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そこは、高架道路を境に天国と地獄に分かれていた。

震災後の2週間が経った3月25日に、被災地である仙台市に、僕たちは行くことが出来た。
同じ被災者でありながら、地元の有志で集まったボランティアチームが僕らを出迎えてくれた。彼らは、独自のルートでガソリンを確保し、自分たちが食べることもままならない震災後の翌日から炊き出しを始めたそうだ。
今では、仙台市のみならず、他の市へも炊き出しや救援物資を避難所などに届けている。
逞しいなんて言葉では言い表すことが出来ないほど、彼らは強く大きく見えた。
一通りの説明を受けた後、僕たちは彼らの先導で、最初に荒浜地区へと入って行った。

高架下を超えて、最初に目にした光景は想像を絶するものだった。
かろうじて立っている大型ガソリンスタンドの天井部分と、鉄筋で出来た建物がそこに町があったことを証明するだけで、それ以外は、泥と瓦礫で覆われ、流され潰された車がそこら中に点在していた。
500メートルほど先に見える防風林は、津波が来るまでは、町の影に隠れて本当は見えなかったそうだ。彼らの説明では、震災後しばらくは電信柱にいくつもの遺体がぶら下がっていたと言う。
本来なら、穏やかな春の日差しに包まれ、海から流れる潮風が心地よく感じたはずだろう。だが、そこは津波によって多くの尊い人命が失われた町の残骸だった。

亀裂が走る自動車道を、車で1時間ほど走らせて僕たちは石巻市に向かった。
途中、山間に点在する被災地でもある集落は、津波の被害がなかったとは言え、地震で甚大でない被害を被っているはずだ。ひっそりと佇む集落を横目に、あそこには水はあるのか…救援物資は届いているのか…
僕の心は不安だけが募って行った。

市内に入ると、少しずつ津波の爪跡が見えてきた。
建物の壁に付いた泥の跡を見ると、被害の大きさを予想が出来る。最初は膝下くらいの泥の跡が、じょじょに高さを増して行き、やがて、1階の天井付近にまで達すると町並みは一変する。
電信柱はなぎ倒され、不自然な形で家と家の間に車が挟まり、信号機は倒れトラックがガードレールに乗り上げ並んでいる。漁船が潰れた車に挟まれ、コンビにの駐車場には幾重にも重なる車の残骸があった。
あまりの非日常的な光景に、僕は自分の感覚が麻痺されて行くことに気付かされた。

トンネルを過ぎ、石巻でも被害が大きかった地域に入ると、まず最初に異臭が鼻を突いた。家々は形を留めて残ってはいるが、1階部分はすべて津波の被害を受け瓦礫と土砂で埋まっている。道路は両側に集められた瓦礫の山に囲まれ、通りを往来する被災者の方々は生気が失われているように見えた。
僕たちは避難所ではなく、街角にある焼肉屋の駐車場で救援物資を配ることにした。
大きな避難所には自衛隊の基地があり、仮説トイレや救援物資も届いている。
しかし、そこに行けない多くの被災者が町には存在している。
想像してみて欲しい、一般的な地方の町並みを。
無数の道があり、地域に別れて多くの住宅や商店があり、たくさんの住人が住んでいる。したがって、学校や施設から離れ場所にいて、避難所に行けない多くの孤立した被災者には、現状でも救援物資が届きにくくなっている。

僕らはトラックからダンボールを下ろし、まるで青空市場のように食材、洋服、雑貨とダンボールを分けて並べていく。
地元のボランティアの方が、救援物資の支給をハンドマイクで告げながら車で町内を一周すると、それを聞きつけ被災者の方があちこちから集まって来た。

