幾原 僕はね、ガンダムってあまりストーリーには興味ないし、メカにも興味ないし、
ましてやSF考証は全然分からないです。僕が興味あるのは人間だけです。

庵野 人間のドラマですか?

幾原 キャラクターのポジション、捉え方かな。
ポジションには特に興味があった・・・というか、最初、さっぱり分からなかった。
一応劇場では2回見ているんですよ。すごいでしょ。たいていそういうと(みんな)驚きます。
「なぜ、あれを2回も見たんだ」(笑)。
 やっぱりね、富野さんが好きだったんだろうな。すごく精彩でかっ飛ばした富野さんが好きで、
富野さんが初のオリジナルと言うことで気になったんだろうな。
 当時1回見て、それで分からなくて、もう1回見に行ったら
・・・2回とも、一緒に言った友達がカンカンに怒ってたのは覚えてる(笑)。

庵野 やっぱ、訳わかんないって怒った?

幾原 そう。2回とも(一緒に)見に行ったのがアニメーターだったの。
やっぱり自分の能力に対してどのくらいの見返りって言うの?ハッピーさを返してくれるかって事を、
アニメーターとして多分にそういうことを考えているんで、
やっぱりそのアニメーターって言うのはガンダムに参加しなかったんだけども、
「これをやらされたアニメーターたちの苦しみを考えると、笑えん!」って随分怒ってたというのはあるね。

幾原 でも、あれって演出してみると「気持ちが分かる」っていうのかな。
つまり、隕石を落としたくなる気持ちって言うの?
つまりサンライズなりスポンサーの方々=バンダイなり角川なりの人たち、
ま、愚民の人たちがスポンサーの名の下に安全圏で作品を作れと言ってるわけですね。
 で、一応、富野由悠季というシャア・アズナブルは「よかろう。作品は作ってやろう」と。
「だが、お前たちが全く望んでいなかったようなものを、お前たちの安全圏にぶち込んでやるぞ」と、
それで『逆襲のシャア』を作ると、そういう話ですよね。
 で、一応、富野由悠季=シャア・アズナブルは独善的な正義を手にするためには、
どんな卑劣な手段を使ってもかまわないと。
スポンサーを騙して、自分のマスターベイション的なものを作ってもかまわないんだ、
という独善的正義で作品を作ろうとしている。
 それに対して、アムロ・レイというもう一人の富野由悠季が出てくる訳ですよね。
そのもう一人の富野由悠季は「これはいくらスポンサーがいて、愚民がお金を出して作れと言ってるものでも、
これはアニメーターなり現場のスタッフが飯を食う糧なのだから、
やっぱり一生懸命やってみんなが幸せになれる作品にしなきゃ駄目じゃないか」という偽善ですよね。
 偽善の正義と独善の正義が、宇宙空間で隕石というものを・・つまり隕石というのは『逆襲のシャア』と言う作品ですよね
・・巡って闘いあっている作品なのではなかろうか、ということにだんだん気がついてきたと言うことですよね。
 だから、まあ、見終わった後は何とも言い難いものがあったけど。
 隕石は落ちなかったわけですからね。

庵野 富野さん、未来をまだ信じていた?

幾原 そうでしょうね。なんか、また、こんな馬鹿なことを言うけど。
ドラマ的なことで言うと、シャアというのを富野さんという風に仮定してしまうと、
隕石をおとしたくなかったのかななんて、ふと思ったたんですよ。
 つまり、愚民を打ちのめす作品を作る、愚民に活を与えると言いつつも、
それに関わっているスタッフ全員のことを考えると、「どうもそうもできないらしい」と言うことで、
誰かに「止めて欲しかった」と言うことで、正義のアムロというのが出て来るんだけど。
 だから、結局は独善と正義・・。偽善ですね、独善と偽善が闘うと表面的なことで言うと・・・。
庵野さんもそうかもしれない、僕なんかもそうなんだけど・・、
現場作品を維持するためには、どうしても他人に斬りつけたり傷つけたりしないと作品を作れないと言うところがあって、
その中で「そういうことしちゃ駄目で、みんな手に手を取って言い作品を作らなきゃだめだ」というような
きれい事言うやつってすごく頭に来るんですよ。
「そんなこと出来るもんならやってみろ!」って言いたくなるんだけど、
アムロ・レイっていうのはまさしく、そういうことを言ってるわけですよ。
 ただ、引いた目で見ると、独善と偽善が闘ったときにどっちが勝ってもらいたいかというと、
本当は偽善者に勝ってもらいたいというのはあるんですよね。
独善で生きている人間って、あまり未来はないんだけども。
偽善者には・・もし偽善を貫くと、それは偽善ではなく完璧な正義になってしまうわけだから
・・だから、偽善者がそういうことをいうんだったら「じゃあ、ちゃんとそれを貫いて、正義にして見ろよ」というようなことを、
独善な僕や庵野さんや富野さんはいいたい、という感情はあるような気がします。
 だから、最後、やっぱりシャアがこう・・。
僕、忘れちゃったんだけど・・、チップみたいなものをアムロに贈ってますよね。

