みなの頭をひとつにして
自分たちの子どもに
いかなる暮らしを与えればよいのか
ひとつじっくりと
見極めてみようではないか。

シッティング・ブル(タタンカ・ヨタンカ)
ハンクパパ・スー
Sitting Bull ( Tatanka Yotanka ), Hunkpapa Sioux




 すべてのものはワカン(聖なるもの)である。もしわれわれが自らを浄化したいと真に願うなら、そのことを深いところで理解しなくてはならない。なぜなら、物に秘められた力、あるいは行いの持つ力は、その意味のなかに、そして理解のなかにこそ、あるのだから。

ブラック・エルク
オグララ・スー
Black Elk, Oglala Sioux




 神聖な物事について話をするときには、われわれはあらかじめ捧げものをすませて、めいめいの下準備をしておく‥パイプがつめられ、火をつける役の者にまわされて、それからそのパイプが大空と大地にささげられる‥そしてそれをみんなが共にふかす‥それがすめば、はじめてそこで、みんなも口を開く準備が整ったということになる。

マト・クワピ(熊が追いかけられて)
サンテ・スー
Mato Kuwapi, Santee Sioux




 いのちとはなんだろう? それは、夜の闇のなかでまたたく蛍の火。それは、冬場にバッファローの吐く白い息。それは、夕暮れの草むらを走りぬけていずこかへと姿を消した小さな影。

チーフ・クロウフット(イサポ・マキシカ)
ブラックフット
Chief Crowfoot, Blackfoot




知識は
風のようなもの‥
それが自分のものになれば
すきなところへ行くことができる。

イエロー・ホース(タシューケ・ヒズィー)
ヤンクトナイ・スー
Yellow Horse, Yanktonai Sioux




 できる事はいつでもやりなさい。自分のなかにあるもののすべてを知り、それを引き出して、ひとびとに、とくに子どもたちに、理解してもらいなさい。そうすれば子どもたちがこの道を途中であきらめることはありません。天にいるわれらの父が、わたしたちを創造されたとき、彼はわたしたちに、肉体だけでなく、考える頭も、お与えくださいました。わたしたちに頭をくださるとき、彼はまたとない贈り物も授けてくれました。わたしたちの「頭が考えていること」は、もともと彼のものだったのです。それは特別なものです。聖なるものです。わたしたちの頭は聖なるものであり、わたしたちにはそれに対して義務を負っています。このことを忘れてはなりません。つねに最善をつくしなさい。やってやれないことなどないのです。わたしたちの師は、最初の師であり、同時にあらゆる教師の先導者です。ですから、「できない」などと、口にしてはなりません。自分の才能を隠してはなりません。あなたの頭のなかにあるものを、ことごとく引き出して、みんなに理解してもらいなさい。

エズィー・パリッシュ
ポモの精神的指導者
Essie Parrish, Pomo Spiritual Leader


(北カリフォルニアに暮らしていたカシャヤ・ポモ一族の女性で、十三人の子どもを育てるかたわら、一族の精神的指導者を七十年間つとめたネイティブ・アメリカンを代表する女性指導者のひとり。予言者であり、夢を見る人であり、病気を癒す人であり、聖職者であり、バスケットを編む人。彼女は六歳のときに一族の人たちから夢見人として認められた。1903-1979)




 われわれが「ワカン・タンカ」と呼ぶ「偉大なる精霊」から、万物をひとつにつないでいる大いなる生命の力がもたらされている。その力は、すべてのもののなかを巡り、通り抜ける。大平原に咲く花たちのなかにも、吹き寄せる風のなかにも、岩のなかにも、木々のなかにも、鳥たちのなかにも、動物たちのなかにも、それと同じ力があり、最初に作られた人間にもまた、最初の息とともにその力が吹き込まれている。かくのごとくして、ものみなすべてが親類であり、そのすべてのものが同じ神秘によってひとつにつながっている。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




 すべての生き物も、あらゆる植物も、ことごとくが太陽からいのちを受け継いでいる。もし太陽がなければ、世界は闇につつまれたまま、なにひとつ育つこともなかった。地球は生命のない星だった。だが、太陽は、地球の力添えを必要としていた。太陽の働きだけでは、動物たちも、植物たちも、ひどい暑さでみな死に絶えていただろう。だが、そこには雨をもたらせる雲があるし、太陽と地球が共に助け合うおかげで、いのちに欠かせない湿り気がもたらされる。植物は地中に根を伸ばし、根は深く深く伸びていけばそれだけより多くの水を見つけた。これは「自然の法則」に合致したもので、ワカン・タンカの叡智の証しのひとつでもある。動物も植物もやるべきことをワカン・タンカから学ぶ…そのようにしてあらゆる生き物も、すべての植物も、みななにかの役に立っている。

オクテ
テトン・スー
Okute (Shooter), Teton Sioux


(オクテとは「射る人」を意味する)