僕はその中で、中学生か高校生か、一人の少女に目を奪われた。
ジャージは泥で汚れ、身体からは疲れがにじみ出ていて、何日も洗えていない髪はごわつき、顔はマスクで覆われていたが、何より印象的だったのが、絶望を通り越した何も感じることが出来ないような目だった。
一人で来ているということは、家族と離れてしまったのだろうか…それとも、亡くしてしまったのだろうか…。
そこから、想像出来るものは良いことなんて一つも無く、最悪の状況しか思い浮かばない。
僕は黙々と物資を渡しながら、彼女を横目で追っていた。
そして、順番が来たのを確認すると、彼女は真っ先に赤いチェックの長靴を取った。
その時、一瞬だったが、彼女は微笑んだのだ。
普段なら髪型や洋服に気をつかい、おしゃれを一番したい年頃のはずだ。
だが、天災とは言え想像を絶する恐怖と対面し、乗り越え何とか生き抜いて、何もかも失ったとしても、それでも明日を必死に生きようとしている。
赤ちゃんを抱えた若いお母さんは、必死で哺乳瓶を探し、家族も家もお金も全て失った老婆は僅かな食料と、古いコートを手にして僕に何度も頭を下げて帰っていった。
電気もガスも水道も無くて、夜は深い闇に包まれ、略奪にも怯え、孤独と絶望と恐怖に身を縮めながら、被災者の方々は幾夜も越してきたはずだ。
誰かのお古かもしれない赤い長靴を手にして、微笑む彼女を見たときに、僕は大切なことを気付かさせてもらった。
生きる凄さを。

これが、紛れもない事実で、いま僕たちが生活をしているこの日本で起きている現実だ。
僕らは3箇所で救援物資を配り、ようやくトラックの荷台が空になった。

最後に訪れた避難所は、自治会館のような場所に自然に集まった200人あまりの避難所だった。そこには、ちゃんとリーダーが存在し、子供から大人まで皆が率先して働き、お互いで助け合う一つのコミューンのような場所になっていた。
別れ際にリーダーは、
「最強の避難所を目指すんで、これからもよろしくおねがいします!」
と笑顔で頭を下げていた。
走り出し離れる僕らの車に、皆がいつまでも手を振っていた。

後で聞いた話しだが、実際には、リーダーの彼は津波で妹さんを亡くしていたのだ。
本来なら、悲しみのどん底にいるはずだが、一切見せずに明るく必死に生きようとしている。殆どの人が、とてつもない悲しみを背負って、必死に生きている。

僕らはわずか3箇所の避難所に行っただけだ。
それでも、多くの救援物資を必要としている事実に気付かされた。
では、東北から関東に掛けての太平洋側にはどれだけの避難所があり、どれだけの被災者がいるのだろう。
命を失った方々が何千人、何万人…
避難をしている方々が何千人、何万人…
テレビで観ている僕らは、どこかで、人の命と悲しみを数字として捉えていないだろうか。
そこには、計り知れない悲しみと苦しみがあることを、もう一度それぞれが考えなければいけない。
計画停電や原発も非常に重要で、僕らに直結する大きな問題であることは分かっている。
だが、それ以上に、今この瞬間に苦しみの中で必死に生きている被災者を第一に考え、行動を起こさなければいけないと改めて僕は強く思った。
自衛隊が本格稼動し、救援物資も各地に行き届き始めている。
次に僕らに求められるのは、マイナスになったこの被災地の状況を、まず、ゼロに戻すことだ。
そのために、自分たちに何が出来るのか、それぞれの想像力を駆使し、実行力を発揮し、行動していかなければいけない。
誰かがやることを期待するのではなく、まずは、自分がやるんだと言う気概を持つことだ。
これは、自分以上の能力を発揮するチャンスで、鏡に映った自分を変えるチャンスでもある。

僕らは新しい未来を、創造・想像しなければいけない。

答えは一つしか無いと僕は思っている。

人を思いやる気持ち。

ここから、もう一度社会を構築して行く。

無事に生きている僕たちは、命ある限り、全ての事象は自分に直結していることを想像し、明日を生きるために、今日を必死に生きなければいけない。

それが、多くの尊い命を失った代償として、今を生きる僕たちが胸に秘めなければいけない使命だと強く思った。



震災により、亡くなられた皆様に深い哀悼の意を捧げます。
被災された皆様へお見舞いを申し上げると共に、一日も早い復興を心より願っております。

                     REBIRTH PROJECT 龜石太夏匡


僕たち      石村元希 (株式会社ウィンローダー)
         久保野永靖(J-WAVE)
         丹羽順子 (J-WAVE) 
         関根優作
         龜石 太夏匡 (REBIRTH PROJECT)
         伊勢谷友介 (REBIRTH PROJECT)

仙台市の有志達  佐藤正昭(仙台市議会議員)
         針生信夫(株式会社舞台ファーム)
         島田昌幸(株式会社ファミリア)
         高橋由志郎(株式会社ファミリア)
         児玉龍哉(株式会社ファミリア)
         板橋知春(株式会社スマートメディア)
         原山卓也(株式会社スマートメディア)
順不同

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