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30th Apr 2011 from Twitlonger

「瓦礫(がれき)の中から言葉を 作家・辺見庸」

ETVこころの時代~宗教・人生~
2011年4月24日、30日(再)放送。
番組後半、インタビュー部分の書き起こし。

http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2011-04-30&ch=31&eid=8092



 今流されているテレビのニュースの言葉。あそこに事態の本質に迫る、本質に近づこうとする言葉はあるだろうか。今、表現されている新聞の言葉の中にこの巨大な悲劇の深みに入っていこうとする言葉があるだろうか。

 モノ化された人間、つまり人が一体としての身体の形を留め置かないもの、部位としての人間しかないものが多数あったわけだけれども、それをないことのように映してしまう。それは人を救っているようで、ひょっとしたら違うのではないか。人はある日突然全くゆくりなくモノ化してしまうという哲理をメディアは無視する。それは逆に畏れ多いことではないか、死者に対する敬意が逆にないのではないかとさえ思う。

 私も四半世紀以上メディアの世界にいたからよく分かる。オリンピック。戦争。メディアにいる人間は、個が個たり得なくなる。誰も異を唱えなくなる。まるで一緒に戦っているかのような顔つきをする。

 3月11日を境に一週間か十日、テレビからCMが消えた。政府広告のようなもの、人に優しくしよう、みたいなキャッチフレーズが気が狂わんばかりに何度も何度も流されていく。今度は優しさを押し売りしてくる。あれは裏返して言えば、311以前の、予感のない表現世界、それと変わるところがない。皆でとにかく人を出し抜いても金儲けしようと言ってきたじゃないか、と僕は思う。そのことにあなたがた表現世界は奉仕してきたじゃないか。投資に乗り遅れるな、ハイリスク・ハイリターンだと言ってきたじゃないか。そのための映像をあんたがた作ってきたじゃないか。そのための言葉を詩人たちも無警戒に作ってきたじゃないか。誰がそれに異を唱えたか、と僕は言いたい。

 人が買い占めに走る。それを今頃になって醜いと言っている。でも、すでにその姿はあった。3.11よりもはるか以前からあった。そのような世界に我々はずっと生きてきた。だから言ってる。そこには持つべき予感をむしろ排除するものがあった。

 破壊に至った時、それを予感しなかった責任は誰が問われねばならないか。それは私であり、文を紡ぐ者たち――自称であれ、他称であれ、大家であれ、名もない者であれ――、詩人たち、作家たちは、全員がその責めを負わなければならない。私たちはもっと予感すべきだった。書くべきだった。

 僕は今もちろん怒っているけれども、怒ることは無意味だと思っている。書こうと思う。僕の誠実さはそれでもって証すしかない。拙いけれども。これだけの出来事、それ以降の出来事に、僕の筆力は追いつかないだろう。到底追いつかないことは分かっている。けれども試みる。それが亡くなった人たち、痛んでいる人たちに僕ができるおそらく唯一のことであると思う。

 われわれはもともと、有るか無きかの言葉を持っていたけれども、それでもこの瓦礫の山、焼け爛れた、汚水に沈んだ、放射能の水たまりに浸けられた瓦礫の中に、われわれが浪費した言葉たちのかけらが落ちている。それをひとつひとつ拾い集め、水で洗って、もう一度抱きしめるように丁寧にその言葉たちを組み立てていく。それは可能ではないかと私は今思っているし、そう思いたい。

 焼け爛れて撓んで、水浸しになった言葉をひとつひとつ屈んで拾い集めて、大事に組み立てていって、何か新しい言葉にする。言葉というのは単なる道具ではない。言葉というのは人に対する関心の表れだ。

 自分たちが、あるいは失われた命が、世界のどういう位置にいるのかということを分からせてくれる言葉を発することができれば、人の魂、今生きている魂、そしてこの宙に浮かぶ亡くなった人の霊がもっと休まるのではないか。それを持ち合わせていないから、こんなにも不安で、切なくて、苦しくて、悲しくて、そして虚しい、空漠としているんだ、と私は思う。

 その中には、もう戻りはしないであろう日常を、何日かすれば、何ヶ月、何年かすれば戻るに違いないという暗黙の了解のようなものがある。しかし、私はそうは思わない。私の、全く一個人の物書きの予感のようなものをここで誤解を恐れず言えば、そのような日常は戻りはしない。私は不安を煽るために言っているのではない。戻れるような規模ではなかった。もし、かつての日常がかつてと同じように戻って、また文章家たちが商品を売るために文を提ぐ、魂を売る、万物を商品化していく、そのような日常にまた舞い戻るとしたら――私は舞い戻らないと思うけれども――、舞い戻ることにはほとんど意味がないとさえ思う。

 絶望ということを私は何度も考えた。絶望できるというのは人のひとつの能力である。そして、今ある絶望をもっと深めていくというのも能力である。それが弁証法的に言えば、新しい可能性への糸口になっていくのではないか。
 絶望を浅い次元で、あるいは悲嘆を浅いままに終わらせて、自分のエネルギーを燃えつくすのは違うと思っている。何とかそこを一歩踏み出して、深めていく。悲しみをもっと深めていく。絶望をもう一段深めていく。自分の魂、自分の悲しみの質に合った言葉を、言(げん)を探して、それを人連なりの表現にしていく、それが絶望から這い上がる糸口になるのではないか。だから、絶望と悲嘆は留め置かない。それをそれとして留め置くのではなく、逆にむしろ深めつつ言語化していくという作業が、若くても必要だ。

 われわれはそれでも生き残った。あるいはこうも言えるかもしれない。生き残ってしまったと。あの震災の破局のただ中にいる人は――私の友人もそうだし、彼らからそう聞きもしたが――、生きていることは偶然なのであって、あの光景にあっては死することが当然なんだ、生きていることがたまたまなのであって、死ぬることが普遍なんだ、というような、3.11以前とは全く違うパラドクシカルなことを言う人もいた。でも、私はこの、ひっくり返ったような表現は、一面どころか半面の真理を語っていると思う。われわれはそれを、少なくとも思想の中に含みもってもいいのではないか。

 やはり私は、いつどこに向かって歩き出せばいいかという設問をするときに、言葉は必要であるというふうに思う。

 私たちを見捨てた言葉を、われわれがもう一度回復する必要がある。廃墟にされた外部(外の世界)に対する内部を拵えなければならない。新しい内部を自分の手で掘り進まなければいけない。私の言葉で言えばこうだ。著しく破壊され、暴力の限りを振るわれたわれわれの外部に対して、私たちは、新しい内部を索(あなぐ)り、それを掘らなければいけない。何を言ってるのかと思われるかもしれないが、分かって下さる方もいると思う。

 われわれは、廃墟に佇んで、立ち尽くして、あるいはよろよろと歩き出しながら、新しい内面を拵える必要がある。徒労のような作業かもしれないけれども、それは意味のないことではない。新しい内面を、新しい内部をわれわれは拵える。それは決して、徒に虚しい物理的な復興ということだけではない。あるいはどこか虚しい集団的な鼓舞を語るのではない。日本人の精神というふうな言葉だけを振り回すのではない。もっと私として、私という個的な実存、そこに見合う、腑に落ちる内面というものを自分に拵える。私はあまり言わないが、それが希望ではないかと思っている。
(終)

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