その前に、一点、物語受容の問題点について確認したい。東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』では、①自然主義的リアリズム、②まんが・アニメ的リアリズム、③ゲーム的リアリズムの3類型が提示されていた。単純化すれば、①は「私」(内面)による現実(風景)の写生、②は「キャラクター」を通じた虚構の写生、③は「プレーヤー」による虚構を介した現実の構造の可視化、と捉えうる。
この類型分けにそれば。モデル受容者から見て、②と③が区別しがたく、そのために、物語を巡っての作品受容のあり方が混乱することがしばしば起こるように見受けられる。これは、一つの物語への固執によっても、一つの物語から別のもう一つの物語の移動によっても、はたまた「一つ物語など無い」という強固な単一の信念によっても、同様に混乱させられる事になる。
もう少し、類型と問題を詳しく述べれば、以下のとおりである。
【類型】
①は現実を言葉によって直示しようとする(透明な)モデル、②は現実との差異を持つ記号により(諦めを引き受けつつ)虚構を介して現実を逆照射しようと試みる(半透明な)モデルである。著者の言葉どおりにいえば「透明な言葉を使うと消えてしまうような現実を発見し、それを言葉の半透明性を利用して非日常的な想像力の上に散乱させる事であぶり出す様な、屈折した過程」を介したモデルである。
そして、③は複数の可能性に取り囲まれている現実を虚構を介して引き受け続けるモデルである。すなわち、特定の物語に入ったときでもなお新たに「キャラクターのメタ物語性」が開かれるような、別様の可能性をそのまま引き受けることを試み続けるモデルを採用したものであると考えられる。
【問題】
そうすると。まず、②と③の区別は、(外形的には)曖昧であることとなる。この二つは双方ともに、虚構的なキャラクターを利用する点では共通している。違うのは、②はあくまでもキャラクターが住まう物語内容を問題にし、③は需要者たる体験を問題にする点にある。しかし、物語内容もまた体験の一部ではあるし、体験を先取りした物語の場合もあるため、これを単純に峻別する事は難しい、ということも指摘できる。
【解決方針】
そのため、②と③の区別は、読み取りの際の主題によって分類するのが、簡便である。その主題は、②では「物語的主題」、③では「構造的主題」に、分類することとしたい。
ここで、物語的主題を読むことは、物語の意味内容により作品の評価を可能とする。対して、構造的主題を読むことは、「物語」と「現実」を共に規定する「環境」を取り扱う事で、「現実」に向き合う態度(現実観・世界観)の獲得を可能とするものとかんがえたい。③では、物語それ自体の価値は重視されず、メタ物語を用いて何が実践できるかが重視される事になる。
つまり、ここでは、物語の内容として読解に先立ち、その読解を可能にする環境条件について考察するものを、③に割り振るという分類法を採用する。環境条件について考察するとは、「物語」と「現実」の双方のあり方を決定している環境条件についての考察を意味し、単に物語の内容解釈に拘泥しない事を意味することとする。
【③の倫理】
著者によれば、③で問題となるのは、(たとえ物語として実存的な苦悩が描かれる事が無かったとしても!)「ゲーム的でメタ物語的な想像力に満ちたポストモダンの世界において、特定の物語を選ぶ事は、どのような意味を持っているのか?」という、構造上、プレイヤーに引き起こされる実存的な問い、に収斂する。
反対に。「③を受け入れる」と宣言しても、その受け入れ宣言自体が、複数乱立する小さな物語に回収されてしまうのであれば、それは②の動作と、表面上、区別しようがない。このことは、③メタ物語(拡散した物語消費)の実存文学が、②「再-物語化」される、と表現できるかもしれない。
このように読者、視聴者、ゲームプレーヤーには、この②への圧力に抗しつつ③を貫徹するための、物語との関係の取り結び方が問題となるだろう。
(別の箇所の記述に従えば、②がリセット不可能なのにも関わらず、③はリセットが可能な形式を採用するともいえる。そして、リセット可能性とは、通常無責任と同一視されるかもしれないが、むしろ、リセットが常に可能であるという事態を受け入れた上で、そのリセットをいかに使いこなすかが、新たな責任のあり方に関わってくるだろう。後述、『付録B』の検討を参照。)

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