が他者、他国や自然、宇宙を一方的に支配・制御できるという過信や欲望をいかに「鎮魂」できるかどうかが問われているのが現代だと思います。

それが「成熟」というものでしょう。


○「中央集権」への「依存」のアンチテーゼとしての、『「自立」と「共生」』

貴兄は「自立と共生」がわかりにくいとおっしゃっていましたので、重複しますが意見を述べておきます。

私の所属部局で、各種自治体や団体の陳情要望対応をしていると、ともかく「あれをしてくれ」、「これをしてくれ」のオンパレードです。そこには、「あれ」や「これ」がどこからやってくるかという思考回路が感じられないのです。
「国家の責務」として、あるいは「政権の責任」で是非お願いしますという陳情は、先方の立場もありますから理解はできますが、ややもすると「中央集権」への「依存」そのものになり、「思考停止」に陥ってしまいがちです。

「中央集権」批判の本質は、「集権された中央」が悪いというより、「中央」という「他者」に「依存」しつつ、都合が悪いとすべてをその責任に帰する姿勢を生みがちであるという点です。「中央」が、どのようにしてその解決を行うのか、解決に必要な資源はどこから調達するのかについて無関心ないし思考停止になってしまっているのが最大の要因だと思います。

われわれは他者への盲目的「依存」とその裏返しの「怨嗟」や「批判」の循環をあらためて、いかに問題解決するかをまず自分に、そして自分を取り巻く「コミュニティ」に問いかけることから始めなければなりません。
近代国家の形成過程で「問題解決」が中央政府によって専従的に処理され、それが全国的に均霑されることによって国土の均衡ある発展が確保された点は評価できる要素もあるものの、問題解決策を「他者」に丸投げする悪弊がすっかり定着するという副作用を伴っていますし、それを批判してきたわれわれまでもがそのことを選挙のツールとして利用してしまえば自らの立脚点を忘却することになります。

教育にせよ福祉にせよ、解決が必要な課題について、自らの内なる精神に問いかける、そして隣人や友人と話し合い、解決策を身近なところから、主体的に考える、そういう内から外への問いかけを行うことこそが自立した個人のつとめであり、そうした個人が社会の中で共に生きる方策を考えるのが、ポスト中央集権ではないでしょうか。

その際、個人と他者、あるいは個人と政府を別物と考えて、統治と非統治の関係を作り出すのが、旧来型の統治機構論ですが、私は、個人と個人の関わりこそが社会を形成する、その社会のありようを変えていく取組みとしての「新しい公共」を、来るべき時代の統治機構論として考えているのです。


3.以上申し上げてきたことに比べるとやや技術的ではありますが

○官僚主義、セクショナリズムとの決別
をどのように述べるかは「政治主導」をどう自己評価するかという視点でも重要です。

私の中での行革95(官僚時代以来の問題意識)
は、ボトムアップ・コンセンサスによる意思決定、政官業のトライアングル、年功序列・終身雇用、縦割り省益中心主義に起因する政府の機能不全をいかに打開するかという点にありました。

①橋本行革での省庁再編、官邸機能強化、企画と実施の分離、行政評価の導入(PDCAサイクル)。
②RIETIの設立、通産省政策審議室の活用(政策におけるセカンドオピニオン分析やポリシーユニット設置、チームBの編成)
③民主党における政権構想の策定、国家戦略局・内閣人事局構想、幹部公務員制度

という行動遍歴は、中央政府における「一点突破・全面展開的」改革でありますが、この点は2003以降の衆議院マニフェストでは一貫して述べてきたことでありなんらかの言及がわれわれらしいととらえる向きが多いと思います。


4.本論に戻って、抽象的ですが、以上のことを別の言い方で言い換えれば

○「二元論」からの脱却と「多元的価値」の総合が必要な時期に立ち至っているのではないでしょうか。

われわれが追求する幸福を、貨幣価値をはじめとする単次元の量的座標軸のみで量ること自体が20世紀的ではないか。

すなわち、貧富(所得や収入・利潤の多寡)、勝ち負けといった単一座標での二元論における「正の値」の増大
を超えたより多様で多元的な価値を加えた総合判断が必要であると思います。

私は「最少不幸社会」論が好きではありませんが、それは単なる個人の嗜好の問題だけではなく、論者が、国家論、政府論の視点で、政府の役割や目標を語るコンテキストで「最少不幸社会」を述べているのに対し、私は社会論の視点から最大幸福社会を述べているという違いがあります。

一方、経済的価値以外の価値が「美」の追求なのか、「愉快」「感動」の総量なのか、議論は尽きません。

「自他同一」という言葉がありますが「自分」の境界線はどこまでかという哲学的な問いに答える能力も時間もないままに、「東京、東京」。

次元の違う価値として「文化」と「科学」について詳述したかったのですが、ちょうど時間切れ、納品期限ですからこのペーパーをとりあえずお送りします。

演説三稿、是非読んでください。特に文化のところ。

http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/200910/26syosin.html

http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/201001/29siseihousin.html

http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/201005/20speech.html

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