cocatsu

小勝 · @cocatsu

10th Jan 2011 from Twitlonger

「マスコミもネット論壇もどこもかしこも糞マミレ」他 by宮台真司さん

RT @miyadai: 僕の小沢一郎評価は石原慎太郎氏のそれにほぼ等しいが、そのことと、僕が1983年以降(小室直樹氏の教えを学んだ結果)一貫して特捜検察廃止論者であることは別問題。西村建設&水谷建設問題では(今回の起訴事案に関する限り)小沢一郎氏は百%シロ。特捜に与するか小沢に与するかという図式が糞!

[承前]その意味でマスコミもネット論壇もどこもかしこも糞マミレ。僕の菅直人批判はマル激で激烈に反復してきたからそちらに譲るが、小沢がダメだから菅直人がイイという話でもないのは、特捜vs小沢と同じ。[国民主導・に支えられた政治主導・による行政官僚制の馴致]への戦略的近道を探るべし。

[承前]むろん行政官僚制の馴致(tame/control)は行政官僚制の敵視ではあり得ない。行政官僚上層の政治任用(主に米国)や、政治家の行政省庁出向研修や行政官僚を統制する能力に長けた政治家の無風区へのクニ替え(英国等)が必要。内閣法改正、各省庁設置法改正、政治主導確立法実現…

[承前]しかし重要なのは制度改革よりエートス改革。それには近代国家のハルマゲドンが、国家対国民でなく、国家内における政治家対行政官僚であることを、夙に理解する必要あり。行政官僚は既存プラットフォームを前提にした最適化が最終目標。政治家の最終目標は危機下での既存プラットフォーム変更

[承前]僕は企業献金を含めた団体献金は透明性が前提であれば大賛成。党幹部が透明性を前提としてカネによる支援を政策的・戦略的配慮に基づいて行なうのも大賛成。党のカネに過ぎないものを、不透明さを背景にして「軍門に下る者」にだけ配り、それをもとに恩義を売るのは、単なるペテンである。

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小沢問題のアレかコレか的な頭の悪い空騒ぎの背後に、政治思想史ならびに政策史の知識不足がある。小沢氏の罪は対米追従という抽象問題ではない。牛肉オレンジ協議→大店法緩和&430兆円公共事業(への米企業参入)という具体だ。中間集団の、市場依存と国家依存の両方を加速させる大選択だった。

同時期先進国は(1)スローフード運動(ブラ@北イタリア発)(2)メディアリテラシ運動(オンタリオ@カナダ発)(3)アンチ巨大マーケット運動(各地@米国)に代表される如く、「市場か国家か」という70年代的図式を超克、市場や国家が傾いても中間集団が個人を支えることを大目標とする方向。

これを欧州で「補完性の原則」、米国で「共和政の原則」と言う。中間集団の市場依存と国家依存に警鐘を鳴らす点、機能的等価。だが前者は共同体を、後者は宗教的アソシエーションを軸と見做す点が違う。この機能的等価性を前提に、中間集団主義の自覚的復興を企図するのがコミュニタリアンである。

つまり家族でも国家でもない「我々」への「コミットメント」を推奨(日本の難点)。そうした「我々」のための「命の投げ出し」を推奨する思考。背負いかつ帰還できる中間集団を持たない者を信じない思考。そのために命をかけられるホームベースを持たぬ者が国家を持ち出しても一切信じない思考。

以前の連投ツイートで述べたが、コミュニタリアンは初期ギリシア的な意味で(日本の愚かな通念と違い)右だ。こうした右概念の母体となる中間集団の紐帯がここまで弛緩した国はない。ユダヤ人や中国人などは血縁主義的紐帯。米国は市民宗教的紐帯。南欧は人民戦線的紐帯。英国は御大尽的紐帯。

日本は何か。長らくトゥギャザによる紐帯(柳田国男)。長くトゥギャザを支える労働集約的な農業(や初期重工業)が壞れれば、別の長らくトゥギャザが必要に。だが別のトゥギャザを構想せず中間集団が空洞化。結果、英国3倍、米国2倍、旧西側ダントツ自殺率。東大病院死者の4割近くは葬式出さず。

何度も言う。先進国の中で日本だけが中間集団を空洞化するがままに放置、市場依存と国家依存を強めた。結果が、高自殺率・孤独死・無縁死・ネトウヨ・高齢者所在不明・乳幼児虐待放置…。血縁主義社会や宗教的社会と違い、トゥギャザ崩壊は日本では決定的。血縁や宗教はトゥギャザを必要としない。

80年代後半、日本だけ逆向きにスロットルを踏むのを、当時有名だった日本の地域商店街への欧米視察団は訝る。誰がスロットルを踏んだ? 小沢氏以下国民多勢。これを戦略的選択だったと言うのは無理。日本社会をここまで弱体化させる選択に戦略の価値はない。社会の包摂性こそ最終目標だから。なぜ?

アリストテレス。政治の目標とは? 良き社会の実現。良き社会とは? 豊かな社会でも犯罪なき社会でもなく、有徳な者の数多き社会。有徳な者とは? 「我々」のため命を投げ出す者。「我々」とは? 顔の見える範囲であるがオイコスを越えたポリス的紐帯。つまり政治の最終目標に紐帯維持は不可欠。

対米追従の良し悪しは、政治の最終目標に適うか否かで決まる。対米追従で「有徳な者の溢れる包摂的な絆深い社会」が増進したのであれば是。対米追従で「市場依存化&国家依存化を通じた共同体空洞化」が増進したのであれば非。もう一人の立役者加藤紘一氏はマル激出演で非を認めた。さて小沢氏は?