庵野 サイコフレーム。

幾原 サイコフレーム。
で、最後結局そういうものを渡して、アムロに邪魔されてああいうことになっちゃうんだけど、
シャア・アズナブルも止めてもらいたかったんじゃないかなという風に思ったんですね。
 つまり、隕石を落とす、つまり業界を破綻させるという行為を止めさせてもらいたかったんじゃないかな。
(笑)二重の独善。あと、映画って現実を見せて見せて見せまくっても、
最後に、結局お客さんがお金を払ってみるのは「夢」なんだから、
最後の最後には「いい夢」を見せてあげないといけないんです、映画って。

庵野 いやあ、商売人かもしれない(笑)。
仕事だから。絶望している人間は希望を見たがるし、希望に満ちあふれている人間は絶望を見たがるからね。
基本的に観客は「無い物ねだり」だから。

幾原 『逆襲のシャア』の中で一番気になったのはキャラクターの配置とか、
ギュネイ、クエス、ハサウェイ、これは極めて、個人的だけど、
おそらくナナイを気にする奴はあまりいないだろうと思うんだけど、
僕はナナイのことが随分気になる(笑)。

庵野 ナナイねぇ。

幾原 ナナイ、気になるねぇ。だから、あの、なんていうんだろう。
シャアが最後に「お母さん」がどうしたこうした言いますよね。
 ああいうことを考えていると、ナナイというのはしょっちゅうシャアを胸に抱いたりいろんな事をして、
あれはまさしくお母さんであるということをやっているんだけれど、
あれってよくよく考えてみると、「じゃあ、なぜシャアは最後にナナイを捨てるのか」と考えると、
結局シャア・アズナブルというのも「ナナイは嘘をついている」と知っている訳ですよね。
 要するに、ナナイは「お母さんになんてなれない」というのを知っている訳ですよね。
だから、最後の最後にシャアがアムロと決戦しているときにナナイが割り込んでくると
「男の会話に口を出すな」みたいな事を言って。
で、ナナイは母親は口にしないような「私たちを見捨てるつもりですか?」みたいな事を口にするんですね。
 ああいうことを、たとえばララァだと絶対言わないわけですね。
シャア・アズナブルはああいう人間だということを最初から知っているんです。
知ってるが、彼女がいないと生きられない。「太宰」的な心境ですよね。
偽物だとは知っているんだけど、すがってしまうという。なんか男として気持ちは分かるな。

庵野 弱い部分?

幾原 弱い。

庵野 ララァ、死んじゃったからね。

幾原 ただ、死んじゃったから逆に良いように思えるというのもあるんですよね。
 例えば、僕なんかも思うんだけど、よく女の子ってわりと綺麗な事ばっかり言うじゃないですか。
 例えば「名誉も地位も仕事も何も関係なくあなたそのものが好きだ」って言うことは、よく言うじゃないですか。
「そんなものは全然うそっぱちで、やっぱり名誉も地位もあって、いまの地位を保っている俺が好きなんだろう」、みたいなことは。

庵野 そりゃあ、ないよりあった方がいいよね。

幾原 そういうこと言うんだけど。
ただ、何でシャアがララァに惹かれているかというと、やっぱり死んじゃったというのもあるんだけれど。
その死んじゃったことの意味というのは、
例えば、シャア・アズナブルが日常生活に疲れてて
「もう総帥なんてイヤだから、暖かい南の島でのんびり暮らそう」なんて言ったときに
ララァはついて来てくれるだろう。で、もちろんナナイもついて来てくれるだろう。
 ただ、ナナイとララァの絶対的な違いというのは、
ナナイというのはシャアが失墜させられて、南の島でのんびりやったとしても、
シャアが「いつかは総帥に返り咲いてやるぜ」という心意気を燃やしていれば、
ナナイというのはそのために女性としてお母さんとして奉仕はしてくれるだろうと。
 ところが、シャアがもし「俺、総帥なんて疲れるから、ここでのんびり乾物屋でもやって暮らすよ」なんて事を言い始めると、
ナナイは突然手のひらを返したように「昔のあなたはそんなじゃなかった」といって去っていってしまうのではないだろうか、と僕は思う。
 ララァというのは、シャア・アズナブルが乾物屋をやろうが
「それはそれで幸せな人生だから、一緒に暮らしましょう」と言ってくれるのではないか、
という幻想をシャアは持っているのではないかな。