 インディアンは祈ることを好んだ…彼と大いなる神とのあいだにはなにも存在していなかった。瞬時にして両者はふれあうことができ、その関係は個人的なものであって、ワカン・タンカの祝福は、さながら空からの雨のごとく、インディアンの頭上にふりそそいだ。ワカン・タンカというのは、超然としているものでもなく、隔たれているものでもなく、ましてや求めて悪の力をこらしめるようなこともなかった。動物たちや、鳥たちにたいしても、彼は、罰など与えたことはなく、同様に、人間を罰したこともなかった。彼は、お仕置きをするような神ではなかったのだ。だからこそ、善の力のうえに君臨する悪の力に関してなど、一片の疑問すらおこりようもなかった。支配する力はただひとつのみであり、それこそが善なのであった。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




 万物は個々に特性を有しており、われわれとの違いがあるとすれば、それはその姿形にすぎない。知識は生来のものとして、あらゆるものに備わっていた。世界はひとつの図書館であり、われわれ同様、地球の嵐や祝福を分けあう石や、葉や、草や、川の流れや、鳥たちや、動物たちが、そこの書籍だった。われわれは、自然の学徒のみが常に習うこと、すなわち「美を感じること」を学んで身につけた。だから、なにがきたにせよ、必要に応じた一層の努力と頑張りで、不平も口にせず、自分自身を適応させた。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




 すべてのいのちあるもの、ありとあらゆる植物、それらはどれもがなにかに恩恵を与えている。ある種の動物は、的確な動きで、その目的を達する。カラスも、ハゲタカも、ハエも、おのれの使い方ではいくぶん類似しているし、ヘビですら、その存在には目的がある。動物たちは、山野をさまよい歩いたあげく、おのれにふさわしい場所を見つけだした。

オクテ
テトン・スー
Okute (Shooter), Teton Sioux




 動物も、植物も、自分がなにをなすべきかを、ワカン・タンカに教えられている。ワカン・タンカは、鳥たちに巣の作り方をお教えになったが、それでも全部の鳥がみな同じ巣を作るわけではない。ワカン・タンカは、鳥たちに、単なる輪郭をお与えになる‥すべての鳥たちは、たとえそれが同じ種であったとしても、どれもけして似てはいないし、同じことが動物にも、また人間にもあてはまる。なぜワカン・タンカは、二羽の鳥を、あるいは二匹の動物を、または二人の人間を、なにからなにまでそっくりにお作りにならなかったのかというと、それらがひとつの独立した存在として、自らをよりどころにするようにと、ワカン・タンカがそれぞれをここに置かれたためなのだ。

オクテ
テトン・スー
Okute (Shooter), Teton Sioux




 春の訪れだ。大地は太陽に抱かれて喜んでいる。われわれはじきにその愛の結果を見ることになろう! 種という種が目を覚まし、動物という動物もまた、ことごとく活動をはじめる。こうした霊妙なる御力の働きをとおして、われわれもまた生かされており、それがゆえにわれわれは、われわれの隣人に、動物とされる隣人たちにも、「この大地に居住する」というわれわれ自身のものと同等の権利を認めざるをえないのだ。

シッティング・ブル(タタンカ・ヨタンカ)
ハンクパパ・スー
Sitting Bull ( Tatanka Yotanka ), Hunkpapa Sioux





 われわれが創られたとき、われわれには、そのうえで暮らせるようにと、この大地が与えられた。そしてそのとき以来、自らの大地で暮らすことは、われわれの権利となった。これは、すべてほんとうのことだ‥われわれは、この大地に、創造主によって、置かれたのだ。わたしの知るかぎり、そしてわたしの祖父の知るかぎり、それらはわれわれの権利である‥わたしの口から出たこれらの言葉は、真実以外のなにものでもない。わたしの力は、この土地で獲れる魚からもたらされている。わたしの血は、この土地で獲れる魚から、この土地に生える草木の根っこから、この土地で穫れるさまざまな果実から、もたらされている。川の魚や、猟の獲物は、わたしの生活にはなくてはならないものだ。わたしは異国からここへ連れてこられたわけではない。わたしはまさにここに、創造主によって置かれたのだ。

チーフ・ウェニノック
ヤキマ
Chief Weninock, Yakima




 忘れるでない‥おまえが頼りにできる唯一の御方のことを。天の彼方におられる神秘に満ちた存在、それがおまえの偉大なる祖父である。大地と天空の間に存在するのがおまえの父親である。そしてこの地球は、おまえの偉大なる祖母である。だから地球で育つものは、なにであれ、おまえの母親なのである。

スロー・バッファロー
ブラックフット
Slow Buffalo, Blackfoot




われわれが 踏みしめる大地
この大地は 聖なるものだ
それは われらが先祖の
血であり、肉でもある

チーフ・プレンティ・クープス
クロウ国
Chief Plenty Coups, Crow Nation


(「プレンティ・クープス」とは「戦の場におけるたくさんの勇気ある行為」を意味する。 クロウ族最後の偉大なチーフ。(1848-1932) 現在モンタナ州に彼の名前を冠した国立公園がある。)





