5月1日:覚え書き


日曜日のヘルパーさんが今日から変わる。ヘルパーさんもいろいろ。1時間でできる作業量も人それぞれ。こちらもいろいろ気を遣う。最近は介護保険のほうで精神的に参ってしまう人が多い印象。高齢者の利用者にとって、介助者とのコミュニケーションは極端になりがち。ヘルパーさんは召使いではない。


しかしかといって、高齢者の利用者がなぜ介助者とのコミュニケーションに支障を生じるのか、という部分にきっちり向き合わないと介護保険制度全体がゆらぐ。医療も同じ。個人情報に抵触するので簡単には書けないが、利用者にも介助者にも医療者にもほんとうにいろんな振る舞いがある。社会のように。


最たる大問題は、制度の決定プロセスで、本人(または家族)が疲弊しきってしまう、追い詰められてしまう、制度から排除されてしまう、社会不信に陥ってしまうことだよなあ。


日本の障害者運動史をふりかえれば当然のことだが、脳性まひのひとたち、ALSのひとたち、特有の「世界」が形成されている感もある。すなわち否応なしに重度心身障害者としての言説をもたざるを得ない人びとの感覚を、彼らの声の粘り強さと大きさを、制度の細部に感じる。


いっぽうで、医療の言説の「谷間」で、制度から排除されてきたその他大勢の難病患者は、医学と障害学のあいだでいかにも中途半端な、まるで「透明な存在」のように、この社会に存在しないかのように振る舞ってきた。難病患者団体は多いが、医療者と障害運動の深い断絶の中で、まさしく声を殺してきた。


言葉がなければ、社会は認知しない。正直な感を述べれば、医療者の責任は、重い。先生たちは自分たちこそが難病患者の「救世主」だと思っている。自分たちが患者を教育し、本音では対等な話し相手だとは、思っていない。難病患者は医療者に依存せざるを得ないから、逆らえない。拝むしかない。


「拝まれている」ことの自覚がないことについて、無自覚な「善意」において、医療界の責任は、おそらくきわめて重い。なんとなく人類のヒエラルキーのトップにいる感じがするし、実際激務でタフでえらいし、超頑張っている。それを「こうあるべき」と周囲に押し付ける傾向があることに無自覚なんだ。


同時に、アカデミックな社会科学の先生たちの頼りなさも、これも、きわめて重い。先生たちは頭がいいので、肝心要の局面でするーりと「逃げる」。根本的な信頼関係が築けないのは、やはり、ここでも対等な話し相手と思われていないことを、先生たちが「逃げる」ことを、もはや人は敏感に察知している。


自己実現や自己承認などとしてではなく、ただニーズと本音を語る場所が必要なのだが、それすらが確保できないのが現実なのだ。自己承認の議論が先にきて、本来最初にするべき制度設計とニーズの話がぼやかされてしまう。永遠に自己承認のループ、孤独と孤立のループに、人がはまりゆく。


そしてたまたま運よく「いいひと」に会ってなんとかなったとしても、それは「運」なのだ。「いいひと」の偶然性が人の生死を分けるとは、それはおそらく、悲劇・美談の二項対立によって成立する、もっとも不幸な姿のようにも見える。


現状での、自己承認や、生きがいの議論というのは、末期的というか、どこまでいっても行く先はないと思う。人の心は、変わるものだ。社会保障設計が中途半端な「いいひと」の顔をしている限りにおいて、抑圧されたまま、あてのない自己承認をただ求め、さまよう。QOLの問題は、もっと即物的だ。


ほんとうの絶望の淵に立ったひとに、「先生」たちがかけられる言葉がひとつもないとは、なんとも、なんとも、かなしいことだと思う。それを、どうにかしたいと思う。


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