庵野 ララァ最大の問題は、アムロにも同じ事を言ってる。
だから、どっちかを否定して欲しいわけ。

幾原 そうだね。でもやっぱりガンダムを見る度に業界縮図物語と(笑)。
 ただ、もっともっと広い意味で考えると、富野さんはどういうつもりで作ったのか知らないけど・・。
業界縮図って見ちゃうと非常に視野が狭いんだけど、僕は業界人だからそう見ちゃうけど・・、
もっと広い目で見ると、社会の縮図的ドラマって言うのかな。
案外、この社会で成り立っている人間関係というのは、ほとんどにおいてそういうものでないのかな、という気がしないでもない。
 だから、『逆襲のシャア』だとシャアがいろいろと難しい、事細かいこととか言っていて、
政治のこととかもでてくるけど、「そんなのは全然関係ないだろう、シャア・アズナブル」と思って。
「お前がやりたいのは、単に腹立つ奴らに隕石を叩きつけたいだけだろう。それしかないだろう」って(笑)。
だから何の政治理念も何もないだろう。
 それがいいな、と思いますね。

庵野 最近ね、僕もね、業界内外に対して怒ってばっかりでね。
なんか、最近ふと確認したことは、俺のような人間が切れたら、
シャアみたいに隕石を落とすんだろうなと。
そういう点で、「僕は、アニメに対してすごく純粋だなあ」、と最近再確認しました(笑)。

幾原 『逆襲のシャア』に関しては、すごく恋愛映画に近いものを感じたな。
それは最初見たときには、何もそういうものは感じないわけですよ。ガンダムしかでてこないし、メカばっかりだし。
政治の話とかしてるし、場面的に言うと全然色気もクソもないんだけど、
よくよく考えてみると、非常に恋愛映画に近いものがあるなと思ってね、非常に気持ちいい。
やっぱりだから、ギュネイにクエスの関係というのにかなり身に染みるものを感じるわけですよ。
 例えば、『美少女戦士セーラームーン』というものを、シリーズ・ディレクター富野由悠季である、と。
そこで一演出の私・ギュネイというものが存在しているわけですよね。
 で、まあ、富野由悠季は『美少女戦士セーラームーン』というもののシリーズ・ディレクターのシャア・アズナブルである。
で、クエスという非常に、こう、キャラクター・デザイン兼作画監督という人がいるわけですよ。
で、シャア・アズナブルという人は、クエスもギュネイも小賢しいとは思っているわけですよ。
そうは思っているのだけど、仕事として「手」は使えると。
つまり、クエスというのは非常に有能な人間で、人間としては人間のくずとしか言いようのない奴なんだけど、
非常に有能なアニメーターであると。
 ギュネイというのも、本当は才能なんかないのだけども、
強化人間という名の下に演出助手をしたり様々な進行というものを経て、
ようやくテクニカルなものを身につけて、もしかしたら俺も才能があるのかもしれない、
と非常に驕り高ぶりのある、神出鬼没な、
こう、なんて言うか最近ちょっと芽が出てきた有能な演出であったりするわけですよ。
 それをギュネイというのはちょっと勘違いしてて、
なんとか、こうシャア・アズナブル=富野由悠季をシリーズ・ディレクターの座から引きずり下ろしたいと画策しているわけですよ。
そのためにはどうしたらいいかというと、誰か才能のあるクエスに非常に惹かれるわけです。
なぜそれに惹かれるのかというと、分からないんだけども。

幾原 だから、あのシャア・アズナブルを出し抜くためにはクエスをものにすることが第1前提であると。
クエスをものにするにはどうしたらいいかというと、
とにかく俺は有能な演出だということを誇示しなくてはならない。
ということで、私の周りのモビルスーツを蹴散らしていくわけです。
 だが、シャア・アズナブル、もとい、シリーズ・ディレクターの富野さんも
そういうことにはとっくに気付いているわけですよ。
気付いているんだが、幾原が必死に富野由悠季を追い落とそうとモビルスーツを蹴散らすのも、
とりあえず自分の助けにはなっているわけですよ。
何とか、なだめすかしてギュネイもクエスもうまく利用しようと画策してくるわけですよ。
 ところが、馬鹿なギュネイ、もとい、幾原は気がつかずに、
「これでおれも、もうちょっとで、富野由悠季=シャア・アズナブルの域まで達する」と思っているところで、
横からミサイルが飛んできて、いつの間にか粉々になってしまうという(笑)。
 もう、なんて業界の縮図という。