息子よ、死に際してのわたしの言葉を、くれぐれも忘れるでない。この土地には、われわれの祖先の亡骸【ルビ なきがら】が眠っている。おまえの父や母の骨を、けして売り渡してはならない。

トゥ・エカ・カス
ネス・パース
Tu-eka-kas, Nez Perce


(チーフ・トゥ・エカ・カスはチーフ・ジョセフの父親。ネス・パース一族は、ほんとうの部族名を「ニー・ミー・プー」といい「真の人間」を意味した。ネス・パースは、川で鮭[さけ]をつかまえて食糧にしていた。)






母なる地球、木々、そして自然にあるなにもかもが、
あなたの考えることとやることの証人である。

ウィネバゴの格言
Winnebago saying


(ウィネバゴとは「泥の水のひとびと」を意味する。アメリカ大陸北東部の川や湖の近くで生活し、ワイルド・ライスをスピリットを与えてくれる穀物と見て大切にした)





 太陽が輝き、水が流れるかぎりいつまでも、この大地はここにあり、人間と動物にいのちを与えつづけよう。われわれには、人間のいのちも、動物のいのちも、売り渡すことはできない。それがゆえに、この大地を売ることもできない。大地は、グレイトスピリットによって、われわれのために、ここに置かれたのであり、われわれがこの大地を売ることができないのは、それがもともとわれわれのものではないからである。

ブラックフットの長老
Blackfoot Elder


(平原インディアン。草原が野火で焼けた後を歩くために履いていたモカシンが黒くなったことから「黒足」と呼ばれた。ブラックフットの人たちは「ナピ」と呼ばれる老人がこの世界と、世界のなかにあるすべてのものをつくったと信じた。すべてが女性たちのみで構成される特別な宗教組織を持つ)




かりにグレイトスピリットが人間にひとつの場所にとどまることを望まれていたのなら、なにひとつ変わることのない世界をお創りになられていたことだろう。だが、グレイトスピリットは世界を絶え間のない変化にむかわせた。おかげで鳥も、動物も、移動ができるようになり、いつだって青々とした草や、熟れた野いちごを食べることもできるし、太陽の光のなかで遊んだり働いたり、夜には眠ったり、夏場には咲き誇る花を、冬場にはねぐらを求めたりと、絶え間なく変わりつづける。すべては善のためであり、無駄なものなどなにひとつとしてない。

チーフ・フライング・ホーク
オグララ・スー
Chief Flying Hawk, Oglala Lakota





インディアンとして生きていくために、どうしてもやってもらわなくてはならないことが、ひとつだけある。それは「祈る」ことだ。見えざるもの、永遠なるものを日々認識すること。毎日の食事よりも、日々の祈りのほうが、はるかに重要なのだ。

オヒイェサ
サンテ・スー
Ohiyesa ( Charles Eastman ), Santee Sioux




 インディアンにとっては、ありとあらゆる生き物たち−−すなわち大地や、水や、空の生き物たち−−に感じる親近感こそが、現実的で有効な行動の指針なのである。動物たちや、鳥たちの世界にたいして、さながら兄弟のような感情が存在しており、一緒にいるだけで、ラコタの者はなんとなく安心感をおぼえたりする。そればかりか、ラコタの者のなかには、羽根を持つ友人たちや、毛皮をまとった友人たちに、それ以上の親近感を抱く者たちもいて、彼らと兄弟の契りを交わし、共通の言葉を話す者たちすらいるほどである。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




 ほんとうのホピのひとびとの力こそが、この地球で真に平和を求めるすべてのひとびとの頭と魂とをひとつにする‥ほんとうのホピのひとびとは、地球のうえでいかに生きるかについての聖なる知識を守りつづける。なぜならほんとうのホピのひとびとは、この地球が、ひとりの、生きて成長しつつある人であり、そのうえにあるいっさいのものが、彼女の子どもたちであることを、知っているからだ。

ホピの平和宣言
The Hopi Declaration of Peace


(ホピは「平和な人」を意味する。アメリカ大陸南西部の高原砂漠にホピの国があり、大昔から聖なるトウモロコシを育てながら暮らしてきた。もっとも神秘的とされる。)




すべてのひとびとの幸福を求めて、その目をこらし耳をすませなさい。今をしか見ないのではなく、これからの世代のことを−−大地のなかからこちらを見上げている、未だ生まれざる未来のくにびとたちのことを−−常に視界に入れるように心がけなさい。

イロコイ六か国連合憲法
Constitution of the Six Nations


(もともとイロコイは、モホーク、オネイダ、オノンダガ、カユーガ、セネカの五つの国の連合体だったが、18世紀初頭にタスカローラがイロコイの土地に移動して合体し六か国連合となった。ベンジャミン・フランクリンやトーマス・ジェファーソンらは、この六か国連合の憲法を参考にしてアメリカの憲法の草案を作成した)