小沢は戦略的対米追従だったなどとほざく者がいる。ぷっ。その戦略の最終目標って何だ?日本社会をこれほど疲弊させることを手段とする最終目標なんてあるのか?かつて小沢に近しかった議員ら(大抵の議員と十年と続かないが)はどう推測?僕は取材を通じて知っている。ほざく輩は何を知っている?

そう。米国に無理に逆らわなくてもやって行けたのでなく、そう思う馬鹿が溢れていただけの話。田中角栄と小室直樹は「やっていけない」と主張。RT @ledline: 理由は簡単だろ、あの当時は米国に無理に逆らわなくてもやって行けた時代であり本気で逆らうだけの準備も出来ていなかった。

国民の多くが「そう思う馬鹿」だったから仕方ない?そこでウェーバー。政治責任と市民責任は違う。市民の総意と違っても、それどころか脱法行為をしてでも、政治共同体(国家が支えようとする社会)の未来を切り開くべく奮闘するのが、政治責任だ。小沢氏は加藤氏のように政治責任に言及したか?

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(RT @TOGO_Masanaga:宮台さんの最近のツイートをざっと読んだ。現代の日本で考えられる中間集団ってなんだろうな。何をもって「トゥギャザを紐帯」できるんだろう。ツイッターは可能性はあるものの、真の意味での市民的中間集団にはなりえないよなー。国民みんながツイッターやるようになるなんてありえないもの。
スローフードも難しいし、メディアリテラシーが日本で広まるとは想像できない。一箱古本市とか、手作り市みたいな方向性も、やっぱり賢い人たちだけの遊び方に思える。
僕が住んでたイギリスでも、宗教はほぼ日本と同じ壊滅的状況だったし、地域社会なんてのもあんまり機能してなかったが、「階級対立」が厳然と存在したからそこが逆に紐帯になり得ていたと思う。そう考えると、差別ってのは中間集団を生み出すという皮肉な話になるのだな。)

RT @ miyadai: これについてコメントします。…

[承前]かつて解放同盟(奈良)の記念講演会で被差別部落の相互扶助文化の伝統について歴史的な話をしました。後の酒席で、僕がそういう話をすると承知で呼んだ最高幹部クラスの方がこっそり耳打ちしました。「実はそれが文化として自立したものか否か、俺は疑問なんや」「えっ、どうしてですか?」

[承前]「ええか、困窮した身分や階級の連中は、相互扶助せんかったら、そもそも生きていかれんのや。文化として自立してへん証拠にな、被差別がノーマライズされたら、自動的に相互扶助は空洞化するわ。これはな、在日かて同じことや。アンタらの視線は、俺からすると素朴なロマン主義やなぁ」「…」

(RT @togo_masanaga: 僕はヨーロッパ的な中間集団ってこの構造に寄ってるところが大きいから、あんまり日本の参考にならないと思ってるんですよねー。)

いや、そこは微妙です。これから昼ご飯を作るので、後で。

[承前]東郷さん。解放同盟幹部の科白「困窮した..連中は、相互扶助せんかったら、そもそも生きていかれんのや。相互扶助が文化とは言われへん証拠にな、被差別がノーマライズされたら、自動的に相互扶助は空洞化するわ。これはな、在日かて同じことや..」についてです。

[承前]彼の科白は色々教えてくれます。第一に、ブルデューのハビトゥス概念がピアジェ&コールバーグ流の発達的構造化仮説の延長であることの意義。第二に、E・O・ウィルソン流の社会生物学的発想(生物学的環境適応がもたらす余儀なき文化/文化がもたらす余儀なき生物学的環境適応)の意義。

[承前]第三に、ルーマンのいう共生的メカニズム(生物学的基底が開示するコミュニケーションメディア[触媒])の意義。むろん第二項と第三項の「生物学的」は、解放同盟幹部の科白に直接は関係ない。だが例えば第二項について「生物学的」の文言を除去すると、直ちに第一との接続可能性が発生します

[承前]つまりこうです。一定の与件を前提にした環境適応課題[例えば社会的弱者の集合的生存]が文化[相互扶助的諸形式]をもたらし、この文化がそれゆえ新たな環境適応課題をもたらすがゆえに、更なる文化的諸形式をもたらす、というspiralがそもそも文化の一般的実態ではないかと。

[承前]その意味で、社会的弱者の集合的生存課題が文化的諸形式の基底になるとの解同幹部が語った本質は、日本の被差別部落のみならず、また社会的弱者の文化のみならず、文化的諸形式について一般的に言えることではないかと思う次第です。ただし文化の自然的決定説ではありません。

[承前]第一項がそこで効きます。生存課題がもたらす文化・がもたらす生存課題・がもたらす文化・がもたらす…というspiralによって文化が高次化した場合、与えられた「高次化した文化」自体は自然的基底から見て相対的に恣意的なものになるというピアジェ=コールバーグ=ブルデュー的観察です

(RT @yoshihiro256: 難しくて良く解ってないのですが、「卵と鶏」のループみたいな感じがするのですが、そのことと「自然的決定」とのつながりがすこし難解です。)

ループに二種類。(1)自然的適応→文化的形式→自然的…という往還型。(2)自然的適応→文化的形式→文化的…という深化型。ハビトゥス概念は後者です。なので直前のツイートは後者です。

(RT @flyingpiano: ただ、環境適応課題の軽重によって、文化の成立のために投入しなければならない「恣意」の量は変わってきますよね?)

YES。自然的環境適応課題が重いケースが(1)往還型の配合比率が高まり、軽いケースが(2)深化型の配合比率が高まります。

(RT @flyingpiano: つまり彼らの(そして我々の)文化なるものは、環境適応課題の低減を補う恣意の負担増に耐えられるかどうか、という試練に直面しているのではないでしょうか。)

YES。(2)深化型の配合比率が高まった場合、おっしゃる試練が不可避に訪れます。

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