庵野 若い人が出てくるのに、なんか強迫観念みたいなものがあるね。

幾原 それは宮崎さんにも感じる。
宮崎さんにしても富野さんにしても、有能なアニメーターについては、
人間性はともかく「手」については非常に買ってるんです。
ところが、若い演出についてはケチョンケチョンに言ったり、ボロクソに言ったりしますよね。
あれって、なんだかんだ言って、若い演出を怖がってるんだなと思う。

庵野 怖いと思うよ。独裁に一番怖いのは、才能ある人間ですからね。
一番欲しいのは従順な人間。

幾原 そうそうそうそう。アニメーターはなんだかんだ言って、人間はともかく「手」は褒めるんだよね。
富野さんにしても宮崎さんにしても。 あと、好きなのはハサウェイのなだめ方がいいですね。
やっぱり宇宙空間で「顔を見せろ」とか何だとかってあたりがいいですね。
何がいいかって、だいたいあんなのって、恋人同士で女の子とつき合ったりすると、
大抵の女の子って訳の分からないことで「ウキーッ!」となってポカスカやってきたりするんだけど。
 そういう時って大体「まあまあ」って、こう(ジェスチャー付きで)抱いてやったりすると、
しばらくすると落ち着くって言うパターンがよくあるんだけど、
富野さんもそういうパターンで女の子をなだめすかしてきたのかなって(笑)。

幾原 やっぱりセリフがいいですよ。セリフがドラマと独立しているのがいいですよね。
 なんかね、アムロがアクシズなんかに爆弾を仕掛けようとして細工してたりすると、
いきなりシャアのモビルスーツがやってきて「させるか!」とか近づいて来たりするんだけど、
そうして来るとアムロがいきなりシャアのビームサーベルを避けながら「情けない奴」とか言ってたら、
シャアが「何が!」って禅問答する件があるんですよね。
 で、こう、なんて言うのかな。そこら辺のセリフとか、すごくいいんですよ。
最後ね、禅問答の末に、シャアが「パワーダウンか」ってシャアが弾切れになるっていうのがあってね、
友達と大笑いした覚えがあるんだけど。
富野さんっていうのは、こういう禅問答を繰り返した揚げ句にパワーダウンすることがあるんだなって、
日常の富野さんを垣間見れてすごく嬉しかった(笑)。
 本人もしょっちゅう、こう「クソーッ」てリテイク出しながら疲れ果てて、
パワーダウンをくったりするんだろうな、と思うとおかしかった。

庵野 テンションは、持続が大変難しいですからね。気を抜くとすぐ落ちるから。

幾原 あとね、アクシズの中でシャアとアムロが生身で禅問答するあたりで
「愚民どもにその才能を利用されているものが言うセリフかぁ」、バンバン、って銃を撃つシーンなんだけど、
そのセリフって、富野さん、自分にいってるのかと思って、それがやたら身に染みましたね。

庵野 基本的には、複雑な考えっていうか思想を他人に伝えるのに、一番効率がいいのが「Q&A」、
ダイアローグ、つまり会話劇。
だから、自分自身をAとB、二つに分けて、その中で言い合いをさせる。これが一番解り易いだろうな。
 だから、あそこはそれじゃないかなと思うよ。自分の持ってる考えを他人に伝えるために、ああいう会話劇を。

幾原 そうだね。
だって、普通にドラマだけ見てると、シャアは「させるかっ」といってモビルスーツを降りちゃうんだけど、
「ガンダムはいま、操縦者が誰もいないんだから破壊しろよ」とか思うんだけどそうしない。

庵野 あん時ねぇ、「ズッヒューン!」って打っちゃえば、話、終わるのに。

幾原 なぜそうしないのかといえば、もはや、もうドラマがドラマのために進んでいないことが明白だという。
そこら辺あたりが見ていて気持ちいいよ。
 だから『0083』なんていうのは、まさにドラマのためにドラマが進んでいく話であるから、
あそこで間違いなく「ズッヒューン!」って打ってドラマは終わってしまうわけだよね。
「それだと全然面白くもクソもないだろ」と思っちゃうんだよね。

庵野 あれは、あの素直さがつまんなくてね。キャラやドラマも薄味だし。

幾原 特にガンダムみたいなモビルスーツを扱ったアニメーションになっていくと、
映画の話でいくとハリウッド啓蒙主義になって行くっていうの?
で、結局は、やっていって行き着く先というのは、実写には勝てないものにしかならないのではないかと思う。
 だから、なるべくそういうドラマ啓蒙主義的なものはやりたくないの。
なんかみんな、「面白くなくっちゃアニメじゃないよ」に対する回答というのを、
やっぱり「ハリウッド映画啓蒙主義的な回答しか出してないんじゃないか」という感じがしないでもないけど。
 やっぱり「活劇のおもしろさやドラマの面白さ」だけを追求していると、
どういってもハリウッド映画には勝てないとしか思えない。
だから、そういう手法でやってもしょうがないんじゃないかという気がする。

