福島第一原発、第二原発の現状を見て、さまざまなことを、さまざまな立場の人が考え、思い、発言するだろう。


 わたしの母の生家は、福島第一原発のすぐそばの町にある。築40年以上、日本で現在稼働している最も古い原子力発電所である。

 既に亡き祖父は、戦後1960~70年代、町の一労働者として反原発運動に身を投じていたという。わたしの記憶の中の祖父は、ひたすら寡黙で、何一つ語らない人だった。


 祖父の寡黙を、孫のわたしが想像してみる。

 福島県の浜通り地方の沿岸部は「原発銀座」と呼ばれ、訪ねてみればすぐに気がつくことだが、自治体の規模からすると不可思議な近未来的な大きな公園やさまざまな施設が点在し、原発周辺はいびつにピカピカとしている。サッカーファンならだれもが知っている楢葉のJ-Villegeだって、大きなスポンサーは東京電力だ。

 浜通り地方は、東京電力と国の補助金とともに生きる機能として、日本の戦後の高度経済成長期を支えるためのインフラとして、<設計>されてきた。反対運動に身を投じていた祖父たちの世代の子どもや孫は東京電力の労働者となったり、あるいは労働者と結婚して子どもをもつ。雇用やインフラ、住宅、生活、町そのものが原発の申し子となってゆく。その産まれた矛盾の是非を、誰が問えるのか。

 祖父は、死の床まで、自らや過去を何も語ろうとはしなかった。

 
 今は母の生家とは、いろいろ事情があってずいぶん疎遠になってしまったが。



 欧州をはじめ先進国が原子力発電に再びシフトを切り替えはじめ、南の途上国や新興国に原子力発電所を「輸出」するグローバルな動きが加速しつつあるただ中の今回の出来事は、おそらく、そのストリームを変えるのかもしれない。

 誰が何を言おうが、いいと思う。ただ。津波の「濁流」に流され、死の淵をさまよい、多くを喪い、いま被災地に生きる人たちの1人1人に、わたしの祖父のような、言葉にしようのない、複雑な思いがあることを。原発が、時代の子どもであったことを。

 どう分析しようが、どう言おうが、いいと思う。必要だと思う。ただ。

 
 原発に限らず、これまで、その場所の、その土地のことを決めるのは、そのひとのことを決めるのは。<当事者>のことを決めるのは。いつも大抵、そこには暮らしたこともなく、そこのひとたちを知らない<誰か>だった。この被災を契機に、日本社会の都市設計、社会保障設計の議論がどういう方向性に流れていくのかは、まだわからない。


 <アーキテクト>し、<分析>するという行為は、便宜上不可欠であるということは誰しもがわかっている。だが誰がどうやって決め、本当は誰のために<アーキテクト>するのか。<アーキテクト>する行為の矛盾、その「後ろめたさ」を、誰もが抱えて物語を作る。ただ。


 その、「後ろめたさ」に寄りそい、直視し、それを七転八倒しながら言葉にし、今までとは違うアプローチの<合理性>を愚鈍に必死に考えることに、<わたし>は、悲観的でも楽観的でもない道を見出したい。


 ただ、そう思った。


 あらゆる人に、「言葉」が寄りそうことを。

 現実が、言葉ではない。言葉が、現実をつくる。回路をひらく。

 
 福島の山間部の小さな集落の、母と父が無事に生きていてくれることを。


 大野更紗 (世にも奇妙な物書き&超難病大学院生(闘病休学中)として超ぎりちょん生存がけっぷち、けっこうじんるいげんかいレベルがうちゅうレベルにふりきってる感じの、とりあえずNASAてきな3月13日午前1時に)

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