鹿島建設(現・鹿島)は、原子力発電所の建設では圧倒的な業界一であり、判明している限り、高速増殖炉"ふげん"、"もんじゅ"、福島第一原発1・2・3・4・5・6号、福島第二原発1・2・3号、浜岡1・2・3号、伊方1・3号、柏崎1・2・5号、女川1号、島根1・2号、東海1・2号、大飯3・4号、泊1・2号を建設してきた。
その創業一族・鹿島守之助の娘婿・渥美健夫が、前述のように鹿島建設の後継会長となり、その息子・渥美直紀が、原子力委員長・中曽根康弘の娘・美恵子と結婚するという利権の閨閥関係をとりむすんでいた。したがって、"もんじゅ審査委員会"グループの主査をつとめた京大教授・小堀鐸二が、"もんじゅ"建設会社の一族だということになる。

"もんじゅ"の安全性、推進論をずっと語ってきたのが、原子力産業の中心人物、東大教授・鈴木篤之である。"日経ビジネス"96年3月25日号で、鈴木は、中曽根康弘のブレーンだったことを自認する舛添要一、評論家の木元教子と"もんじゅ"事故について対談し、三人でしきりと、「大した事故ではなかったのに、説明がまずかったので大騒ぎになった」という主張を展開した。

この巻町の連続講演会では、木元とともに、東京理科大学教授の久保寺昭子が、6月24日の講演会で、「放射線が原因で癌になるなどということは、科学的に証明されていない」と、非常識をも超える発言をした。

 日本では、この鈴木のように、原子力を"推進する"原子力委員会と、原子力を "監視する"原子力安全委員会の両方にメンバーとして加わっている人間が、"泥棒が刑事をつとめる"と長いあいだ批判されてきた。

彼らが口にする言葉といえば、「原子力が国民に理解を得られないのは、PRが充分ではないからだ」という文句だけである。そしてPRの莫大な予算に、堤灯持ちの評論家と御用学者、売れなくなった芸能人、スポーツ選手が群がっている。

頂点には
エイズを放置した厚生大臣のひとり林義郎が、ほかならぬ中曽根康弘の一族だったことである。彼らは、動燃理事長と原子力委員会委員長代理をつとめた井上五郎の一族でもあった。

石川六郎は、初代の経団連会長で初代の原子力委員・石川一郎の六男として生まれ、鹿島建設創業者一族の鹿島ヨシ子と結婚して、同社の会長となり、93年7月まで日商会頭をつとめた。
薬害エイズを放置した厚生大臣の一人である下条進一郎の妻が、この石川六郎の妹・石川裕代という関係にある。

原田昇左右は、運輸省の官房審議官から政界に転じた官僚出で、静岡一区から代議士となって、89年には海部内閣の建設大臣となり、中部電力の浜岡原発の建設にからんで利権を動かしてきた。中部電力の工事部門のゼネコンはじめ、東芝系列の石川島播磨重工から莫大な政治献金が原田に流れてきたことは、政界と官界で有名である。

サリドマイド薬害時代に厚生省の薬務局長だった松下廉蔵が、いま96年春に、ミドリ十字の最高責任者として「殺人容疑」で告訴され、業務上過失致死容疑で逮捕された。松下廉蔵がミドリ十字の社長だった時期に、同社の非加熱血液製剤クリスマシンを投与された肝臓病の患者が、エイズウィルスに感染して95年暮に死亡したため、遺族たちが松下廉蔵を告訴したのである。しかもこの患者の場合、すでに安全な加熱血液製剤が承認されたあと、非加熱製剤が使用されたのである。この危険な製剤を回収しなかったミドリ十字と、回収を命令しなかった厚生省が、人間を死に至らしめたことは明白である。
 松下廉蔵は、株主代表訴訟でも告発されてきたが、原告たちが裁判所に "当時の経営者会議の議事録"などの資料を証拠保全するように申請したにもかかわらず、ミドリ十字は、それらの重要書類を提出しなかった。実は、松下廉蔵の妻・澄子の兄が、細川内閣の法務大臣・三ヶ月章である。

しかも松下廉蔵と三ヶ月章の一族に、戦前のアジア侵略時代の台湾高官・深川繁治が現われるのはなぜなのか。さらにこの家族を追ってみると、いま述べた反原発ステッカー裁判で判決を下した裁判官のひとり、大西勝也と原子力関係者が次々と姿を現わすのである。

日本では、官僚から天下りして企業の経営者となり、巨大な利益を懐に入れる者が、夥しい数をかぞえる。官僚から政界に転じ、国会を覇府として、さらに大きな利権を手にする慣習がある。