庵野 でも、問題はお客さんの大半が、ハリウッド映画に毒されているからねえ。
受け路線ってのもある程度、決まっちゃってるからね、つまんないけど。

庵野 なんでいま、アニメの業界に限っていえばわりと要職の立場にいる私がですね、
一介の同人誌に時間と体力を割いているのはやっぱり、「アニメファン」の分なんですよ。
つくづく、アニメが好きなんですね、私。

小黒祐一郎 立派です。こんな立派なアニメファン知らないです。

幾原 僕もアニメーションっていうの、嫌いじゃない。
もちろん好きだからやってるんだけど、最近、アニメーション見るのが苦痛でしょうがない。

庵野 もちろん。だからこそ、今、『逆シャア』を取り上げてるんです。

幾原 『逆襲のシャア』にしてもそうなんですけど、
もはやアニメーションっていうのは、やっぱり・・・・これは俺がアニメオタクだからかなぁ・・・・。

庵野 山賀の意見に同調する部分もあるんだけどね、僕は『逆シャア』っていうのをなんで取り上げたかというと、
本当はこれ、アニメーションのお葬式なんですよ。

幾原 お葬式? 一回決別すると?

庵野 アニメのお葬式、誰も挙げてないから、「僕が葬式を挙げます」っていうのが、この本なんです。
あれから何も、誰も再生してないんですよ。生き返ってない。『Vガンダム』ですら、生き返ってはいない。
みんなあれで終わってて、灰がゆっくり飛んでるの。死んだ死体の上に、灰が飛んでるのに。
みんなそれに気付いていないだけなのか、もしくは気が付いてても目を瞑ってるだけなのか・・・。

幾原 アニメって言葉がキーポイントだよね。
アニメはアニメで今、例えば僕がやってる『セーラームーン』なんて非常に流行っているわけなんだけど、
でもアニメは死んでるわけだよね。だから、灰って言葉も面白いわけだよ。
だからアニメーションっていうのはやっぱり、大阪に1000人集まったとか渋谷に600人集まったという話があるに関わらず、
ああいう風にアニメは死んだ訳だよね。その言葉の意味って面白いね。

庵野 そのキーワードを使えば「アニメは既に死んでいる」もう古い言葉だけど(笑)。
後は、誰かがその灰を集めて枯れ木に早く・・・。

幾原 でもね、やっぱり、1回死ぬしかないんです。
だから、やるとしたらもう1回、一からやるしかないんです。
そういう意味でやっぱり、僕なんかも、てんでとんでもない間違いしているところがあって、
(セーラームーンのイベントで)大阪に1000人集まるとか渋谷に600人だとか、
あるいは子供がいっぱい入ってるとか、やっぱり非常に薄っぺらいところでちょっといい気分になるしかないわけですよね。
 それは、やっぱりかつてのアニメーション・ブーム・・『ガンダム』ブームみたいのがあったからそういう風に感じるんだろうけど、
じゃ、そんなもの何もなくて灰でしかない。本当は何もない。

庵野 そう。あれは、ただのイリュージョンだと思う。

幾原 だから、やるんだったら1からやるしかない。

庵野 イチじゃなくて、ゼロ(笑)。死からの再生かな。

幾原 やっぱり富野さんは『逆シャア』で一回死んだんじゃないですか?

庵野 まあ、黒沢明も「どですかでん」の前で一回死にましたからね。

幾原 でも、やっぱり僕は死に切れてなかったような気がするんだよな。
なんだかんだ行って人間一番辛いのは、『逆襲のシャア』でシャア・アズナブルは一回死んじゃったように見えるんだけど。
だから、殺して欲しかったからそう見えるんだろうけど、人間生きて行かなくちゃイカンという、
富野さんも60、70まで生きて行かなくちゃイカンという。ものすごく辛い現実があるわけですよね。
 生きていくためにはどうしなきゃいけないかというと、同じ事をやってるわけにはイカンわけですよね。
 だから進化しなきゃいけない。だから、宮崎さんにしても『カリオストロの城』の頃は良かったとか、
『コナン』のころはよかったとかよく言うけど、やはり今『紅の豚』やらなきゃイカン、という事実があるわけですよね。
つまり進化していかないものの作り手というのは絶対に生き残れない、という宿命があるから。
富野さん、それは分かってる。
 だから進化しなきゃいけないっていうんで一度『逆襲のシャア』で死んでやったんだろうな、と思ったんだけどね。
ただ、あんまりいうとあれなんだけど、今の『Vガンダム』とか見ると、やっぱり死んでないんじゃないかという気が。