貧しいものには気前よく、そして偉大なる神秘には崇敬の念をと、われわれは教えこまれた。信仰こそ、インディアンがインディアンであるためのすべての訓練の基礎なのである。

オヒイェサ
サンテ・スー
Ohiyesa ( Charles Eastman ), Santee Sioux




肌の色など、たいして重要ではない。ひとりの人間にとって善であり正義であるのなら、当然他の人間にとっても善であり正義であるし、グレイトスピリットは、すべての人間を、兄弟たちとしてお創りになられた。わたしは、肌こそ赤い色だが、祖父は白人だったりする。いったいそれがなんだというのか? わたしを善人にしたり悪人にしたりするものは、肌の色などではない。

ホワイト・シールド
サーニッシュ(アリカラ)
Chief White Shield (1798 -1878) Sahnish (Arikara)


(ロッキー山脈から流れ出し、「泥の川」と呼ばれるミズーリ川にそって生活をしている人たち。平原インディアンに属するが、基本的には農耕定住の生活様式。肥沃な土地で九種類の異なるトウモロコシを栽培した。十八世紀後半から十九世紀前半に天然痘のまん延で多くがいのちを落とした)





偉大なる精霊の
目から見れば
悪人など
ひとりもいない

シッティング・ブル(タタンカ・ヨタンカ)
ハンクパパ・スー
Sitting Bull ( Tatanka Yotanka ), Hunkpapa Sioux




 われわれはこのように教えられた。われわれがあつかわれたのと同じやり方で、すべての人たちをあつかうようにと。約束というものは、けしてこちらから破るような真似をしてはならないと。嘘をつくことは、不名誉なことであると。話すときには、ただ真実のみを話すようにと。代価を支払うことなく、他人の物を勝手に持ってくるのは、恥ずかしいことであると。

チーフ・ジョセフ
ネス・パース
Chief Joseph, Nez Perce




 その人をその人たらしめているのは唯一心である。自分は名をあげた者の後ろに続くのだというその人間の意志、ただそれだけが、彼を最終的にゴールに到達させる。いくら財産があろうと、目的地までたどりつけるとは限らない。必要なのは、頭角を現している人間につきしたがうという本人の意志である。誰であれ、たくわえのまったくない人間は、自分のまわりから、自分よりもうまく事を運んでいる人間を見つけだし、その人間を目指さなくてはならない。自分がそうなりたいという人間の真似をし、その人間のあとをついて回り、その人間の話すことに耳を傾けるようにしなくてはならない。そうすることでのみ、その人間は人生に成功できる。

アリュートの長老
Aleut Elder







インディアンに文字はいらない
まことを伝える言葉は
ハートの奥深くまで沈んで
そこに とどまる
人は絶対にその言葉を忘れない

フォー・ガンズ
ラコタの長老
Four Guns, Oglala Lakota (Sioux)


(1891年に他の二人のチーフとともにさる文化人類学者の家に食事に招待されたときのスピーチの一説で「われわれとの約束の書かれたたくさんの紙がワシントンにあるにもかかわらず、白人はその中身をまったくおぼえていない」と述べた後の言葉)




 自分のティピのなかで、大地に腰をおろして、人生とその意味について瞑想し、すべてのいのちあるものたちとのつながりを受けいれ、万物からなる宇宙との一体感を感得しつつある人間は、まさしくおのれという存在に文明の真髄を注入中なのだ。そして、この発展的行動様式をやめたとき、彼の人間的成長に遅延が生じることになった。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




 わが一族の者たちに、卓越した集中力と抽象力とが与えられていることは承知しているので、すでにこれはどこかで書いたことだが、自然に対するそうした近しさが、スピリットの感覚を、通常は感じることのできないぐらい鋭敏な状態に保ち、見えざる力と通じあうようにしてくれているのではないかと、自分はときおり空想する。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux





 そのラコタの年寄りは賢かった。人の心が自然から離れるにつれて、ぎすぎすしたものになることを、彼は知っていた。育ちつつあるすべてのいのちに対する尊敬の念が失われてしまえば、人間に対する尊敬の念も失われてしまうことを、彼は知っていた。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux





自分を自分たらしめているものをよく守る者は、常に冷静沈着で、人生を襲う嵐に動じることがない。

オヒイェサ
サンテ・スー
Ohiyesa ( Charles Eastman ), Santee Sioux





狩人であり、なおかつ戦士であるものにとって、沈黙は必要なものと考えられているばかりか、それはまた忍耐と自己コントロールの基礎を築くものとも思われている。

オヒイェサ
サンテ・スー
Ohiyesa ( Charles Eastman ), Santee Sioux




悲しみや、病や、死‥あるいは、他のいかなる種類の不幸のただなかにあっても、「沈黙」は尊敬をあらわすものであった。およそ言葉などよりもはるかに力を持つもの、ラコタの者たちにとって、それこそが「沈黙」である。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux





