『喜びはどれほど深い?』(ポール・ブルーム著、インターシフト)を読む。
飢えを満たす、セックスをするといった動物と共通した快楽から芸術鑑賞や宗教、マゾヒズムなど人間ならではの快楽に至るまで様々な快楽を人間は貪るが、その喜びはどこからくるのかを心理学者である著者が語る。前著『赤ちゃんはどこまで人間なのか』で解説した知見を踏まえ、人間の喜びには本質主義的なものがあると説く。喜びの多様な側面があることから、これは生物進化のプロセスを経て生まれるものではなく文化の産物だとする主張があるが、著者はそうではなく、たいていの喜びは発達初期に出現し、人類に共通した普遍性があるという。しかし著者は喜びを適応主義的に解釈するわけではない。社会生活の中で味合う多くの喜びは適応の副産物であるとする。私たちは複雑な世界を生き抜く上で本質主義的見方を進化させたが、その本質主義が生存や繁殖とは無関係な方向に私たちを駆り立てている側面があるのだ。
本質主義は私たちが食べ物を味わったり、セックスをするときにもそこから得られる感覚を左右する。性的は反応は相手の容姿に左右されるが、それ以外に男女の別、血縁者か否か、処女かどうかによっても影響される。ここで著者は心を性選択によって形成された、相手を喜ばせるための話術や人間的魅力やユーモアを揃えた娯楽の中枢かもしれないという興味ある見方を提案している。この本質主義的見方からどうして特定の個人に恋する個別性が出てくるのか、偶然性や不合理性でかたづけずにどう説明するのかが問題だろう。
物に対する愛着については、自分が選択したり、所有していたりする物には愛着が芽生え、有名人や愛する人が所有している物には特別な感情を抱くこと、市場での取引というのは人間としてはもっとも不自然に映ることが述べられている。これは最近の経済のグローバル化に対する拒否反応を考える上でも興味深い。
芸術については、どういう人間がどれほどの創意工夫をこらして作品を創造したか、つまりパフォーマンス性が重要であることを、贋作事件などを例にとりながら説明する。このパフォーマンスという点で芸術とスポーツ競技は類似点があるという。続く章ではフィクションの喜びについて考察される。子供がごっこ遊びに興じ、大人も文学や演劇などフィクションを好むことについて、適応主義的な説明を紹介しながらも、著者は物語に喜びを感じる能力は、現実と想像を完全には区別しない人間が誕生したときに、無償で手に入ったものだとする。人間はフィクションであることが分かると安心してその世界を楽しめる反面、予測できてしまうとその楽しみが削がれてしまうことがあり、子供が純粋に虚構を楽しむのはこの予測性が未熟だからだ。フィクションの中で人は敢えて怖い物や残虐なものを楽しんだりするが、安全な訓練だという説に対して、著者は恐怖などが基本的に制御可能で、終わったときに感じる喜びがこれに勝るからであり、マゾヒズムについても同じ理由から人はそこに快楽を見いだすのだろうとしている。
宗教については物事の深奥に隠された本質に触れたいという人間の欲求の表れだとしているが、宗教的畏怖の感情については、適応的な説明は退け、事象の説明に対して満足を得るというシステムが圧倒されたときに感じる偶然の産物であろうとしている。この超越的な本質を求める欲求は科学的営為を駆動する要因にもなっているのであろう。
人の心のどこまでが適応的に説明できるのか、尽きない興味をかき立ててくれる本である。

Reply · Report Post