何故「産経新聞」を叱咤するのか。


実のところ僕は産経新聞をついこの間まで応援してきました。
朝日新聞購読を止めることはあっても(実際止めましたが)、産経を見捨てることはないと思っていました。
そして正当な右翼的報道と位置づけて産経を支持してきましたが、今回の原発報道はお粗末過ぎました。

産経新聞は私の父が、戦後日本財界のあるべき広報紙として前田久吉氏から譲り受けて再生させた新聞です。
そしてそれは正しかった。
日本のマスコミが、戦後雪崩を打ったように左傾化していく、あるいは逆に無反省に媚米化していくのを、戦前は左翼運動の中心で活躍した父が、その後の獄中転向と、新時代への覚醒の中で得た、独自の文化/文明史観から看過出来ずに、独自に目指した、ニュー・ライト、あるいはリベラル・ライトな新聞だったはずです。まさに文明観と文化観のバランスの取れた新時代の報道として。

だが、この無思慮極まる軽薄な原発観はいけない。実に表層的で軽薄な文明盲信の見方でしかない。
だが、たかが原発ではないのです。
現代文明が持つ最大のの陥穽に気付くか気付かないかの、人類最後の「踏み絵」かもしれないと、私は認識しているからです。

実は、私が2001年に、「東海地震前に浜岡原発を何とか止めたい!」という思いから、無謀にも静岡知事選に出て、たった二ヶ月の運動で568,008票を取りながらも現職には刃が立たなかった事がありました。
それは、我が父の郷里が浜岡町であり、父が逝く直前に浜岡原発の受け入れに地元を説得するという役割を果たしていた可能性があったからです。
浜岡原発が、活断層に囲まれた最も危険な原発であることが静岡大学の調査で分かったのは、父の死後しばらく経って完成した浜岡原発が運転開始をしてから、さらにしばらく経ってかだったと思いますが、そのことすら中部電力は未だに認めていないのですから、亡父が知るよしもなかったのですが、私には看過できない問題です。

親に誤りがあれば、子が親に代わってできる限り修正するのが当たり前の理です。だから、東海地震の前に浜岡原発の運転を中止して、出来ることなら廃炉にすべき炉だと主張したかったのです。仮に父が未だ健在で、浜岡原発の危険性を知らされていたならば、絶対に自らの不明を恥じ、廃炉のために働いたと信じています。
その父が、後世に託した新聞なのですから、あの無知蒙昧さを許すはずはありません。

私の知事選にも全く協力をしてくれなかった産経新聞ですが、既に鹿内時代に三流紙に成り下がってしまったとはいえ、その出自からも、単に右翼的視座を持つだけでなく、新世紀、すなわち21世紀のあらたな価値観を打ち出してほしいという思いから、あえて厳しいことを言っています。

その父が残したはずのDNA=それは「絶えずニュー・ライトとしてのポジション」を持てない限り、産経新聞の役割は既に終わったと言わざるを得ないのです。

(長文失礼しました)

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