沈黙 それは
肉体と頭脳と精神の
絶対的な均衡
沈黙 それは
人格の礎(ルビ いしずえ)

オヒイェサ
サンテ・スー
Ohiyesa ( Charles Eastman ), Santee Sioux





真実を語るのに、たくさんの言葉はいらない。

チーフ・ジョセフ
ネス・パース
Chief Joseph, Nez Perce




包み隠しなくなく まっすぐに
話さなくてはならない
そうすればおまえの言葉も
さながら太陽の光のように
われらのハートに射し込むことだろう

コチーズ
チリカウア・アパッチ
Cochise ( Shi-ka-she 1815-1874 ), Chiricahua Apache


(ジェロニモと並んで勇猛で名を馳せたアパッチのチーフ)




 父がわたしに話しかけてくるときには、いつも低い声でした。わたしの一族では、親が子どもたちに話しかけるときにはいつもそうなのです。低い声で、静かに話しかけます。きっと子どもは、自分が夢のなかにいるように思うでしょう。でも、そうやって話されたことを、子どもは絶対に忘れません。

マリア・チョーナ
パパゴ
Maria Chona, Papago


(メディスン・ウーマン。現在のアリゾナ州がまだメキシコの一部だったころにスペインの領土とされていた土地で、著名なメディスンマンの家庭に生まれた。アリゾナの居留地でなくなるまで、伝統的な生活様式にこだわりつづけた。バスケットを編む人。メディスン・ウーマンとしてとくに子どもたちのいのちを多く救ったとして一族の間で名を馳せている。1845-1936 )



 とにかく十歳のころには、大地に目をやっても、川の流れを見ても、頭上の空を眺めても、自分の周囲にいる動物たちが目に入っても、それらが「偉大なる力」によって創られたものであることに、気づかないでいることのほうが難しかった。その力のことを、わたしは知りたくて知りたくてたまらなくて、木々や、茂みにも、質問をした。花たちがこっちを見つめているような気がすれば、思わずこう話しかけたくなった。「おまえを作ったのは誰なのかい?」と。

ラコタの長老
Lakota Elder






聖なる言葉は、対象と目的に応じて、口にされる。それも、早朝、いまだ誰も床を踏みしめる者のない家のなかで。あるいは、どこか踏み鳴らされた道から遠く離れて、いまだ人間の足跡すらついていない場所で。あたりまえのこととして使い古された科白(ルビ せりふ)ではなく、スピリットのための特別な言語が、父から息子へと伝えられた魔法の言葉が、そこでは用いられる。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




 ざわついて、話し声がしていたりするなかで、いきなり、せわしなく会話がはじまることは絶対にない。それがいかに重要なことであろうと、いきなり質問したり、答えをせかしたりするような輩は、そこにはいない。まずは考えをまとめるための間を与えることが、会話をはじめたり、場をしきったりするうえでの、真に礼儀正しいやり方である。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




いくら良い言葉であろうと、もし中身がどうでもよいことならば、長持ちなどしない。

チーフ・ジョセフ
ネス・パース
Chief Joseph, Nez Perce




 友情ほど人格を推し量るのに過酷な試練はないと考えられている。なるほど家族や、氏族にたいして忠実でいることは、さほど難しいことではなかろう。なにしろ同じ血がどちらにも流れているわけだから。男女間の愛となると、交尾の本能が底辺にあるものだから、どうしても欲望や利己主義から逃れることができない。けれども、ひとりの友を持ち、しかもいかなる困難に際しても互いに信頼しあえるというのは、まことに男冥利に尽きるものではあるまいか!

オヒイェサ
サンテ・スー
Ohiyesa ( Charles Eastman ), Santee Sioux




 朝、起きたとき、朝の光にむかって、自分に与えられたいのちと、生きる力にたいして、感謝をささげなさい。日々の食べものと、生きることの喜びにたいして、感謝をささげなさい。もし感謝をささげる理由がなにひとつ見つけられなかったとしたら、その責はあなたのなかにある。

テクムシェ
ショウニー国
Chief Tecumseh ( The Panther Passing Across ), Shawnee Nation




 子どもたちの訓練は、黙ったまま静かに座っていること、そしてそのことを楽しむようにしつけられることからはじめられた。匂いを嗅ぐための器官を働かせるように教えられたり、明らかになにも見えないところで目を使って見ることを求められたり、ほとんど物音ひとつしないようなところで、内なる耳を使って聞くことを教えこまれた。黙ってじっと座っていられないような子どもは、子どもとしても半人前なのだ。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




 お恵みいただいたすべての恩恵にたいし、われわれはグレイトスピリットに感謝する。たとえばわたし自身、湧いている泉の水を飲むときには、必ず、ありがたさで心が満たされるのを待ってから、水を口にふくむことにしている。