庵野 まあ、そうそう人間変わるもんじゃないからねえ。

幾原 本人はたぶん死んだつもりで1からやり直してるつもりなんだろうな。

庵野 うん、あれはね。でもね、やっぱり滲み出しちゃうと思うよ。

幾原 やっぱり死んでないんだろうなあ。本当に『Vガンダム』って面白がられてるのかな。それがよく分からない。
面白がっているのは、実は僕らだけじゃないのだろうかっていう気がする。
本当の本当の子供、面白がっているのかなあ。

庵野 子供がもう付いていけなくて、放棄しちゃうかな、ああいう重い話は。

幾原 だとしたら、富野さん、1から始めてないわけですよね。捨ててないわけですよね。
 僕は、ああいう話にしてああいう設定にしたとき、富野さんは1からやろうとしてるのかなと思ったんだけど、
しかも今回、シリーズ構成に園田さんを入れてるわけですよね。
にもかかわらず1にはなっていない訳なんだから、捨てきれなかったのかなぁ。

庵野 捨てきれなかったんですね。富野さんはねえ、ララァを捨てられないんですよ。
でも、恥ずかしさを知る心が有るんならわからないな。
捨てる捨てるって口で言うのは楽だけどね、なかなか捨てられないよね。特に男は未練の動物ですからね。
 やっぱ、自分が子供の時見た物って捨てられないですからね、なかなか。
捨てなきゃいけないといわれてもね。とにかく身につけている物を捨てて裸にならなきゃ前に進めないですからね。

幾原 ところで庵野さんとか、ビデオよく見るんでしょ? そうでもない?

庵野 いやあ、あまり。つまんない物はよく見るけど。

幾原 「トリプルファイター」

庵野 (笑)アレは買わなかった、さすがに。でも先日『ゴーダム』買ったんだよ。
「チャチャチャチャ」っとLDをサーチで見てて、で、面白いなと思って止めると演出は富野さん。
もう「匂い」っていうのかな。画面の雰囲気が『ガンダム』と同じなんですよね。

幾原 その最初の『ガンダム』の2話とか、昔は富野さん、絵も気にしてましたよね。

庵野 あれはやっぱ、安彦さんがいたからだと思うんだ。

幾原 そうかもしれないけど、なんていうんだろ。
ドラマ以外のことでも画面に対する奥行きというのをちゃんと描写しようとしているなぁ、と。
最近の富野さんっていうのはそういうことをまるで考えてなくて、
もう完全にドラマのための絵だというように割り切ってしまっている。
いつからそうなったのか、よく分からないんだけど。

庵野 『Z』あたりじゃないかな?『Z』で思い知ったんじゃない?
 安彦さんを失った富野さんっていうのを。やっぱり最初の「ガンダム」って絵がいいんだよね、安彦さんの。
もっともアレは絵が非道くても、まだ面白かったけど。
 富野さんもそっちに関しては楽だったと思うんだよ。任せちゃえばいいんだから。
少なくとも自分が思っているよりは、うまい絵があがって来るんでしょ。

幾原 安彦さんと富野さんは、絶対に相容れないだろうと思う。
なんでかっていうと、安彦さんの作品っていうのは、必ずいわゆるマザコンの極致であったりするわけですよね。
例えば、『アリオン』にしてもそうだし『ヴィナス戦記』にしてもそうなんだけど、
いつも主人公の傍らにいる幼なじみの女の子と最後に結ばれたりするでしょ?
 アレってよく考えてみると、非常に気持ち悪い話ですよね。
 だから、安彦さんにすると、なぜ『ガンダム』でフラウ・ボウとアムロが一緒にならないのかというのが、
ものすごく気になってしょうがなかったんじゃないかという気がする。
ところが、富野さんの考え方でいうと、そんなのは、幼なじみというのは基本的にいつか離れる物であって、
適当にいいように利用して捨てていくのが男の道だろうなんて思っているんだけど、
安彦さんにはどうしてもそれが理解できない。
「可哀想だろ、そんなことしちゃ」ってそういう思いで女の子を見てるというのかな、
そこら辺の違いじゃないかな。
 だから、「ガンダム」でいうと、そういうところが描写されたかどうかは分からないけれど、
セイラ・マスなんていう全然人間としては救いようのないような大人の女性にちょっとアムロは惹かれたりするわけですよ。
そういう気持ちっていうのは、安彦さんには全然理解できないんじゃないかと思う。
男性としてみると、なぜかそういう人間の屑の女性に惹かれるか痛いほどよく分かるっていうか(笑)。

