さて本題。この問題、②への圧力によって偽の運命が何度も反復して構築されてしまうこととそこからの脱出の様子は、同著者による『クォンタム・ファミリーズ』(以下『QF』)で、詳細に展開されている。『QF』においても、上記②まんが・アニメ的リアリズムと、③ゲーム的リアリズム、の混和と、③へ向けた移行が描かれていると捉える事ができると考えられるのだ。
【読解1:②への圧力】
『QF』では、まず、②の「再-物語化」が何度も反復されていく。当初、この再-物語化は、人間原理と重ねられ「改めて歴史の唯一性を確認する手段」(p.60)として把握される。無論、各キャラクターはこの単一の現実世界から逃れようと、可能世界への介入を試み、幾度か「奇蹟」を希求し、現に奇蹟を経験することにもなる。しかしこの奇蹟も環境が因果的に生み出した結果に他ならず、時間経過とともに、自身の意思とは異なる帰結へと導かれていったことが、次々に示されていく。
ここから、主人公を筆頭に、再度「この世界」の肯定に向かおうとする動きもによって「奇蹟」を再導入し、あるいは「奇蹟」を排除する事で、別のこの運命を受け入れようとするだろう。けれども、この形式の受け入れ動作はどこまでも、②のキャラクター的な振る舞いを反復することにすぎない。つまり、現実を捕まえようとする挙作自体が、一つの歴史、一つの物語の再導入に繋がってしまう(ひたすらに、郵便配達人がころび続けるような)環境がここにはあるのだと考えた方がいい。「ゲームのプレーヤーは、それがゲームである事を忘れたときにもっとも強くなれる」(p.81)と、あるキャラクターは宣言するが、まさにそのゲームのメタ構造の忘却こそが、逆説的に一つの運命を希求させる事になるのである。
この②、物語への組み入れの強制の歴史、世界の終わりを夢見た(p.29)長い遍歴こそが、量子家族の宿命であったといえる。「量子家族の宿命」は、(1)「現実と虚構の区別がつくこと」と、(2)「現実と虚構の区別がつかないこと」の「間の区別がついていないこと」にあったとされる(p.120)。そうであるならば、ある現実なり虚構なりに(一回的決定、物語によって)向かおうとする決断主義的な振る舞いは、この区別能力に対する過信を表出する振る舞いとならざるをえない。例えば、「僕は運命を変える。そして幸せになる。」と「呪文のように」宣言した主人公は、次の瞬間、妻子の死に直面することになるが、これは、ポストモダンの構造上、不可避的に要請されていると考えられたほうがよいだろう(p.227、p.234)。また、死を自ら選ぶことで、この世界の肯定へ向かおうとする動きもまた、この生の再度の運命化として把握する事ができる。(p.359)
【読解2:③への脱出】
さて、以上の②と異なり、このようなポストモダンの環境条件の中では、別の可能世界の主人公は当然に生き延びる(p.363)。そして、キャラクターであり、プレーヤーの態度をメタ的にも形成した主人公は、次のように語っている。
「ゲームを続けるためにはリセットをかけなければならない。それがゲームである事を思いださなければならない。ゲームをプレイし続けるためにこそ、虚構の世界で生き続けるためにこそ、ぼくたちはつねにリセットボタンに手をかけておかなければならない。再起動ができないゲームには意味が無い。 ハードボイルドは正義ではない。ぼくたちは世界の終わりに生きる。」(p.371)
ここに至って、プレイヤー=キャラクターの二重体である主人公は、常にリセットをかけうる、またかけえた環境条件を不断に意識し、運命化を排除し続けることを、遂行しなくてはならない。③とは、「物語の終わり」(p.305)、「世界の終わりに生きる」(p.371)振る舞いを意味し、「複数の世界で同じ罪が反復され」「欲望が世界を転移し可能性から可能性へとわたってひとの人生を壊してしまう」運命を、その度ごとに、受け入れ続ける態度を継続的に形成することであるだろう。つまり、たえず自己陶酔的な決意が脱臼され続ける不安定状態を、意思的に継続形成することを意味するだろう。
主人公にできるのはこのその度ごとにただ一つの態度を、反復して形成し続けることまでである。あとは、ゲームバランスの形成者であり(p.348)、未来の世代主であり(p.350)、家族からは断絶した存在である(p.298)、子、汐子の福音に委ねられる。「だいじょうぶ、だいじょうぶ、…汐ちゃんがつれていってあげるんだから」(p.372)
【読解3:③の再度の②化の危険】
この汐子の宣言は、プレイヤー=キャラクターの二重体である主人公にとっては確かに救済ではある。しかし、同時に、これを物語的に救済として受け取るとすれば、「プレーヤー」の態度を、再度、「キャラクター」の一つの性質(救いを求める性質)へと堕としてしまうになる。よって、プレーヤーである限り、プレーヤーの態度としては、時間的な変化に耐えられる内的構造を有していなければならない。
これは、メタ視点の破棄の振る舞いでは足りず、メタ視点の不全性を前提としつつ、決定、約束、責任追及その他の安定化を拒む倫理的構造の形成を、必要とするだろう。

Reply · Report Post