サウク-フォックス
Sauk-Fox


(部族の国の名前。サウクもフォックスもアルゴンキン語族に属する。サウクは「黄色い大地のひとびと」を、フォックスは「赤い大地のひとびと」を意味し、もともとは北東森林地帯に暮らしていたが移動を余儀なくされ、のちにこのふたつが現在のオクラホマ州で一つに合体して「サウク-フォックスの国」を作った)




真に礼儀正しさが判断されるのは、言葉によってではなくて、むしろその立ち居振る舞いによるのだと、子どもたちは教えられた…昔ながらの礼儀作法のしきたりのもとで育てられた若者は、いまどきの若者のように、のべつくまくなしに勝手に自分のことばかり話し続けているような真似は絶対にしない。そうしたことは無礼であるばかりか、愚かですらある。礼儀のたしなみとして高い評価をうける身のこなしと、落ち着きのなさとは、およそ一緒にできるようなものではない。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




 ほんとうの知恵というものは、ひとびとから遠く離れたところでのみ見つけることができる。とてつもない孤独のなかでだ。そのためにはとにかく苦しまねばならず、遊び気分でいては、まず見つかるものも見つからない。孤独と苦しみが、人間の頭を開く。それがためにエスキモーはひとり遠くに出向いて、そこで自らの知恵を追い求める。

イグジュガルジュク
イヌイット(エスキモー)
Igjugarjuk, Inuit ( Caribou Eskimo )



大きくなったら、もう質問などしてはいけない。よく、見ること。そして、聞くこと。あとは、待つ。すると、答えが、おまえのところにやってくる。そのときはじめて、答えは、おまえのものとなる。学校の勉強とはちがうのだ。

ラリー・バード
ケレス・プエブロ
Larry Bird, Keres Pueblo

(ケレス・プエブロはアメリカ大陸南西部のリオ・グランデ河の流域で暮らしていた農耕定住の民)




注意深く見ること。そうすればそこには必ず得るものがあるはずだ。興味や、好奇心や、感嘆の念がふくらみ、いのちというものが、単に人間にのみ特有の発現ではないという真実も理解される。いのちは、じつにさまざまな姿形のなかに表現されているのである。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




 人生で気づいたこと、それは、誰であれ人間はみな、多かれ少なかれ、自分のお気に入りの動物や、木や、草花や、あるいは特別な場所を持っているということである。もしひとびとが、自分の選んだものにいま少し注意を払い、心惹かれるものにたいして、自らを価値あるものとなすために、なにをなすのが最善かを探し求めていたならば、その者たちにも、おのれの生を浄化してくれるような夢がもたらされていたかもしれない。まずは自分のお気に入りの動物をしかときめてもらい、その動物のことを勉強してもらって、そのけがれなき無垢な生き方を学んでいただこうではないか。その動物のたてる物音や動きの意味するところを理解してもらおう。動物の方だって、人間と話をしたがってはいるのだが、ワカン・タンカのお計らいで、互いに直接には言葉を交わせないような仕組みになっている。双方のゆるぎない理解のためには、人間さまに、どうしてもやってもらわなければならないことが多々あるのだ。

ブレイブ・バッファロー
ブラックフット
Brave Buffalo, Blackfoot




 考えすぎると、きまって厄介なことになるのだ。われわれエスキモーは、あらゆる謎を自分ひとりで解こうなどとは思わない。だから、昔から伝えられている物語を、昔から伝えられているとおりの話し方で、それもわれわれ自身がいつでも思い出せる言葉を使って、何回も何回も、繰り返す。

オルロ
イグルィク・エスキモー
Orulo, Igluik Eskimo


(イグルィク・エスキモーは「真夜中の太陽の土地」と呼ばれる極北に暮らすひとびとの集団のひとつ。基本的に「海の人」で、冬場は雪の家で過ごす)




 野営地のたき火のかたわらで、子どもたちに大切なことを教えた昔ながらのやり方に、わしは、今もなお、こだわりを持ちつづけている。朝早く子どもたちをたたき起こして、さっそくこんなことを諭したりする。「子どもたちよ、よいか、人生という旅の道中で、人を傷つけたり、悲しい思いをさせることは、絶対にしてはならん。反対に、人を幸せな気分にすることなら、いつでもやってかまわんぞ」

ウィネバゴの長老
Winnebago Elder




 子どもの教育は、男子であれ女子であれ、まずは両親が一緒にこれをおこなった。そして子どもたちが十代になるころには、この大地のうえでどうにか生き延びられるだけの必要な技術はあらかた習得できた。十代を過ぎた若者たちは、家族のなかで、また一族の共同体のなかで、今度は知的な成長と、社会的な成長のために、精力を傾けることになる。

メイヤー・ホブソン
イヌピアグ・エスキモー
Mayer Hobson, Inupiag Eskimo




 おさな子に母親が最初に教えるものは「沈黙」と「愛」と「尊敬」の三つである。この三つは、三つでひとつであり、子どもに与える最初のレッスンの根幹となるもので、のちのち母親はそれら三つの基礎のうえに「寛容」と「勇気」と「純潔」を加えていく。