庵野 セイラさん、いいですよ。

幾原 いいですよね。全然人間としてはどうしようもない奴ですよね。

庵野 イヤな女だけど、やっぱセイラさんはいいな。

幾原 とんでもない女なんですけどね。でも、男性としてはセイラに惹かれますよね。
フラウ・ボウは横にいても、ちっとも楽しくないだろうと思いますね。

庵野 安彦さんの富野さんの世界観をまるっきり否定してしまうような絵がですね、
なんか最初の『ガンダム』の私にとって魅力だったんですけどね。

幾原 最初の頃はね、まだ安彦さんと富野さんの接点ってあったんですよね。
富野さんもまだ、それほど観念的には自分が何を表現したいかって考えてなかったんだと思うよ。
そういう意味ではドラマ主義ですよね。ドラマとして『ガンダム』を考えていたというのがあるんだけど、
観念としてはそれほど『ガンダム』のことを考えてなかったわけ。
 多分、「観念描写だけでドラマを作っていいんだ」ということを再確認したのは『イデオン』だろうなと思うわけ。
『イデオン』によって、「観念だけでも話しになるじゃないか」と自信を持ったんじゃないかと思うんだけど。

庵野 多分ね、僕も気付いたのは『イデオン』だったね。途中から走っちゃったからね。
でも、『イデオン』の湖川さんの絵はピッタリしすぎてつまんない。

幾原 ああ、そう。僕は湖川さんの絵、好きですよ。でも、そういうことあるかもしれない。解り易すぎるんですよね。
非常に表情にしても、バイオレンス描写にしても、非常にそのままなんです。解り易いんです。
 例えば、子供の首が吹っ飛んだりする描写がいっぱいあったりするんだけど、
ああいうものって、昔、永井豪が「バイオレンスジャック」でやったような確信犯的な描写ですよね。
「ここまでやるんだぞ」っていう確信犯的な描写なんだけど、それがいかにも「確信犯としてやっています」っていうメッセージが解り易すぎる。

庵野 そう。なんかね、それに対する否定的な部分というのが画面から見えてこないんですよ。
安彦さんがやると「こんなのはやりたくない」というようなのが端々に出ていて、それがいい味だしてる。

幾原 だからね、僕ね『逆襲のシャア』で北爪さんの絵が好きだっていうのはね、中間なんですよ。
なんかね、だから、こっちが考えないと分からないっていうのがいいんですよ。
アレがね、分かりすぎるとね、もうハイって言うしかないんだけど。
 北爪さんの絵っていうのは湖川さんと安彦さんの中間でね、こっちが考えないと富野さんが確信犯的にやってるって分からないからね、
逆に遊べる余地があるって言うのかな。考えられて面白い。

庵野 まあ、無難といえば聞こえがいいけど、要するに未完成で隙が多いという事かな(笑)。
でも中間ということは、どっちにも振れる可能性がある、ということは二律両方持ってるんだよね。それが多分いいんだろうな。

幾原 最初は何だろうと思ったんだけど、あのクエスのあの髪型にしても髪飾りにしても、
「なんだ、これ、チャラチャラして。こんなのがロボットに乗って戦争してもおかしいだけだろう」って思うんだけど、
何となく引いた目で見ると、なんか「モルダイバー」に出てきそうな女の子がクエスというキャラになんとピッタリ(笑)。あれはいいですね。

庵野 僕はチェーンがいいな。

幾原 チェーンはいいね。ただね、僕ね、チェーンは良すぎてやだね。
あれってチェーンの良さって、安彦さんの描いたくらいの良さっがありますよ。
もちろん、安彦さんの絵じゃなくて北爪さんの絵ではあるんだけど。
 他のキャラって安彦さんが描くと全然違っちゃうだろうっていう気がするんですが、
チェーンに関しては安彦さんが描いても、北爪さんが描いても、同じような到達点っていう気がするんだけど。
そういった意味ではチェーンっていうのはキャラとしては富野さんが考えているキャラそのものになっているんだろうなという気がした。

庵野 さっきと手のひら返したような言い方なんだけど、
『逆シャア』にだけ関しては富野さんの邪魔をする奴は全て敵ですからね(笑)。
だから、チェーンはいいの。だがしかし、アムロとかシャアは残念ながら、論外。

幾原 論外? 僕、好きですよ。

庵野 いや、ああいう絵じゃないんだろうなと思う。

幾原 じゃあ、安彦さんの?