原子力というひとつの巨大産業をめぐって、霞ヶ関の官僚がなぜ執拗にこれを推進しようとするのか、すでにこれまでの章で、かなりの答えが解き明かされた。
 彼らが間違った政策を変更しないのは、ただチェーホフが描いた小役人根性を捨てきれないからではなく、官僚世界の上部に立つ人間たちが、個人生活の利益を追及していたからである。

 また、御用学者が故意に科学をねじ曲げたのも、その官僚と相通じて、個人生活の利益を追及していたからである。

 この背後にあったのは、電力会社という企業体であった。

彼らの場合は、露骨に利権に群がった。原発の建設費がべらぼうに高価であり、出費が多くなるため、電気料金を値上げするよい口実になったからである。
ここに、土建業者と原子炉メーカーが一体となって集団を形成し、分捕り合戦をくりひろげてきた。

梅澤邦臣が科学技術庁の原子力局長だった71年、中部電力最初の浜岡原発1号炉の建設がスタートし、彼は事務次官に昇格した。メーカーの東芝では、その一族として重要な役割を果たした玉置敬三が翌72年に社長に昇格、同じ一族に、初代の原子力委員会委員長・正力松太郎と原子力委員会の委員長代理・井上五郎があった。
 井上は中部電力の社長から、日本原子力産業会議理事、さらに動燃理事長という履歴を飾ったのである。その一族に、浜岡建設業者の鹿島建設・鹿島守之介の姿があった。

鹿島建設副社長・武藤清による超高層ビルの時代が訪れた。いわゆる柔構造によって、日本のように地震が頻繁に起こる国でも、超高層ビルは耐えられる、という理論が横行した。

兵庫県南部地震の大災害によって、これまでの耐震設計理論の基礎は、事実上は崩壊している。

 浜岡原発を建設する計画が出された当時は、東海大地震の恐怖が真剣に語られ、学界でも議論が沸騰した。しかしこのような鹿島建設を中心とする耐震理論の横行と、日本全体に蔓延した経済成長に対する慢心が手伝って、激しい反対運動にもかかわらず建設が強行された。

そこに、有沢広巳と茅誠司と伏見康治の学者グループが動いたのである。
日本原子力産業会議の会長・有沢広巳と日本学術会議の歴代会長・茅誠司および伏見康治、そして鹿島建設の常務・島津武と副社長・武藤清、中部電力取締役・岩波千春は、これほど親しい一族だったのである。

原子力の創始者・茅誠司が、エイズ研究班班長・安部英の設立した「血友病総合治療普及会」の理事だったという無気味な関係がある。また彼は、戦後の学会において、七三一部隊関係者の追及をやめるよう発言している。

原子力プラントの近くに10キロ以上の活断層があれば、すぐに御用学者がやってきて、これを10キロずつにこまかく切ってくれる。切ったあとは、その周辺で大きな地震が起こらない、というわけである。何より雄弁に日本全国のその事情を物語っているのは、「日本の原発50基のうち、大きな活断層があるために建設が断念された原発が1基もない」という歴史的事実である。

地質を調査する前に一度選ばれた土地が、のちに、すべて"大きな活断層のない場所"とされてきた。そのようなことは、この活断層だらけの日本では、本来、絶対にあり得ないことである。電力会社や通産省、科学技術庁、さらに原子力産業お抱えの学者は、ことあるごとに「近くに大きな活断層がないことを確認して建設している」と主張するが、実は、建設計画が始動すれば、その土地では危険な活断層が消されてしまうのである。

 では、なぜ田中靖政がこのような愚見を述べたか、私たちにとっては、その理由を知ることこそ大切である。
 彼は、前記の読売新聞紙上では「学習院大学法学部教授」となっていたが、別の肩書を紹介したほうが、理解しやすい人間である。つまり、「原子力文化振興財団」の理事、「日本原子力産業会議」の理事、「原子力委員会」の専門委員、「原子力安全委員会」の専門委員、「経済企画庁電源開発調整審議会」の専門委員、そして「日本立地センター」の参与である。
 田中靖政の職業は、巻町に原子力発電所を建設すること、そのものだったのである。
 また、原子力を推進する原子力委員会と、その危険性を警告すべき原子力安全委員会を兼ねているとは、"もんじゅ"事故後に日本中で批判されたように、田中靖政本人が、日本の原子力の法制度を最も意味のないものにしてきた当事者で、同時に、原発の危険性を放置してきた責任者であることを意味している。法学者でありながら、泥棒と刑事を兼ねるとは、驚きである。

『腐食の連鎖・薬害と原発にひそむ人脈』集英社より引用

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