オヒイェサ
サンテ・スー
Ohiyesa ( Charles Eastman ), Santee Sioux




 ラコタの子どもたちも、ほかの子どもたちと同じように、あれこれと質問をあびせかけた。これに対し、わが一族の長老たちは、持てる能力のすべてを出し切って、じつに丁寧に、そうした質問のひとつひとつに答えるようにしていた。若く、探求心に燃えていたわれわれは、自然界の現象のありとあらゆることが知りたくてたまらなかった。星たち、月、空、虹、暗闇、そのすべてが不思議と驚きだった。実は大地に横たわってそのようなことをあれこれといつまでも考えていた記憶が、わたしにもある。あの時の星空はこの上なく美しかった。そうした自然現象にまつわる子どもたちの質問に対する答えは、多くの場合、年配者が語る物語のなかで、解き明かされることになっていた。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




 人間は歳をかさねてくると、文字どおり「土を愛する」ようになった。年寄り連中が地面に座り込んでいたり、地面に横になって休んでいたりしていたが、あれも大地の持つ「いのちを育む力」をすぐ身近に感じてのことなのである。大地に直接触れることは皮膚の健康維持にもよく、年配の人たちはモカシンを脱ぎ捨てて、聖なる地球のうえを裸足で歩くのを好んだ‥土は人の気持ちを静めてくれ、力を授け、浄化し、そして癒しを与えてくれた…

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




われわれの部族の慣習として、わたしの祖父の代まではつづけられてきたことですが‥子どもたちのひとりひとりに、教育係があてがわれていました。祖父も、そうやって自分の祖父母を教育係として育ちました。子どもたちはそれぞれが達人のもとで訓練を受けたのです。幼い子にものを教えるのは、両親のつとめではありませんでした。それは年長者の仕事でした。そうした長老たちというのは、狩猟や、生き抜くためのありとあらゆることに長じているばかりでなく、偉大なる創造主の祝福について教えることにもすぐれていたからです。

アレックス・サルウスキン
ヤキマ
Chief Alex Saluskin , Yakima

(二十世紀を生きたヤキマの偉大なチーフ。ワシントン州に一族の名前を冠した町がある。ヤキマは入り江の人たちで、カヌーを巧みに扱って遠くまで旅をした。一九六八年に乗員二千人を超す大型カーフェリーが就航し、ヤキマと命名されたとき、祝典に参列したチーフ・アレックス・サルウスキンは、「こんなに素晴らしいカヌーに乗れる機会を与えてくれたことに感謝する」とスピーチをした)




おまえの一族の人たちのために、なにごとかを−−それをするのが骨の折れるようななにかを−−なすように、心がけなさい。おまえの一族の人たちを哀れみ、おまえの一族の人たちを愛しなさい。貧しき人がいたら、助けなさい。彼と、その家族に食べるものを与え、さらに彼らが必要とするものは、なんであれ与えなさい。おまえの一族の人たちのなかに、もし仲たがいがあるならば、あいだにはいってとりなしなさい。

ウィネバゴの長老
Winnebago Elder




居留地の日々がはじまって以来、今日までずっとわたしに無理強いされつづける「文明」だが、それはわたしの「正義感」にも、「生きていく権利」にも、また「真実と正直と寛容への愛」にも、なにひとつ影響をおよぼすことがなかったのみならず、同様にわたしの「ワカン・タンカへの−−ラコタにとっての神である存在への−−信仰」が、それによって微塵も揺るがされることもなかった。というのも、つまり、すべての偉大なる宗教とされるものが説教したり、解釈したり、もしくは聡明なる学者たちによって解明されたり、もしくは書物のなかに書き留められ、華麗な言語と華麗な表装で飾りたてられてはいても、とどのつまり人間というものは−−すべての人間は−−今もなお「偉大なる謎」と向かい合っているにすぎないからである。
 であるから、もし今、今日という日に、まだ若々しい頭脳を持った自分が「人生という長い旅路」に出発することになったと仮定して、そこで自分の父親や、その父親の父親たちが歩いた「自然の道」を選ぶか、今日のような「文明の道」を選ぶかのふたつにひとつの選択を迫られたとしたら、おそらく安心して暮らせるということを考慮したうえで、いささかのためらいもなく、わたしは、おさな子の足を、わが父祖たちがたどっていった小径へむかって踏み出させていたことだろう。ぜひ彼を一人前のインディアンとして、立派に育てあげたいものではないか!