庵野 あれは安彦さんの絵で成長した感じだと思う。もっと人間臭いと思うんだよ。

幾原 いやね、僕はね、あの『逆襲のシャア』という作品を踏まえても、到達していないバランスという物が好きなんですよ。
作品そのものも落ちかかってる、非常にきわどいところにあるのかなあ。あれがいいですよ。
未完成のムードというのがすごくいいですよ。
 意志の伝えられない、もどかしさみたいなのがね。非常にいいですよ。
そういう意味では『F91』って非常にキャラクターとしては表象的には完璧なんですよ。
にも関わらず、画面っていうのがバランスとってないんですよね。
 だから、あれは逆に気持ち悪い。だったら『逆襲のシャア』のキャラの方がよっぽどいいやっていうのはありますね。

庵野 あれで良かったのは、やはり、鉄仮面。

幾原 本当は富野さん、顔を隠したいんですかね、やっぱり。
「父として、娘や妻に済まぬ」という思い出顔を隠したいんだろうな。
 あと、サンライズの何日も徹夜しているスタッフたちに対して「済まぬ」という思いで顔を隠したいのかという気はしたが、
だが、しかし、暴力は振るうぞと。

庵野 仮面をかぶるというのは大きな意味でいろいろありますからね。
その中の自分を恥じるというのもあるんですけどね。日本人は恥の文化人ですから。
やっぱり恥というのは大きなウエートを占めているのかな。

幾原 あと、なんか富野さんって、僕なんかそうなんだけど、誰でもそうなんだと思うんだけど、
それまで『逆襲のシャア』というのは女性に依存している男性ばっかり出て来るんだけど、
『F91』っていうのは、俺2回くらいしか見てないんだけど、シーブックみたいなああいう人間が出てくるわけですよね。
で、打ちのめされるわけだけど、多少『逆襲のシャア』と違っている所っていうのは、
「若い才能とかそういう物に打ちのめしてもらいたい」という願望が多少出てきてるのかな。
で、「打ちのめしてもらいたいのだが、結局は打ちのめされた末に、
自分がさらにグレードアップされて帰りたい」という欲求があるのかなと思ったんだけど。

庵野 それすらも利用するという。

幾原 そうそうそう。

庵野 キタナイ大人だねえ(笑)。

幾原 気持ちはよく分かるんだけど(笑)。

庵野 これは、独身だし父親になってないからよく分からないんだけど、自分の後継者みたいなのが出来たら、
やはり、「息子にはよくやったっていって黙って肩を叩いて欲しい」もしくは、「殺してくれ」と思うのかなあ。

幾原 だから、シーブックを自分の娘と結婚して養子にしたかったんじゃないですか?
 そして「これからは君の時代だよ」といってポンと肩を叩いて”富野”という名字も継がせて
『ガンダム』を作り続けさせるという恐ろしい図式が。結局は楽して『ガンダム』を作ってやると。

庵野 若い才能を利用して、それを踏み台にするわけね。

小黒 『逆襲のシャア』はシャアがお母さんを求めていたというオチじゃない?あれをオチといってよければですね。
あれをどう思ってます?いってみれば映画の『セーラームーンR』と一緒ですよね。
『逆襲のシャア』っていってみれば、うさぎを失ってしまった衛とフィオレの話ではないのかと。

幾原 あ、そうだね。昨日パンフレット読んだばっかりなんだけど、
”これは男女の物語です””男はこんなに情けないです”みたいな事を富野さんが言ってて。
 で、”男として赤裸々な気持ちを描いてみた”みたいな事が書いてあって。
”こんな男でも愛してくれますか?”みたいな事が書いてあったんだけど、そういう映画でしょ。
 そういう意味では単純に情けない男性を描こうとしたところかなあ。
そういう意味では、ドラマの中でそういう結末というのは正論でしょう。
単純に”だらしない男だけど愛してくれますか?”と言うことを描こうとしたのなら。
さあ、でも、女性は気持ち悪いと思うだけだろうな、と俺は思うけど。

小黒 あのラストだと女性の意見も聞かないといけないですねえ。

幾原 いやあ、あれを女性がみたからと言ってねえ。

小黒 みんな、やっぱクエスとかにいっちゃうんじゃないか、面白がってる人って。

幾原 クエスを面白がる人、いる?

庵野 イクちゃん(幾原邦彦氏)好きでしょ。

幾原 僕、好きだよ、クエス。好きだっていうか、クエスを求める気持ちはよく分かるっていうのかな。
 実際、単純なことをいうと、僕なんかも多少惹かれる女性というのは、
うまくいくかは別として、クエスのパターンが多いというのが分かるからね。

庵野 「ああいう」のが、いいわけだね。

小黒 テンションが高いということ?

幾原 テンション高い奴求めるのは間違いないですね。
 ただ、その子とうまくいくかどうかは別にしてね。やっぱ横から来たミサイルに「チュドーン」って(笑)。

庵野 馬鹿な死に方を(笑)。

幾原 そう、そういう死に方っていうのはよくするみたいだけど。

小黒 それこそギュネイになってしまうよ。

幾原 ギュネイの死に方は痛いほどよく分かる。

小黒 哀れよな。

1993年12月14日 新宿にて

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