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




われわれは信じる。所有物への愛着こそが、打ち勝たねばならない弱点であると。それは物質的な部分に訴えかけ、そのまま放置すれば、早晩、その人間の精神的な均衡(バランス)を乱してしまう。子どもたちは早いうちに、物惜しみしないことの美点を、学ばなくてはならない。

オヒイェサ
サンテ・スー
Ohiyesa ( Charles Eastman ), Santee Sioux




偽りの衣装を身にまとうことは、その人間のスピリットを痛めつけ、調和を乱し、当人を愚かにするだけでしかない。わたしからアメリカ・インディアンに与える忠告は、ゆめゆめ一族の衣装を失ってはならないというものである。

ルーサー・スタンディング・ベア
オグララ・スー
Luther Standing Bear, Oglala Sioux




 緑の山々のほうが、石でできたビルディングより、いつだってずっと美しい。都市の生活は、なにからなにまで人工的ではないか。自分の足の下にある本物の土の感触を知ることすらないたくさんの人たち。植木鉢で育つ植物しか見たこともないたくさんの人たち。夜間の街灯の光のせいで、心奪われるような満天の星空にまで、とても目の届かないたくさんの人たち。グレイトスピリットがお創りになられたそうした光景から遠く離れて暮らすとき、ひとびとは偉大なる精霊が定められた掟をいとも簡単に忘れてしまう。

タタンガ・マニ(歩くバッファロー)
ストーニー・インディアン
Tatanga Mani (Walking Buffalo 1871-1967 ), Stoney Indian


(白人の宣教師に育てられたが、ネイティブであることを最後まで忘れることなく、もっとも困難なときに一族のチーフとなった。これは87歳のときにロンドンに渡っておこなった演説の一説。)




 偉大なる曽祖父よ、われわれは承知しています、あなたがお創りになられたすべてのいのちのなかで、ひとり人間家族だけが、聖なる道を踏み外してしまっていることを。引き離されているのがわれわれであり、聖なる道のうえを歩くために、もう一度ひとつにならなければならないのが、ほかならぬわれわれ自身であることを、われわれは承知しています。

オジブウェイの祈りの言葉
Ojibway prayer


(オジブウェイはネイティブ・アメリカン最大の語族であるアルゴンキン語族に属する。それらにはアルゴンキン、ブラックフィート、シャイアン、アラパホ、マイアミ、ミックマック、デラウエア、ショーニー、ポタワトミ、メノミニ、サウク・アンド・フォックス、クリー、オタワ、オジブウェイのひとびとがふくまれる。またオジブウェイは「チペア」「チッペア」などとも呼ばれることがある。)





わが一族の父祖たちが生存を賭して闘ってくれたおかげで、われわれも今のような暮らしを楽しむことができる。だから彼らに感謝をし、彼らがなにのために命をかけたかを忘れないようにするぐらいは、せめてわれわれもすべきではなかろうか。過去を振り返り、彼らがいかに傷ついたかを知ったのちに、現在の、快適で、素晴らしい機会が家の扉を叩いてくれる暮らしを、あらためて見なおしてみるがいい。そして「おのれの未来は、おのれの頭で考えるべきもの」という事実を受けとめる覚悟をするのだ。

トム・レーション
ナバホのメディスンマン
Tom Ration, Navajo Medicine Man


(1901- 1987。ナバホの「そびえたつ家氏族」に生まれ、1914 年には初めて電気が灯るのを目撃した。聖者。メディスンマン)





 あのエルダーたちをご覧。この大人たちの会議のお目付役は、実はあの人たちだ。くれぐれもここで話して聞かせていることを忘れるでない。この話をしっかり心に留めておくのだ。そしていつかおまえがあそこにいる人たちと同じぐらい年をとったら、今と同じように、今度はおまえが、おまえの息子か娘たちに助言を与えることになろう。そのとき、おまえのスピリットは、遥か北の空にそびえ立つ。さながら星たちのように。

ルイセーニョの長老
Luiseno Elder


(ルイセーニョは現在のカリフォルニアの最南部、メキシコとの国境近くの太平洋沿岸地域にくらしていたひとびと)




わたしの言葉は、偉大なる山々と、そして偉大なる岩のひとつひとつと、さらには偉大なる木々と、固く結びつけられています。それはまたわたしのこの体や、わたしのハートとも、ひとつにつながっています。

ヨクートの祈りの言葉
Yokuts Prayer


(現在のカリフォルニアのかなりの地域で、豊かな食糧資源に支えられておよそ八千年以上前から暮らしていたひとびと。川や湖をカヌーで旅した。ヨクートとは「ひと」という意味。動物が人間になるという信仰を持っていた)




 その人たちに、いのちを与えたものは、風。わたしたちにいのちを与え、今わたしたちの口をついて出るものも、風。風がやむとき、わたしたちは死ぬ。今でも指先の皮膚のしたに、風の道が、見える。それはわたしたちの祖先が創られたときに、風が吹いていたことを、今に伝えている。

ナバホの詠唱
Navajo chant



羽田空港を飛び出した鹿児島空港行きの13便は富士山のお鉢の真上をよこぎった。人生で初めての経験でとてつもない秘密を見てしまった気がした。

鹿児島空港でUA

悟りを得た人間と野蛮人とを隔てるものはなにか? 文明といわれるものは、言われるほど違うものなのか、それとも野蛮に毛がはえた程度のものなのか。H.メルヴィル

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